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妄想万歳

2016年09月18日 08:34

結婚して子供のいる自分は物語の主人公になれない、とかいうのを書いてる人がいた。そりゃあ、その人があげてるよーなアニメの物語じゃあ主人公はその子供たちなんだろうけれど、物語という括りでいうなら、どんな物語の主人公だって子供がいようが年寄りになろうが主人公でしょ。もっとも、タイトルだけにケンカ腰になってるってだけのわたしだから、その人の気持ちはわからないではない。

わたしだって、かつて自分が好んで読んでた物語の主人公にゃもうなれないって思ってるし。赤毛のアンとかポーの一族とか他、恋愛漫画・小説などといった類の物語たち。50代になっちまったおばちゃん、いやもうすでにおばあちゃんの域に突入した自分はそんな物語の主人公にはなれない、間違いなく。まあ、なりたいとも思わないけどね。

まだ少女の頃、そうだなあ、高校生くらいまでなら、物語のような生き方をしたいと強く思っていたものだけど、社会に出て、生きていくことの難しさ、自分の社会性の無さを痛感するようになっていくと、物語のような生き方なんてとんでもないと思うようになっていった。物語のような生き方をする人も現実にいるわけで、そういった人たちの波乱万丈な人生は、本当に大変なものなんだってわかるようになっていくんだわ。だとしたら、そういうのは現実ではまっぴら、けど、退屈な人生だけもつまんない、というそういうワガママな欲求を満たしてくれるのが、物語であると思うようになるわけで。つまり、物語のような主人公に疑似体験ができるのが、読んで楽しむ物語たちとなる。

妄想万歳。

結婚して子供がいる主人公の物語も巷にあふれてるよ。わたしが最近好んで読んでるハーレクインの物語はそういうのが多い。そういうので疑似体験して楽しむのもある意味物語の主人公になったようなもの。そんなふうに楽しく生きていくことが、今のわたしの生きがいかな。
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生きてさえいれば

2016年08月16日 08:49

とある人の書いた記事を読んで、その「騒動」は見守ってたわけじゃないけど、似たような物語をゲクトで書いたこともあって、今見てるこの人の書いた記事(リンクはしない)を読んでたら、ああ、あの話でもあったよなあ、告白しちゃダメや相手に告白しようとしたキャラの話。まあ、わたしの書いたものは告白することはなかったけれど、結局は愛する相手のことを守るために命を落としたという話にしたわけで、ああいった愛する人を守るために命を落とすことって現実にもあるはず。

で、記事を読み進めてたら、今度は別の作品のことを思い出した。ちょうど今読み返しをしてるJETさんがアマンダ・ブラウニング原作で描いた「罠に落ちた秘書」という作品。たとえとしてはまったく重なるところはないけれど、この作品に出てくるキャラが愛していた人に冷たく拒絶されて生きていけないとなって自殺してしまうんだけど、そのせいで、自殺した男の親友が拒絶した女性に復讐をするという物語。というのは表向きのこと。真相は違っていて、これも冷たく拒絶した女性は、愛する人を守りたいがために拒絶したわけで、自殺さえしなければ、いずれは真相がわかって幸せになれるはずだったんだよね。つまり、自殺した人は心が弱すぎた。これが別の誰かであったなら、たとえば、自殺した人の親友の男であったなら、裏切られたことで絶望して自殺なんかせずに、裏切った女性に復讐するために生き続け、いずれ真相を知って和解するということもできたはず。だから、酷なことを言うと、一連の騒動で誰に非があるかとしたら、わたしは自殺した人に非があると思う。自殺したことで、自分も不幸にする上、さらに自殺した人の親族、友人も不幸にし、そして、愛していたはずの相手をも地獄に突き落とす。人は拒絶して誰かに顛末を話した相手に非があるというだろうけれど、それはあるけれど、彼だけじゃない、非があるのは。自殺してしまう人はたとえ相手が誰かに顛末を話さなかったとしても、いずれは自殺してしまったんじゃないかと思うよ。自殺しそうになった過去のある自分が言うんだから間違いない。だから、話してしまった人にも非はあるだろうけれど、自殺してしまった人のほうが一番非があると思う。

生きてさえいれば、いつか自分を受け入れてくれる誰かが現れるはず。もしかしたら現れないかもしれないけれど、生きていればそれでも可能性はゼロじゃない。だから本当は死ぬべきじゃないんだ。そうは言ってもこう言っているわたしであっても、死にたいという気持ちから逃れられない。今はまだ大丈夫だけど、一線を越えてしまう危うさはいつも抱えている。だから必死になって現実逃避としてのハーレクインのマンガがあるわけで、それらは今のわたしを確実に救ってくれてるんだよ。強くあるために。

読ませてよ

2016年08月13日 09:26

こんなわたしにも諦めずずっと関わってくれる人いるよ。過去に「みんなあなたのそばからいなくなるよ」と捨て台詞残していった人もいたけど、そして、それは確かにそう言われてもしかたないことをその人にわたしはしたから、そんな捨て台詞を言われるわたしもわたしではあったけれど、それでも誰もわたしの傍からいなくなることはなかったんだよね。一人でもちゃんとずっとわたしの傍にいてくれる人がいることは自信を持っていいと思えるようになった。それは、わたしでもそれなりに努力していると感じ取ってくれたからであり、わたしだってわたしなりに関係を持続させようとしているわけ。ただ、極端に自分を曲げて自分を変えてまでの努力はせずに、自然体に「わたし」でいることが基本で、あんまり昔と変わったというわけじゃない。なぜなら、昔のそのわたしであっても「好きだよ」と言ってくれた人がいたわけだから、それを基本にしてないと「わたし」がわたしじゃなくなる、いったいあんた誰だよっていうことになってしまうからね。要は、あの頃のわたしを好きだと言ってくれた人で、その後に嫌いになって離れた人っていうのは、最初からわたしを好きではなかったということ、好きだと思っていたのはその人の勘違いだったんだと思うよ。わたしは「好き」はずっと「好き」だし、どんなに酷いことされたとしても今でもその人のことは好きだもの。

これからもゆっくりとでいいから読ませてね。そう思ってる人は他にもきっといるはずだよ。

トキメキをください

2016年04月03日 10:56

今年に入ってから毎月のように病院にお世話になることがあって、最近の体調不調も何となく以前に覚えのある感じだよなあと、2002年の日記を読み返しています。あの時の不調もいろんな検査してもらっても原因がわからず、最終的に婦人科で、どうもホルモンバランスのせいだとなったんですけど、恐らく、今回のこのもやもやした不調もそれじゃないかと思っています。

やばいです。更年期障害なのかも。(笑)

これ、楽しいこと考えたり、トキメキを持つとか、そういうことでしか乗り越えられないと聞きました。まあ、あまりにひどい症状ならば婦人科で薬など処方してもらって治療をしないといけないんでしょうけど、わたしのはそれほどひどいわけじゃない。気の持ちようで少し浮上したりするわけだから、わたしの気持ちひとつで何とかなるのかなあと思っています。それもあっての日記の読み返しなんですけど。ただ、そのせいで小説の続きが書き出せてない。どうにかしないとなあ。今年中に書き上げたいのに。

で、蛇足ながら、当時、地元の新聞に掲載していただいた文章の一部を以下紹介。(笑)

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人というものは、いつか必ず死に行くものです。とはいえ、今回の義父の死はこれまでにないほどの衝撃を私に与えました。様々な事を考えさせ、そして、私と孫を一番かわいがってくれた義父であるので、とても悲しく思ったものです。
もちろん、私などよりも血の繋がった息子である夫が、そして妻である姑が一番辛い思いをしていることはわかっているのですが、私は義父に気質が似ているところがあるので、おこがましくも一番義父の気持ちを理解することができると信じています。
今はただ、年の暮れをひっそりと過ごし、義父との短い思い出を思い起こそうと思っています。そして、来年何が起こるかこれもまたわかりませんが、きっとまた夢を追い続け、何かしらの創作活動はしていくことでしょう。ただ、精一杯生きていこうと思っていることは確かです。まだ幼い息子のためにも、愛する家族のためにも。

皆さんにも明るい年が訪れますよう、心から願っております。いつも応援してくださる顔も知らない人々、私の拙い書き物を心待ちにしてくださる人々に支えられて、私はこれからも死ぬまで書きつづけていこうと思っております。本当にありがとうございました。そして、これからも何卒よろしくお願い致します。

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今回はわたしの血の繋がった父の死ですから、義父よりも悲しみは大きくなるはずだったのですけど、父の場合は長くないなという予感はずっとあったので、死んだと聞いた時も、衝撃や悲しみよりも、ああ、とうとうきたか、程度で、そんなに自身の心に打撃を受けはしなかったと思います。でも、時が過ぎるにつれ、昔のことを思い出すことが多くなってきた昨今、あの時、傍らにいた父がもうこの世のどこにもいないのだと思った時、何ともいえない気持ちになることをとめることができません。悲しいとも辛いとも言えない、いえ、言えるのかもしれないけれど、どうもこの感情がどういったものかをうまく表現できないもどかしさを感じてしまう。それは、何人かの死んでいった知り合いの人たちのことを思い出す時に感じる気持ちと同じなんですよね。

やっぱり、人の死、とくによく見知った人の死は引きずられます。引きずられたくないと思っていてもどうしても。
困ったな。
楽しいこと考えたいのに。
トキメキを感じたいのに。
昔だったら、夢にガクトさん出てきて慰めてくれたのになあ。(笑)
てか、最近でもガクトさん夢に出てきて、ほんわかいい気分になったんだけど、いかんせん、内容を思い出せなくて悔しかった。
ガクトさーん、また夢であの歌うたってくださいよー、耳元で。(笑)

ぐれあむぺんぎんはここで書いてます(笑)

2015年11月24日 11:09

とある人のブログ記事を見て思い出したことがある。昔、サイトで日記を書いていた時に、自分は器が大きくてよかったというようなことを書いた。それはつまり、自分はどんな創作物でも受け入れられるということ。その頃のわたしは同性愛物にはまっていた頃で、そんなふうにどんなものでもオーケーという表明が、そういったものに嫌悪感を持っている人を傷つけたことがあった。わたしは受け入れられない人のことを否定したつもりはないけれど、ただ、自分の書いたものをその人には読んでもらえないということに少なからず腹立たしくも思っていたこともあり、結果的には「創作する人がそんなことではいけないんじゃないか」と突きつけてしまったことで、わたしたちの友人関係は破綻した。今思うと、当時のわたしはほんと考えなしだったなあと思う。まあ、あの頃は、自分の書いた一般作品より、別名で書いていた同性愛物の創作物のほうがいいものを書いているという誇りがあったので、どうしてもその自信作を読んでもらえない、受け入れてもらえないことを理不尽に思ってしまったからしかたないことではあるんだけど。

だから、この記事を書くきっかけとなったとある人のブログ記事を読んでいて、その人も自分とは違う人のことを否定しているということを書いてはいないのだけれど、どうしてもその記事は、その人と違う考えの人のことを否定しているように思えてしまう。きっと、これが、当時のわたしの書いたものに対して「否定された」と友人が思ってしまった理由なんだろうなあ。そう思うと「書く」という行為は、どうしても誰かの逆鱗に触れてしまうことであり、どうしようもないことなんだなと思う。だから、どんなに「自分は自分と違う考えの人、違う嗜好の人を否定しているわけじゃない」と言ったとしても、書かれていることで「否定された」と相手が感じてしまったら、それはその人の読解力のせいだと非難することはできないよね。「否定された」と感じられない文章だって書く人もいるわけだから、結局は自分の文章能力の未熟さで、自分の思いが相手に伝わらなかったということなんだよ。

ああ、まさにわたしがそういう物書きとも言える。自分の言いたいこと、伝えたいことがどうしても相手に理解してもらえない。それで破綻した関係がいくつもあった過去をわたしは持っているから。本当はわたしなんてこんなふうに日記で自分の思いや考えを書くべきではないのかもしれない。書けば書くほど、わたしの思いは一人歩きをして悪い方へ向かってしまうのだから。でもまあ、今はもう誰かがわたしの書いた物で誤解をしたとしても、それを昔のようにわざわざ突きつけてくる人もいないから、好きに書いていけるというのもあるな。誰かは誤解してるかもしれないけど、それをわたしが知らない限りはその事実はわたしにとって事実ではなくなる。そう思うことで、わたしはこれからも好きに書いていける。そんなことを思ったこの場所も今年の夏で10周年。ここまで続くとは思ってなかったなあ。まあ、途中休止してた時もあったけど。それにしても「アレが落ちた日」を書いた時はまだ仕事についてなかったんだよね。でも、今の仕事についたのも2005年12月だったわけだから、今の仕事場も勤めて10年というわけだ。ほほー続いたなあ。そんなに続くとは思ってなかった、ここと同じで。(笑)

これからもこんなわたしですけど、なにとぞよろしくね。

書籍化

2015年09月26日 08:58

きんどるっていうんですか、あれで本出したという話はチラホラ聞きますけど、ああいうのでの書籍化っていうのにわたしは興味なかった。以前、どこぞの投稿で自費出版しましょうよって言われて、それが長編だと何百万と聞いて、それはちょっとなあって思ったし、やはり賞でもとってタダで出版してもらうのが夢ではあったんで、自費出版という形では出さない、出すとしたら手作りで作って親しい人に配るのがいいと思って、大型のホッチキスを買った過去のあるわたしです。

で、このFC2でも自費出版というものができることは前から知ってたけれど、それほど興味を持ってたわけじゃなかった。ところが、友人がそのFC2で本を作ってプレゼントしてくれたおかげで、わたしも自費で本を作ってみたんだよね。一冊でも作ってくれるっていうのが魅力だった。確かにその一冊はけっこうな高額ではあるんだけど、誰かへのプレゼントとして捉えればそんなに高額とも思わないわけで。こりゃいいなあと思って、ゲクト作品を書籍化したわけです。まだサイトでは公開してませんけど、ゲクト作品の新作も書きました。それを加えての友達へのプレゼントです。で、現在、さらに今度こそ最後の最後となるゲクト作品を執筆中。それが完成したら、それも加えて完全版をガクトさんご本人さんに送りつけてやろうと思ってます。待ってろ、ガクトさん!←なにケンカ腰になってる(笑)

さて、そのゲクトシリーズですが、現在執筆中の前に書いた未公開の新作を公開するのと同時にプチリニュします。まあ、待ってる人もほとんどいないと思うので、こんなところで宣伝せずに、サイトのブログに書けばいいんだけど、そっちは公開時に感慨深く書くつもりなんで、楽しみにお待ちください。(いや、誰も待ってないんだろうけど←明日変わらず自虐的)

願い

2015年04月04日 22:25

むしろわたしは物語しかほしくない、かな。
だって、その物語を夢に見ながら死んでいきたいんだもの。
子供の頃から物語があったおかげで生きてこれた。
物語がなかったらとっくの昔に自らの生を終わらせていたと思う。
物語だけが現実。そんな感じ。

自分のためだけに

2015年03月22日 08:09

『「ねぇ 少し読んでいってよ 私はブロガー」
楽しませたいんだ ただそれだけで いつだってキミの見せる笑顔の種を 僕はずっと探してる。
巡回中のmy heart 喜怒哀楽 守り続けたマイルールも一瞬で変えちゃう キミが大嫌いだ
なにげないキミのブコメで まだまだ頑張れちゃう程度に単純です
描く理想の僕と 少し違っていても キミがつけたスター 嬉しいから

特に書くこともないので最近お気に入りの曲に少しだけネット風アレンジして書いてみた。この気持ちすごく分かる。ブロガーは、好きな人の笑顔を見たいだけだったりするんですよ。』


↑はまなめっちの日記からの転載。たぶん半永久的に消えないわけじゃない、今までがそうだったから。ということで転載させてもらった。

好きな人の笑顔が見たいから、か。それはすべてのブロガーがというわけじゃない。それはきっとまなめっちもそう思ってることだろう。少なくともわたし自身は誰かの笑顔のために書いるわけじゃないから。何度も言うけど、わたしはわたしのために書いているから。それに、わたしは傷つけるために書いた過去もあったりするから、ほんとにわたしはろくでもないブロガーなんだろうな。

こんなこと書いてる場合じゃないんだけど

2014年10月25日 22:06

ほんとはね、本家ブログで連休のことを書こうと思ってたんだけど、いろいろとありまして今日は書く時間が取れませんでした…と言いつつこんなもん書いてる。ならば、こんなこと書かないでそっち書けよと自分でも思ったんだけど、まあ、連休の話題はわたしにとって大切な思い出であり、やっぱそれなりの覚悟(何言うてんだか)で書きたいわけよ。けど、こっちの話題はまあいわば脊髄反射。つーことで、なんか言い訳しつつえいっと書いちゃう。(笑)

とあるブログを読んでたら、「お前ら好きなエントリはちゃんとローカルに保存しておけよ!」とタイトルで叫んでた。ここまで書きゃリンクすりやいいんだけど、まあしない。記事に言及というよりは、書かれてることで、ああ、そうだよなあ。わたしもそう思うよ、けど、昔のわたしならいざしらず、今のわたしは他人の書いたものはローカル保存するほどの文章に出会えてないよなあ、と。ただ、過去に消えてしまって悔しい思いをした文章が、それが自分の書いたものであるということがいまだにトラウマとなってるよなあ、と。

これ何度も今までに書いてきたことなんだけど、2003年だったっけ、8月くらいから11月くらいまでの日記ログが完全に消失してしまったことが、今でもほんとーに残念でならなくて、どうにかして取り戻せたらなあ、今、もし選択シーがあったら、その時に戻してもらってログを何とか今の時間に持って帰れないものだろうかと考えてしまってるほど、それほど、あのログが消えてしまったことが悔しくて悔しくて。

今、子供の頃の日記からウェブで書き出す頃までの日記を編集している最中だけど、どうしてこの頃に日記書かなかったんだろう、とか、もっとそれについて詳しく書いときゃよかった、とか、そんなふうに思う頃のこともあったりして後悔したりすることもあるんだけど、それはまあ、実際には書かなかったわけだから悔しくても多少は納得はできるわけ。けど、ちゃんと詳しく書いたものがなくなってしまったというのはどうしても自分の中で納得ができないわけなんだよな。そういった執着はあんまりよろしくないとは思うんだけど、その消失したものが今でもけっうよく書けてたとわかってるものだったりすると、さらに余計に悔しくて悔しくて。それをもう一度読み返したいと切実に願ってしまうほどに。

わたしは自分の書いた物はウェブにもあげてるし、ローカルでも保存してるし、いろいろ保存はしてるわけだけど、それは昔もそうだった。ただ、その消失した時はほんとに運が悪くて、ローカルというかディスクに保存したあとにウェブ上のログを消したあと、ディスクがウィルスに感染してしまったために、どうしようもなく消えていくのを眺めているしかなかったという。ほんとに運が悪かったんだよなあ。今でもその頃の日記は読み返してみたいという気持ちはある。ちょうど、旦那さんがパン屋さんに勤めてた頃のことで、その頃書いてたものをむしょうに読み返したくなる時があるんだよね。あまりいい日々ではなかったその頃なんで、最初はいい思い出のない時期だから、神様が忘れてしまえと言ってんだとムリヤリ納得しようと思ったんだけどねえ。やっぱ無理だった。読み返したい、ほんとに。

わたし、ほんとに自分の書いた物が好き過ぎる。何度も何度も読み返してもまた読み返したくなる。

あの時の日記、ちゃんと存在してたのに…今はもうどこにも存在しない。

もちろん、この記事もこれ書いたあとに保存するよ、うん。(笑)

検索は便利

2014年02月18日 22:54

エレニさんのブログで知ったことなんだけど、坂東眞砂子さん亡くなったんだってね。確か「死国」を見たよなあと思って、いつだったかなあ、ちょっと思い出せないなあと、検索してみたら映画化されたのは1999年だった。とすると、見たのはそれ以降。わたしがネットでなんやかや書き出したのが2000年からだから日記に書いてあるはずだと思ったんだけど、困った、検索かけようにも今のパソではやり方がわからない。昔はパソ内のデータ検索、時間かかってもできてたんだけどなあ。なので、今は非公開にしている昔の日記が掲載されているブログにログインして検索かけてみた。出てきたよー。「死国」3件ヒット。2000年の2月と3月。そして、2006年8月。でまあ、2006年のほーは猫殺し関連のことを書いてた。ということで、れっつらリンク。

2006/08/21 (月)

それにしても、今はHTMLで日記を掲載しているわけだけど、それは、たとえばもしわたしが長生きした場合、もしかしたらネットができない環境になってしまう恐れがあるから、ブログではなくHTMLにしてあれば、ネットに繋がなくてもパソさえあれば自分の書いた物を読み返すことができるからなあと思ったわけだけど、ブログのいいところは、ブログ内検索で探しているものを探せることだよなあと。今回の「死国」を見つけられたのはそのおかげだし。そう思うと、ブログにも掲載しておくべきだよなあとなるんだけどね。ネットをできる環境のうちは。ブログに掲載してあるのは2007年まで。そこまでは検索できても、それ以降はできない。2008年以降は完全にHTMLの分しかないし。ただ、もうわたしもそう長くはないような気もしないでもないんで、さすがにブログにも同じものを転載するっていうの、そういう時間がもったいないしなー。



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