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わたしの好きは

2016年04月05日 08:43

「好き」を表明するハードルなんて、低ければ低い程いい: 不倒城

しんざきさんが言っていることと少し違うのかもしれませんが、わたしも昔から好きな作家やアーティストに対して自分の好きな気持ちをとうとうと語るほうで、どちらかというとわたしの好きはミーハーな感じなので、他のファンの人たちからはけっこう批判的な目で見られていたものでした。ガクトさんに対してもなんですけど、中島さん(栗本薫)のことで熱く熱く語っていた頃は、わたしは作者をダメにするファンというレッテルを貼られたりしてました。作者をダメにするファンって何だよと当時だけでなく今でも思ってますが、その人たちがそう思いたい気持ちも、今はわからないではないです。その人たちにとっては変化する前の作者の作品が好きであったのだから、それを変えてしまったかもしれないファンを認めたくないというのもしかたないかなあって。まあ、わたしだったら、自分の好みだった作者が変わってしまって好みじゃなくなったら、とっとと見切りつけてその作者からは離れて、新しい好みの誰かを探しますけどね。で、それを「本当の好きじゃない」と言われてしまったりするんでしょうけど、別にいいじゃない。好きに嘘も本当もないでしょって。好きは好きなんだからさ。

ただ、最近では、昔、日記でガクトさんや中島さんのことを取りあげて、どれだけ自分がその人たちの作り出す作品や世界観や考えを好きなのかを語り倒していたのですけど、今はほとんどそういうことをしていません。中島さんは亡くなってしまったし、ガクトさんに至っては、好きという気持ちはなくなってはいないけれど、昔ほどの熱狂的な思いはなくなっていると自分でも感じています。ガクトさんのことを語り倒すことが今はできない。時間的にも無理ではあるんですが、時間がなくても語りたくてしかない場合は語り倒すのがわたしであるので、やっぱりそれほどの気持ちが今はないということなんでしょう。それでも、実は語りたいとは言わないまでも、最近好きになってきた作者さんたちのことを「この人好きなんですよね。これこれこういうとこが」とちょっと語りたいという気持ちも出て来てはいるんですけど、なかなか書けない。中貫さんのことは書いてるんですけど、他にも何人かいるんですよね、作者買いをしている漫画家さん。その人たちの作品がどうして好きなのかを昔のわたしだったらしつこいくらい日記で書いたと思うんですけど、やっぱ少し「あなたは作者をダメにする」と言われたことがトラウマになってるのかもしれないなあと思ったりしてます。

まあ今は、とにかくガーディアンを完結させることを考えなくてはならないから、何かについて語るというのもそれからになりますけど。てか、これ、本家のブログで書けばよかったかな。しんざきさんの記事にほとんど関係ない内容となったから、それ外して本家に転載しとくか。(笑)
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死にたいと思うわけ

2016年01月31日 08:16

「死ぬ瞬間、最も辛い病気は何か | mixiニュース」で見たのだけど、その痛みの王様である急性膵炎にわたしもなったことがあった。あれって激痛過ぎて、それを痛みと言うよりもショックと言った方がいい感覚だったよなあと、後で思い出してみると思ったものだったな。何かで内臓を殴られたような痛みというか、そんな感じ。そうか、わたしもあのままだったら死んでたんだなあって。

去年の今頃も、そして今回も、腸感冒になったわけで、去年もだったろうなあと思うんだけど、今回も「こんなにつらいのなら、いっそ死なせて」と願うほど苦しんだ。たかが腸感冒と他人は言うだろうし、自分自身だってそうは思う。自分、今までにももっとつらい症状、もっとつらい検査だってしてきたわけで、それに比べたらと他人も自分も思うんだけど、痛みとかつらさの度合いなんて人それぞれで、ハードルが低すぎる人間にとっては、どんな痛みでも耐えられないんだよね。でもまあ、症状がよくなると、死にたいと思ったことなんて忘れたようにケロッとしてるわけだけど。で、わたしもきっと、これからも死ぬまで似たような経験で、痛みやつらさのたびに「死にたい」「いますぐ死なせて」とか言いつつ、生きていくんだろうなあ。

コメントにも書かれていたように、たぶん死ぬ瞬間は痛みは感じないんだろう。けれど、それまでの痛みやつらさがどれくらい続くはわからないし、一瞬にということはほとんどないと思うから、死ぬ瞬間がどうのこうのなんて意味ないよね。ようは死ぬまでのあの痛みやつらさをどうにかしてなくしたい、それがどうにもできないのなら、もう少し短くしてほしい。それが誰にもどうにもできないとしても。そうじゃないとそうした地獄を感じる前に自らの命を絶ってしまいたい。ほんとにそう思う。それくらいあの痛み、つらさをどうしても感じたくないとわたしは思う。わたしにとってはあれは耐え難い経験。どうして神様はそんな体験をわたしにさせるんだ。そんなにわたしのことを憎んでるのかって思いたいほどに。なんてね、思うに今までのわたしの所業のせいで、こんな経験をさせられてるんだろうなあ。それくらいわたしは罪深い人間なんだろう。自業自得ってことで。

何回も見た映画ねえ

2015年11月09日 10:35

2015-11-07 - すべての夢のたび。

『ネタが思いつかなかったので、はてなブログにの新機能「お題スロット」を回したら(無料)、何回も見た映画というのが出ました。』


みっちーはハルヒを10数回、エヴァを10回、マギカを39回見たと書いてます。すごいなあ。そこまで見た映画ってわたしにはない。ただ、短期間で何度も何度も繰り返し見たDVDがわたしにも過去にあったなあと思い出したので、ちょっと書いとく。それは「千と千尋の神隠し」別にね、ものすごく好きな映画というわけじゃないんだけど、なんか5回以上見たって、昔、日記に書いたよなあと思い出したんで。てか、この話、以前にも思い出していつ見たっけと探そうとして苦労した覚えが。(笑)で、やっぱり今回も苦労した。時は2002年の7月26日なもんで、まだはてなダイアリには転載してないんだよね。なので、ティカップブログに久々にログインして探し出してきた。確か、息子に付き合って見続けた覚えがある。そこらへんの理由は書いてなかった。ただまあ、ジブリの作品は、ついついテレビでやると見てしまうよね。

意味なんかない

2015年05月11日 09:31

『年を取ると言うことは平凡で何の取り柄も無い自分を受け入れる作業です。』


↑の言葉は「一人前の消費者になるにはまだ早すぎる : web-g.org」に書かれていたことですけど、あーそーだよなーともうすぐ52歳になろうとしている今の自分はひしひしと思うようになった。まあ、結婚した26歳あたりからもうすでにそういう思いは持ち始めていたわけですけど。

わたしは自分で言うのもなんですけど、子供の頃は周りから高い評価を受けてたのね。美人だとか頭いいとか、とにかく将来が楽しみとか、高校の時なんか先輩から「いつか何かでっかいことするんじゃないか」とか言われたこともあったわけで。そういうことを言われ続ければ、自分もまた絶対将来は有名な人になったりするかもねーなんて思い込んだりするのはしかたないよね。でも、努力するのが大嫌いな自分が、将来成功するわけがないというのは今の自分はよくわかってるんだけど、当時の自分は努力なんてしなくても、好きなこと好きなようにやってればそれが成功につながるんだ、きっとそうだ、うん、そうに違いない、やっほー、となる。まあそれくらいお気楽でおバカな人間だったわけ。それは今でも変わらないんだけどさ。そりゃ、努力なんてしなくても、どんどん運とか何とかそういう何かで成功する人もいるだろうけれど、それはほんと一握りの人だけで、それに自分が入ってなかったら、そらー努力もしない自分が成功なんてするわきゃない。でまあ、だんだん、これは自分はごく一般のふつうーの人間らしいぞと気づいていくわけで。でまあ、今はそれなりに、そういった自分を受けて入れていくのが今の自分の幸せにつながるんだろーなーと思い始めているわけ。今のわたしはもういかに最期まで幸せに生きられるか、いかに楽に死ねるか、それだけを念頭に生きているって感じです。

いつの頃からか、生きることは何の意味のないことなんだと気づくようになった。意味を持たせることが悪いことじゃない。ただ、自分の幸せにとって、そういう何かの為に何かの意味を持たせることはイコール幸せには繋がらないなあと思うようになった。それより、漫然と生きて漫然と幸せを感じる。そんなゆるゆるな生き方だって別にいいじゃんって。それを他人にはとやかく言われたくない。でも、それでも、心の中の不安感はなくならないみたい。この間テレビでやってた、歯ぎしりする人はストレスがあるからだって。いまだに歯ぎしりがなくならないわたしは、どうしたってストレスからは解放されないんだなあと気づかされる。まったくストレスがないのもよくないとは言うけれど、そのストレスで歯ぎしりがなくならないとしたら、せめて歯ぎしりしなくなるくらいのストレス軽減を願うけれど、そのストレスはやっぱ努力の末でないと手に入らないものだと思う。もうこうなるとどうしようもないよね。

他の死に方がいいなあ

2015年03月29日 08:32

昨日、ここにも書ければよかったんだけど、別の場所で感慨深くちょろっと書いた。あれから一年。息子のこともだけど、今日は「あなたはきっと癌で死ぬ!? - xevra's blog」を読んだから、わたしの母のことを思って「あれから一年」とも思う。

男二人に一人、女三人に一人って、ほんとそうだよなーとも思う。今や、近所のあの人この人とほとんど石を投げればガン患者に当たるっていう感じで、一家に一人は必ずいる病気だよなあ。友人のほとんどが両親のどちらかをガンで亡くしてるし、うちの旦那さんの父親もガンだったし、わたしの母もガンになったわけだし。

でまあ、あれから一年。(苦笑)

うちの母親はステージ4だったわけで、すぐに手術ができない状態だった。それが去年の今頃の状態。あの時は、息子のこともあって、母のことを心配に思いつつも、それどころな精神状態じゃなかった私。息子のことが何とかなったのちに、やっと母のことに思いを馳せることができたのが4月5月くらいになってからだったな。ガンの大きさがどれくらいだったっけ、こぶし大だったように思うんだけど、それでしばらく通院でガンが小さくなれば手術をということだったんだけど、これがほんと手術できるくらいまで小さくなったんだよね。で、8月だったっけ、手術したわけで。それから今まで、まだ何とか生きてる。なんというか、そういう病気だったとは思えないくらいの元気さではあるんだけど、病気してない時のパワフルさを知っている娘としては、やはり往年の母とは違うなあと思わないでもない。そりゃ、ずっと治療は続けていかないといけないわけだからねえ。昔のようにはいかないよ。それでも、ステージ4と診断された母とは思えないくらいに今もまだちゃんと生きている。そりゃ、年のこと考えれば、いつどうなってもおかしくない年ではあるんだし、覚悟はしてなきゃいけないんだけど、それでもね、やっぱ正直な気持ち、わたしのほーが先に逝きたいと思う。わたしはそういう親不孝な人間。

人間、誰でもいつかは死ぬ。それは避けられない運命。だとしたら、痛くなく、苦しくなく死んでいきたい。眠ってる時に幸せな夢を見ながら死んでいけたら、それこそ最高の最期なんじゃないかなあと思う。同じ死ぬなら、わたしはそうやって死んでいきたいな。

死にたくなったら聞く歌

2015年01月31日 16:30

フェイスブックですーさんが取り上げてたべにぢょさんの記事を読んで、実にタイムリーだなあと思って、れっつらリンク、あーんどカキカキ。(笑)

「死にたくなったら見る」フォルダ - べにぢょの日記

さっきまで書いていた小説の一節を以下書きます。(いきなりなにをっ)

「あたし、これからも頑張れるよ。あなたが歌ってくれたおかげで。ちゃんと生きれる気がする。ああ、あなたと同じ時代に生まれて本当によかった。あなたに出会えて、あなたの歌に出会えて、心からそう思う。本当にありがとう。これからどんなことがあっても、今日という日を忘れない。あなたに抱きしめられたこと、歌ってもらったこと、全部があたしの宝物であり、あたしがこれから生きていくための原動力になるもの」

ちょっとだけ改変してあるんだけど、それはわたしが今どんな小説を書いているかをぼかすため。まあ、ピンとくる人は何人かいるかもだけど。(笑)
わたしはガクトさんの歌「君が追いかけた夢」を死にたくなったら聞くだろうなあ。もっとも、それだけじゃなく、他にも死にたくなったら見るもの聞くものいろいろある。それはわたしだけじゃなかったんだなあ。べにぢょさんもそうなんだ。まああたりまえか。

ブログとは、かー

2014年12月20日 09:11

「そもそもブログとは一体全体なんですかという話 - 無要の葉」という記事に、まなめっちがこんなコメントを書いていた。

『ブログとはコメントがあって、トラックバックができて、RSSをはくものです。システムです。この三条件を持たないのはブログではないと未だに思ってる。』


前に、ゆうさんが書いていた日記を「日記を更新してくださり…」ではなく「ブログを書いてくださり…」というようなことを 掲示板に書いている人がいた。それを見た時にわたしは、あれはブログじゃなくてただの日記じゃんと思ったんだけど、思うに、コメントやトラックバックはできなかったけど、たぶんRSSは吐いてたんじゃないかなあ。あと、今わたしが編集画面でテキストを書いてる方法で日記を書いていたと思うんで、間違いなく、あれもブログというものなんだろうな、と。それはガクトさんのブログもそう。ガクトさんのはトラックバックはできなかったけど記事毎にコメントを書きこむことはできたしね。そう考えると、今までのわたしは書く内容でブログかそうでないかと分けてたみたいだけど、そうじゃなくて、書かれている内容じゃないんだなあ、コメントを記事毎に書けるか、トラックバックができるか、RSSを吐いてるかで考えるべきだった。まなめっちのコメントで目からうろこ。

うーん

2014年11月16日 09:07

これ読んで思ったこと。

「一点の曇りもないブログ」ってどんなブログだろうって。まあたぶん人によって違うんだろうな。あたりまえか。(笑)

迷惑かける勇気を持とうよ

2014年08月30日 16:25

「鬱病の人って自分のことしか考えないね」

もちろん病気だから休んだりするのは、別に会社が許せばいいと思うんです
ただなるべく迷惑かけないようにするのは社会人として当たり前ですよね
鬱病以外のケガだったり病気の人はこの辺しっかりやって休んだりしてます

鬱病の人って医者に止められてるのでー、とか全く悪びれなく言うよね
診断書を持ってきてそれを印籠のように使って、休んだりリハビリとか言って特に仕事もせずに帰られると誰だって感情的になります
ネットの書き込みを見ても仕事休んで迷惑をかけてる意識が全くないように見えます
鬱病を理解してないだの、自分が鬱病になったらどうなんですかねー?とか言うひとりよがりの意見

そういう自分のことしか考えないのも鬱病の特徴だったりするんでしょうか
鬱病のこと理解してなくてすいません


またしても転載。(笑)

まあ、わたしもうつ病のことに詳しいわけじゃないんだけどね。だから、身近にいる患者さんのことでしか語れないんだけど。わたしの仕事場にもいるよ、うつ病の人。確かにいったん休みだすと何ヶ月も仕事に出てこなくなることがある。でも、ふだんはまったく休まない。他の人で親族間の都合や旅行、法事などでちょちょく休む人もいるけど、そのうつ病の人は自分の病気以外のことではまったく休まない。そして、わたしが今の職場に勤めて何年もその人がそういった病気であることは知らなかったし、上司や同僚たちもまったく知らなかった。初めての長期の休みで知ったくらいで。どうやらその人は病気のことは知られたくなかったみたいだよ。それを知った時、本当のうつ病の人っていうのは、おそらく他人に自分の病気のことは知られたくないって思うんじゃないかなあと思った。だから、この増田が書いてるようなうつ病の人は真性のうつ病じゃないんじゃないかな。で、そういった偽うつ病の人のせいで、本当にうつ病で苦しんでいる人たちが偏見の目で見られてしまうんじゃないかなあって。

うつ病のことをうつ病の人は他人に知られたくないのであれば、本当のうつ病の人が実際にはどういった人なのかはなかなか知りようがない。だから、どうしたってこの増田みたいに「うつ病の人は自分のことしか考えてない」と間違った考えを持つことにもなってしまうわけだ。自分の事しか考えてない、かー。わたしたち病気じゃない人たちだって同じだよなあ。自分のことしか考えてないっていうのは。てか、自分のことしか考えてないっていうののどこが悪いんだろうか。他人に迷惑かけないっていうのがどれほどのもんだよってわたしは思う。人はどうしたって迷惑かけなくちゃならない時もあるのだから、もっと迷惑かけることに寛容にみんながなれば、もうちょっと暮らしやすい世の中になるのにねえ。多少の迷惑ならいいじゃないかって思えるようになりたいよね。そうすれば、うつ病の人もいなくなると個人的には思ってたりする。

どんなことでも書いていいよと言われたい

2014年08月29日 11:12

「人生を切り売りするってのは周囲の人を切り売りしていることに等しい - novtanの日常」

あんまりこういう界隈にいる人達に会いたくないなって思うのはそういうところもあって、会うとなんだか「隣人」になってしまう気がするんだよね。オフレコ感がないというか。

例えば所属が割れている人がさ、「最近面白かった同僚の行動」みたいなのを書いちゃうわけじゃん。いやそれ誰のことだかバレバレですからみたいになるじゃん。

だから人生切り売り芸の人が周りの人たちに大きな影響のあるようなネタを書き始めるとイライラする。お前がお前の人生を切り売りするだけなら良いんだがそれは他人の人生の一部だ。みたいなね。

もっとも、日本の伝統的な売文業においては他人の人生を切り売りすることがよく行われていたわけで、伝統芸能とも言える。ただ、歴史に残る芸術としてではなく、ネットの片隅でゴミのように漂着してしまうような売られ方は売られる相手が可哀想だ。


久々に引用というより転載的な感じになってしまったんだけども。つか、出勤前のわずかな時間に書いちまう暴挙なわけで、脊髄反射的な書き方になってしまいそうなんだけども。と、言い訳しておいて。(笑)

まあ、わたしも似たようなもんだよね。日記なんて自分だけのことじゃなくて自分の見知った人たち、あるいは知らない通りがかりの人たちのことを書いてしまうこともある。こともある、どころか、そういう何かしらネタになりそうなことをやったり言ったりしてる人たちがいるからこそ書いちゃうわけで、なーんもなけりゃ書かないわけだ。今、わたしが↑の人が書いたものでこんなふうに「こんなこと書いてる人がいてさー」って感じで、ね。それはもうしかたない。書かれたくないのならまったく人と接触しないという生活しかできないわけだ。まあ、だから書かれることを受け入れろっていうつもりはもちろん毛頭ない。ほんとは書く側が配慮しなくちゃならんのだろう。でも、書いてしまう、それがわたしのようなタイプの人間だ。

わたしの本当の願いは「どんなこと書いてもいいよ」と言ってくれる人ばかりになってくれること。でもそれは無理なこともわかっている。書かれたくない人だっているだろうし、いることが正しい。わたしのことも否定されたくないというのなら、書かれたくない人のことも否定しちゃダメだろうから。だから、わたしは「書いてもいいよ、どんなことでも」と言ってくれる人としか付き合えない。それもしかたない。

わたしの母が「どんなことでも書いていいよ」と言ってくれたことが、だから本当に嬉しかったし、自分の母を誇りにも思った。本家ブログで母の病気のことをチラッと書いてはいるけど、これが昔だったら、もっともっと詳しく書いていただろうなあと思う。今はその時間が取れないので書かないけれど、それでも、普通なら書かずに伏せておく母の病気のこと、公開された場所にわたしは書いた。母は書かれても平気な人だから。なんというか、ああいった人もいないよなあ。それが自分の母であることに不思議な縁を感じる。ああ、やはり、わたしはこの人の娘なんだな、って。

「人生を切り売り」か。切り売りするっていう言い方は、確かにあまりいい意味には取れない。切り売りした先には、いつか切り売りするものがなくなるという未来しかないようにも思えるから、なのかな。まあ、実際は生き続けていくうえでさらに切り売りするものが増えていくという人もいるだろうから、あとからあとから温泉の湯のように尽きないという場合もあるだろう。うちの母みたいに、まるでネタがつきないという人生を歩んでいる人もいるからねえ。とはいえ、わたしの力のなさでなかなか彼女の自伝を代わりに執筆するということもできない。だって、わたしはああいったものを読みたいって思わないんだもの。それを書くことは、だからない。

……あああ、時間切れ。なんかもっと書きたかったんだけど、もう出勤準備に取り掛からねば。



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