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価値観は大事

2008年02月28日 22:41

言葉の背景 - S嬢 はてな


 あのさ、よくわからないけどさ、シチュエーションだけで考えるにね、この「私の言うこと、何か間違ってる?」ってのが出てくるときってのは、多分かまって欲しいってことだと思うわなあ。なんか何らかのことをきゃんきゃん言ってて。そしてなんだか沈黙されちゃう。そういうとき、かなあ、コレが出てきやすいのって。


 わたしはここにいるの、あなたにはわたしが見えているの? わたしはこう思う、こう感じる、そのことに応えてほしい。でも沈黙されたらわからない。わたしが間違っているの? まちがっているならまちがっているって言って欲しい。


 な~んてことなんだろうな、と。要するに究極、反応して欲しいってとこで出てくるフレーズなんじゃないかなあ、とか思う。でもこのフレーズ、確実に男を黙らせるんだよなあ、ってとこに結局わたしは行き着いたような気がするな。



「私の言うこと、何か間違ってる?」が出てくる気持ちって、↑で引用した「わたしはここにいるの~」の部分が一番しっくりくる意見だなあと思った。たぶん、私が「何か間違ってる?」と言う時の気持ちってこれだと思うから。私に限り、自分が正しいんだなんて思っちゃいない。ただ、間違ってるとも思ってないと思う。正しい事も間違ってる事も、時代とともに変わっていくこともあるんで、一概に決め付けることは愚かだよなあとも思ってるんで。だから、私は「自分が正しい」とはあまり言わないんだけど、でも「自分は正しい」とか「自分は間違ってる」とか言うってことは、なんらかの反応を相手から引き出したいから言っているというだけなんだと思ってるね。


 で、この「人をそのままにしておく」ことがそれなりに常態になっている夫なので、わたしは彼が怒るところをほとんど見たことがない。その彼がちょっと前にものすごく怒っていたときがあって。



私の旦那も怒ってるところをほとんど見ない。幼い頃から何かに期待するということが無駄なことだと思うようになっていったようで、何に対しても過剰な期待というものを持たない人だから、自分の思い通りに事が運ばなくても、自分の思うとおりに人が動かなくても「ま、しょうがないか」となって怒る気も起きないらしい。まあ、そうじゃなきゃ、私みたいなろくでもない女とは付き合えないでしょう。けれど、それもやっぱ限度というものがあります。私がかなりしつこくしつこく自分の不満をぶちまけたときに一度だけガツンと怒鳴ったことがありますから。それ以来、私のワガママも行き過ぎないようになったと思います。子供の頃は自分のワガママを通すためにしつこくしつこく訴えたものでしたが、今は「諦める」ということを覚えました。


いい夫婦関係って、たぶん「過剰に期待せず、ある程度の諦めも必要」が大事なんじゃないかと思いますね。それはもう一方だけがじゃなく、双方がそうならないとうまく夫婦関係を築いてはいけないんだろうと思います。あと、ある程度は同じ価値観を持ってないと長続きはしないんじゃないかなあ。
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私は神じゃない

2008年02月28日 11:48

2008-02-26 - 不美人道 - 創作物と作ってる人 


私も自分の書いた小説を読んで、泣いたとか感動したとか共感したとかコメントされたことは少ないながらもある。たぶん、おせじとかそういうコメントじゃなかったとは信じてるし、書いたらちゃんと読んでくれる人がいたということで、私の作品も好きだと思ってくれる人はいたと思う。
でまあ、自慢になってしまうかもしれないけれど、私の場合はけっこうオフ会に誘われることがあったんですよねえ。実は今も「会いたい」と言ってくれる人は何人かいる。つーか、自慢に思うこと自体が思い上がりかもしれない。なんつーか、「あんなことこんなこと書いてるこの人ってどんな人なんだろう」という興味だけで会ってみたいというやつかもしれないし。だから、必ずしもオフ会に誘われることが「好かれているから」ということでもないと思うんですよ。


作品への興味と作者への興味って別な場合があるということですよね。


サイトめぐりしてると、確かに、作品は好みじゃないけど日記がおもしろい人、その逆の人、さらにどちらもおもしろい人、っていう感じに分かれます。日記から伝わってくる人間性みたいなのに引かれると「一度お会いしてみたい」ってなるんですが、日記がキツそうだったり価値観が合わなさそうだったりすると、いくら作品がよくてもあまりお会いしたいとは思わない。なので私はあくまでも作品(小説やイラスト)と作者は分けて考えてます。いるんですよ作品はこんな神なのに……って方が。



私の場合は、それほど作品に対しては興味は持ってもらえないほうですね。書いている内容が万人受けしないものだからというのもあるんでしょうけれど、私の創作のスタンスが「神視点」じゃないですから。とにかく、自分本位の自分の気持ちを作品にぶつけるというタイプの創作のしかたなんで、それはあまり万人受けしないと思います。だって、読者のことなんて考えずに書くんですから。あんたらに私の描くもんがわかるかよっていうオーラ出まくってますからねえ。(^^;
それから、確かに過去に私の日記がおもしろいと思ってもらえたこともありますけれど、それは別に、私の人間性がいいからとかそういうのじゃなく、とにかく「イタイ人間」だからということで大多数の人は読んでいたんだと思います。


作品は神とは思ってもらえず、日記も親しみを持ってもらえず、なんか、こう書いちゃうと自分でも多少凹みますが、おかげで好きなことを好きなだけ書けて今は抜けたような気がしてますね。そんな今でも、私に会ってみたいと思ってくれる人はいるみたいだし。そういった人こそが、私は大事にしなきゃならないんだろうなあと思います。だから、今でも、この私を「好きだ」と思ってくれてる人、それが誰であれ、私も好きですよ。挙手する人はいないとは思うけどさ。(爆)

言われたくない言葉が私にもあるんです

2008年02月27日 09:49

これも発掘してきたもの。


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06/09/07 12時58分


明けぬ夜の夢 ★5 眩暈


仕事を始めて一ヶ月くらい経った頃にひどい風邪にかかって一週間休んでしまった。それまでまったく体力がなかった私だからそれは当然のことだろうなあとは思ったけれど、私は休むという電話をするのがものすごく苦手で(まあ、苦手じゃない人なんていないとは思うけど)毎日電話をするのがイヤでイヤでしかたなかった。早くよくなって仕事に出たかった。仕事がやりたいからというわけじゃなく、休めば休むほど出たときのみんなの目がイヤだったから。別に休んだからって、どうのこうの言う人たちはあそこにはいないんで、いらん取り越し苦労だったとは思うけれど。それでも、誰かが突然に休んだりすると、「体調管理をしっかりしてください。迷惑かけないようにしましょう」とお説教する人もいるんで、まあ、言われることは仕事人にとっては当たり前ではあっても、あんまり聞きたくない言葉でもあるよね。
あれから、一度も体調云々で休んだことはない。夏の暑い時には、気分が悪くなって途中で帰る人とかもいたけれど、私は気分が悪くなってもたえた。たえれば私だけの楽しみがあるんだと「それ」を心の支えにして頑張った。けれど、たぶん、そういうのがずっとこれから続いていくわけはないとは思う。時には体調崩してしまって急に休まなくてはならないときもこれが出てこないとも限らないし。けれど、そのときにも私は無理をして出勤してしまいそうだよなあ。



 仕事中に倒れたという罪悪感から、私は「休まない」ということにこだわるようになってしまったような気がする。今思えば「倒れる前に休む」方が、よっぽど自分の体にとっても良いことなのに。自分の体を犠牲にしても働くという方向に、気持ちが向いていってしまった。それは自分にとっても周囲の人にとっても、決して良い結果を生まないのに。



私もそんなこだわりがあるということ。だって、やっぱり私は旦那よりも先に死にたいと思うもの。旦那が先に死ぬくらいならそうありたい。もちろん、一緒に死ねたら一番いいんだけど。
一人で生きていくなんて言ってる人を見るとね、傷付くんだよね。私は一人で生きていくことのできない人間だから。その人にとってはその人なりの辛さがあって、それで私みたいな人間は恵まれているとか、まだ幸せじゃないかとか言うんだろうけれど、私にだって大した悩みじゃないとしても辛いことは辛いんだよね。それをマシだなんて言われたくない。


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「こだわり」が、なぜ「旦那より先に死にたい」に繋がるのか、自分でも当時の私の心境がちょっとわからない。たぶん、誰か「一人で生きていく」と書いてる人がいて、それで脊髄反射で書いたんだろうけれど。で、タイトルに関係あることではあるんだろうけれどね。>言われたくない言葉


そして、去年一日だけではあったけれど具合が悪くなってお休みをした。私も突然の眩暈に襲われたからだ。病院で検査してもらったけれど異常なし。どうやら夏バテと月経の前兆が重なったための体調不調だったみたいだ。月経がきたら眩暈もなくなったしね。
今では仕事を始めて初期の頃のような居心地の悪さはないし、休みをもらったり、残業を断るのにも決死の覚悟なんていらなくなった。それでも、何かを要望するのには気軽な気持ちではできない。こういった縛りは、さすがの私もストレスを感じる。それも外で仕事をしたくない理由の一つでもあるんだけど、生きていくためには働いて稼がなくちゃならないわけで。それに、今はだいぶ仕事も楽な気持ちでできるようになったということもあり、それくらいのストレスは当たり前と思わなくては。ストレスがまったくないのもよくないと聞くしね。

傷ついて醜くなることの勧め

2008年02月26日 10:51

404 Blog Not Found記憶とは、傷である。


私にとって、スタイルというのもまた傷である。人によって、どこが傷で真っ白になり、どこが無傷で、どの傷を誇り、どの傷を恥じるか、それがスタイル。


いずれにせよ、人生が記憶であり、記憶が傷である以上、人生とは傷なのだ。


この記事があなたにつけた傷が、あなたをより豊かにしますように。



ここで言う「傷」って、ネガティヴな意味はまったくないよね。けれど、傷ってつかないようにするじゃないですか。けれど、考えてみたら傷って同じところを何度も傷つけるとそこの肌は堅くなっていくでしょう。だから耐性ができていくってことにも繋がるんですが、でもその傷跡ってすごく醜いんですよね。私も子供の頃にひじを何度も怪我して傷を作ったんですが、そこだけ肌が醜くなってたんです。心もそれと同じで、何度も何度も傷つくと醜くなっていくような気がします。中には、天使のように綺麗なままでいる人もいるんでしょうけれど、そういう人は、生まれてこのかた一度も傷ついたことがない人なんでしょうね。でも、醜いからってそれがダメなんだってわけでもないですし、天使のように綺麗だったとしても、深みはないだろうと私は思いますしね。
傷ついて醜くなった人ほど、人間が深いんじゃないかなあ。だから、傷つきまくって醜くなっても、それを卑下することもないんだろうと思います。そう思うと、傷つくこともそんなに悪いことじゃない気がします。って、そう思えるまでいければいいですよね。まあ、私はとりあえず思えるようになりました。
どうすればそこまでいけるのか、それはもう自分で気づくしかほんと道はないんだと思います。よく、自分で気づけと言われると、その方法を教えろと言う人もいますけれど、気づく方法なんてほんと千差万別だと思うし、自分自身だって、何か方法を見つけたわけじゃないですからねえ。ある時ヒョイッと気がついてたって感じですし。これはもうね、運としか言いようがないと私は思います。私に言えることはそれだけですね。

表現やめないよ

2008年02月26日 10:47

suVeneのあれ 「感覚」と「理屈」


まあ、表現というか、書くってことだよね。書き続けてほしいと言ってくれた人がいたからやめないというわけでもなく、私はやっぱ書きたい人だから書き続ける、ただそれだけかな。


このような、「感覚」と「理屈」の齟齬は、本人にとっても十分自覚的な場合が多く、それを承知した上で「内面の吐露」のような形で、ブログなどのエントリに表現されていることも多々あるだろう。そして、その「内面の吐露」のような表現に対して、いわゆる「理屈」で対応することは、すれ違いになりやすいのではないかとも思う。



間違いなく、私の場合は「感覚」で書く側の書き手。だから、そういった書き方をしてない人にとっては気持ち悪い存在だろうと思うし、どうしても気持ちのすれ違いは起きる。大抵は私のほうが片思いで、相手は嫌ってるということが多いんじゃないかな。だって、理屈っぽい人から好意を向けられたことってあまりないから。好意というか多少は興味持ってもらえたとしても、結局は嫌われる。もっとも、そのほとんどが、私があまりよろしくない態度を取るからでもあるんだけど。好意を向けられ続けたいと思うなら、もっと努力しろって言われてもしかたないよね。まあ、そんなこと言われたことはないんだけど。でも、何となくそんな空気を感じるんだよね。どっかから「考えすぎ」とか聞こえそうだけど。しょうがないじゃん。そういう奴なんだから私って奴は。


つーか、そのすれ違いなんだけど。それでもすれ違わない場合もあると思う。タイミングなんだろうなあ。私なんかも「この人とはうまくいかないような気がする」と思った相手と、魂の繋がりを感じるくらいの仲になったことだってある。それは、もうね、タイミングがよかったとしか言いようがない。どんなにうまくいきそうな相手でも、タイミングの悪さで壊れてしまう仲もあるから。
だから、「齟齬を責めること」を否定はしないよ。好きに表現することも認めてくれるというのなら、齟齬を責めるのも自由だし。それを受け入れられない人は無理に表現しなくてもいいし。私みたいに図太く表現していく奴だけが何でもかんでも書いてけばいい。残念に思う気持ちはわからないではないけれど、私に限り、しぶとく書いていく人だけのものに私は愛情感じるんで、責められてもう書かないとなった人には興味ない。残念にも思わない。読ませてくれない人なんて私には興味ないから。いつでも読ませてくれる人だけが興味の対象。そして、それを読んで自分語りを書かせてくれる人。私に書くことを規制しない人。そういう人は私にとって本当にありがたい存在。どんだけワガママなんだよって感じだよね。書かれたくない人のことまで書いてしまう奴だから私は。そりゃ嫌われるわけだ。でも、規制することは自由だから別に言ってもいいよ。「書くな」って。けれど、私は書くよ。それがイヤなら頭の中に書いてほしい。私に読まれたら書かれてしまうことだけは忘れないでね。

自分語りは嫌いですか?

2008年02月25日 23:56

過去に書いたものを発掘したらこんなものが出てきた。


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06/09/01 19時46分


「明けぬ夜の夢」


彼女が淡々と語る。自分の歴史を。どうして私は彼女のように淡々と語ることができないんだろう。私も彼女のように淡々と語ることができれば、そうすれば彼も私に対してあんな記事を書かなかったのだろうか。でもあの私は確かに私の中に存在する。ミーハーでおバカでそれでいて愛らしいそんなキャラ。演じていると言われることを何よりも嫌う「あの私」。だけど、どうしても演じていると思われてしまう私でもある。淡々と語る私は私じゃない。そんな書き方をして「あなたじゃないみたい」と言われたこともある。悲しかった。だって、私は明るいけれど明るくない、おもしろいけれどおもしろくない、そんな人間。旦那には単純でわかりやすいって言われるけれど、他の人には「よくわかんない」って言われるし。頭の良さそうな私も頭の悪い私もいろんな私も、全て私の中にいる。それを理解してほしいと昔は思ってたけれど、今はもうどうでもよくなってしまった。理解してほしいと思う相手にはいつも理解してもらえず、思わないヒトからいつも理解を示されて、戸惑い、荒れた。


だったら淡々と語ればいい。演じてるみたいな語り方じゃなく。


ダメなんだよ。だって私は創作する側だから。どうしてもそういう表現になってしまう。そんな私だから、ひどく惹きつけられる人には崇拝され、他の人には嫌悪される。
もっと開き直ることができればいいのにね。そしたら、誰に何を言われても強く立っていられるのにね。内心はみんな強くあれるわけじゃない。けれど、強く立ってるように見える。それはみんな何も言わないから。今私がこうやって泣き言言うようなことを言わないから。語らないから。だから…


だから、黙ってしまえと、自分で自分にそう言った。


けれど、黙れない。見てしまうと語りたくなる。自分のことを。聞いてほしくて。これじゃあ、彼に「自分しか見えてない」って言われてもしかたないよね。


明けぬ夜の夢 ★2 食べたいのに食べられない


私も過去に書いたかもしれない。書いたような気もする。けれど、彼女の記事を読んでまた書きたくなった。


高校から短大にかけてが一番体調がおかしかった時期だった。あの頃、ちゃんと病院で検査してもらえば、もしかしたらお腹を切ることもなく、今の私のお腹の醜い傷もできなかったかもしれないのに。まあでもそれはいい。結婚してからの手術だったから。それはいいんだけど。


大好きな彼、当時大好きだった彼と仲良くなりたくて、放課後いつも部室におしかけた。その頃、うちは大変な時期で、できるだけ夜は家に帰らないようにしてたから、夜遅くまで学校にいても叱られることはなかったな。いつも8時過ぎまで学校で彼とお話してたんだけど、ある時、突然、彼と話してる時にひどい吐き気が襲った。トイレまで走った。胃液しか出なかったけれど、それ以降、しょっちゅうそういう吐き気が襲ってきた。それも彼と二人きりの時に、特に多かった。
私は、緊張するから吐き気が起きるんだろうと思ってた。それから、短大に入って、慣れない寮生活を始めたら、寮にいるときは大丈夫なのに、町に出かけると歩いている途中ですぐ気分が悪くなり吐き気がまた始まった。最初は空気が悪いからなのかなあと思った。学校は山の上にあり、寮も学校の敷地内で、山の空気はキレイで、そこにいるときは体調もそんなに悪くなかったんだよね。
ところが、山を下りて、実家に帰っても具合はよくならなくて、ご飯が食べれなくて、いつもいつも不安だった。ガリガリに痩せた。当時は、TVで笑顔で笑っている女の子を見るだけでも辛くて、ご飯が食べられるのならどんなに太ってもいいとまで思うようになっていた。
そしたら、ある時を境にご飯が食べられるようになった。入学してから三ヶ月くらいだったかな。もう夏になっていた。それ以降は卒業するまで元気に暮らした。楽しかった。就職してしばらくはよかったんだけど、だんだんと今度は食欲が止まらなくなってきた。食べても食べても食べ足りなくて、私は食べ続けた。当然ぶくぶく太ってきた。結婚のためにと5キロほどダイエットしたけれど、結婚したらまた加速して体重は増えていった。そして、とうとう病気が発見された。
もっとずっと前に病院に行くべきだった。本当なら高校に入学した年にはもう病気の兆候は出ていたんだ。原因不明の背中の痛み。あれのせいで高1の体育祭は出れなくて、あの背中の痛みを検査していたら、もしかしたらそれ以降、お腹を切るまでの拒食と過食の繰り返しもなかったかもしれないのに。すべては病院嫌いだった私のせいだ。けれど、それはもう過去のこと。そんなことをいまさら後悔しても始まらないものね。


今は元気だよ。きっと元気でいられると思うよ。私には夢があるから。友達と同じ夢、青空を掴む夢。同じと言っても、その人とは違う青空だと思うけれどね。でも、私だけの青空を掴む夢がある。それを掴むまでは元気でいなくちゃ。


ほんと、言及にも何もなってないよね。自分語りばっかりしてるよね。こんなだから、彼に嫌われるんだな。というか、彼は嫌ってなんかいないよって他の人に言われたけれど、でも、それでもあんなことは彼には言われたくなかった。彼だけには。その気持ち、わかんないだろうね。わかんないだろうから、あんな記事書いたんだろうね。なんかもうどうでもよくなってきたよ。彼のこと。もう関わりたくない。


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かかわりたくないと思った「彼」は誰だったのか。あまりよく覚えていない。ああ、でも。ああそうか。今やっとわかった。誰のことか。でもまあ、そのままにしておこう。誰がクリリンしてもどうでもいいや。それで「自分のことか」と言ってくるような人もいないだろうし。そもそも、ここを見ているとは限らないしね。
ただ、あの時は「関わりたくない」と書いたけれど、嫌いだから関わりたくないというわけじゃない。関わってしまったら、きっと私はまた荒れるだろうから。だから関われない。自分の心をコントロールできないと思うから、だから関わっちゃダメなんだと思っている。

読みたいと思ってくれる人のために

2008年02月25日 11:04

304 Not Modified 自分のサイトを教える/教えないの境界線


ホームページを作成し、それをウェブ上で公開した頃、思い切り引きこもり状態だった私なのでリアルの知り合いにはサイトの話をするということはなかった。でも開設して一年後の正月の年賀状にはURLを明記して何人かには教えた覚えがある。で、私のサイトはあれから8年ずっと同じURLだ。サイト名もずっと同じ。HNというかPNもずっと変わらず。ただ、サイトを開設してから何年か後、日記だけ独立させてライコスで書いていた頃から、複数のHNで文体の違う日記を書き出した。読む人によっては、違う文体を同じ場所で書くことに違和感を覚える人もいたので、混乱を避けるための書き分けだったんだけど。こちらの文体はよくてもあちらの文体は嫌いという読者の好みもあり、それで教えるサイトと教えないサイトと出てくることになったな。


「恥ずかしい」というのは私にはなかった。「恥ずかしい」と思うのは、大抵が読者の方だったように思う。小説などでも私は18禁やBLなどを別のサイトで書いていたのだけど、それを男の人に読まれてもそれほど恥ずかしいとは思わなかった。中には「あなたの体験談が書かれているのか」と言われたこともあるのだけど、それについても別にそう思われてもいいとも思っていたし。それに、100%体験が入っていないとは言い切れないし。だから、私は「恥ずかしい」という気持ちがわからなかった。それだけ他人に自分の文章を読まれるのがあたりまえだと子供の頃から思っていたからだ。


ただ「恥ずかしい」とは思わないけれど「マズイな」と思ったことは何度かある。自分の正直な気持ちを日記で綴っていると、リアルの知り合いに自分の考えていることをわかってほしいと思うあまりに、ついつい言い過ぎな日記を書いてしまったこともあるからだ。息子が小学生の頃には学校関係のことでちょっと言い過ぎな感じのものを書いたこともある。日頃から学校というところに不満を持っていた私でもあったので、「これ書いたらマズイかもなあ」と思いつつも、わかってもらいたいという気持ちが強すぎでついつい本音を書いてしまったものだった。当時の息子の担任が私のサイトを見ていることを知っていてもそれは歯止めにならなかったな。私はそれだけ自己顕示欲が強いのだろう。そうじゃなきゃこんなふうにウェブでなんかかんか書いてないからねえ。


その境界線、自分のサイトを教える/教えないの境界線は、やはり「価値観」になっちゃうのかな。サイトで発信している情報(内容)に対する価値観、情報を発信することに対する価値観、情報発信をサイトで行うことの価値観。私は、それを否定されない人になら自分のサイトを抵抗なく教えられると思う。



私の書く物が価値のある情報だとは思わない。けれど、価値があるかどうかは読んだ人が決めることだ。価値観が違っていて、私の書いたものを否定されたとしても、たとえ誰一人価値観が私と同じじゃなくても、それでも私は書き続けるだろう。積極的に読んでもらおうとはせずに、読みたいと思った人が読み続けてくれればいい。私は自分のためと、私の書いたものを読みたいと思ってくれる人のためだけにこれからも書き続けていくよ。まあ、わざわざ否定するために読む人もいないわけじゃないと思うんで、そういった人のためにだって書き続ける。だって、そういった人も、私の書いたものを読んでくれる人だからね。読みたくなくて読まないという人よりは私にとってはマシな存在だと思っている。

楽しくて楽しくてしかたないよ!

2008年02月25日 10:36

ブロガーの資格<Y-N> - ペン君流ことわざ日記。


1.ブログを書くのが楽しい<Y/N>


答えはY。


書いていて楽しいと思うなら止めるべきではない。



書くことは私にとって楽しいだけじゃなく、書くことしか私には特技がないからでもある。前にも書いたけど、人間としても女としても妻としても何の役にも立たない私ができることといったら書くことだけ。そして、自分の書いたものが誰よりも大好きなのは自分自身だと思っている。自分の書いたものを読み返すのが何よりも好きな自分大好き人間だから。そんな私が書くことが楽しくないわけがない。


2.文章を書くのが好きだ<Y/N>


答えはY。


文章を書くのが好きなら別にブログでなくても構わない。プライベートにノートにでも書き綴ればいいのだが、折角なのでブログで書いても構わないと思う。



それは私もそう思う。ネットを始める前はそんなふうにノートに日記を書き続けていたわけだし。ただ、ノートだと書ける文字数に限界がある。さすがに長文はペンで描くには苦痛だ。キーボードだといくらでも書ける。でも、それもブログなどで公開する必要もないということにもなるけれど、せっかくだから書いたものを他人に見せたいという気持ちもある。だから公開して書く。昔はそれでも多少は他人の意見に左右されたものだけど、今は誰がなんと言おうとも好きに書くつもり。


3.他人の意見や他の人が書いた記事に興味がある。<Y/N>


答えはY。


他人に興味あるのであれば、他人の記事にトラバをして感想を述べるのも言いと思う。



私の興味が持てるものを書いている人の記事には興味あるし、興味のある人の書くものにも興味あるんで、他人の書く記事も読む。それを読んだら自分語りをしたくなって書きたくなるときには何か書く。ただ、私の書くものは言及とは違うと思っているので、トラバはしない。こんな私の書いたものを読みたいと思う人は自分でエゴサーチなりしてでも読むだろうから、わざわざ知らせる必要はないと今は思っている。


4.より多くの人に影響を与えたい。<Y/N>


微妙。その影響というのがどういった影響かにもよるかも。


称賛にせよ罵倒にせよ自らのエントリによって他人に何かしらの影響を与えることを楽しいと思うのであればブログを書くべきだと思う。



ただ、過去に私の書いたもので「泣いた」とか「ぞっとした」とか、他人の心を動かしたと知ったときは嬉しいと思ったこともあり、私も誰かに影響力を与えたいと思っているんだろうと思う。とすれば、やはりYとなるのかな。


5.自分の意見や知識を広めたい。<Y/N>


これも微妙。広めたいとまったく思わないわけじゃないけれど、広めたいことが目的っていうわけじゃないし。


「自分はこんな人間です。」と知って欲しいと思うのであればブログはイイ。



確かに私も自分はこんな人間なんだっていうのは知ってほしいという気持ちはある。それが誰かにとって有用な知識となりうるのかどうかは疑問だけど。でも、私を好きだと言ってくれる人にとっては有用な情報にもなるとすれば、やっぱりこれもYとなるのかな。


6.他人に嘲笑されても馬頭されても平気である。<Y/N>


今はY。


万単位の人の中で全員が賛同するなど気持ち悪い。嘲笑されることもあれば罵倒されることもある。それに対して落ち込み悩み傷つく。そして鬱になるようであれば一度ブログを止めることをお勧めする。



私もある程度長い期間ネットでなんかかんか書いてきた立場でもあるんで、その間に賞賛されたり嘲笑されたりもした。執拗に議論を強いられたこともあり、そういったときは疲弊したものだった。それでも私は懲りずにずっと書き続けてきている。最近では、罵倒のようなものを投げられても平気になってきたようだ。ただ、私の場合は、何か罵倒されて頭に血が上って感情的になることで、様々な創作物が生まれることもあり、一概に平気になることがいいことかどうか疑問にも思っている。まあ、創作がなかなか進まないことの言い訳とも取れるんで、あまりそういうことは言いたくないんだけどね。けれど、私の創作の原動力が「手に入らないものを手に入れるため」であるとしたら、罵倒されて傷ついて不幸になることで、その不幸から逃れるため、自分を救うために創作をするんじゃないかと思うわけ。で、今の私は救われたいという気持ちがない。それだけ私は幸せだから。幸せな私は創作をしないというのは昔でも一時期そんなことがあった。旦那と恋愛していたときだけど。(笑)今はその状態に似ているかもしれない。


7.人に褒められたい。賛同者が欲しい。<Y/N>


答えはY。


褒められるのが好きならブログを続けるべきだ。批判あれば同意あり。どのようなひどい意見であろうとも必ず賛同者はいる。



そりゃあ、まったく賛同者がいなくてもいいなんて思っていないよ。だから賛同を得るためには多少の批判も甘んじて受けようとは思っているしね。


8.自分の書いた文章が好きである。<Y/N>


これ以上にないくらいにY。(笑)


後で読み返してみて詩文自身で面白いと感じるのであれば、書き続けることである。



そんな私でも自分の書いたものすべてがおもしろいと思っているわけじゃない。それにすべておもしろいものを書いている人なんていないと思うしね。けれど、自分の書いたものの大半は読み返しがいのあるものばかり書いていると思っている。だから私も書き続けるんだろう。


9.人と知り合いになりたい。<Y/N>


今は正直言ってNかもしれない。ただ、それは多くの人と知り合いたいというものではないというだけだ。


有名な人や才能ある人。



書き続ける理由の一つに、自分の好きな人に私の書いたものを読んでもらいたいという気持ちがあるから。その好きな人の一人にはGがいる。ここではGとしてしか書いていないけれど、Gは有名人。だから、知り合いたいと思うなら彼についていろいろ書けば、もしかしたら目に留まるかもしれないという気持ちもあって、それで書き続けているというのもあるかな。とすれば、やっぱり答えはYになるかな。


10.記事によって生計を立てている。<Y/N>


これはN。以前はブログではなくサイトでアフィリエイトをしていた頃もあったけれど、生計を立てるほどじゃなかった。せいぜい自分のお小遣いを稼ぐ程度ではあったんで、それで生計とはとてもじゃないけど言えないよね。


結果。完全Nは一つ。ということは、私はブログを書く資格はあるということですか。まあ、資格があってもなくても書き続けるけどね。(W


オチはないけど意味はある

2008年02月23日 11:59

304 Not Modified はてブの向こう側を見る人


この2人のような、はてブした記事だけでなくその向こう側にいる人まで見てくれるユーザに、自分のブックマークをお気に入りに入れてもらえるようにがんばるぞ!



私は頑張りたくない。頑張らない私でもお気に入りに入れてくれるのがいい。っていうのがいいかな。でも、向こう側にいる人まで見てくれる人を私だって好きだし。私をお気に入りにしてくれなくても、誰かを褒めているその人を見るのが好きなんだよね。まあ多少は嫉妬もするけれど、自分を気に入ってくれないから嫌いになるってことはないかな。
確かに、気に入って貰えるように努力することは悪いことじゃないし、そういった努力もコミュニケーションには必要なんだろうけれど。でも、私はそういうことはしたくないし、そういうことで手に入れるコミュニケーションには価値を見出していない。自然体の私を気に入ってくれる人とじゃないと長く付き合っていけない気もしているから。


発信者としての私は、たくさんの人に見てもらうよりも、
 しっかり見てくれる人に自分を見てもらいたいのです。



↑に超同意。(W

ありがとう

2008年02月23日 10:10

ありがとう再び - メモ


ああ、まさに昨日は仕事で「ありがとう」と言葉を言ったなあと思った。(笑)まあ、話題に上がっている時に使われる「ありがとう」と、昨日の私の場合の「ありがとう」は違うんだけどね。仕事場で手伝ってくれた人に言う「ありがとう」は言って当たり前の「ありがとう」だと思うし。で、あまり仕事場のことは書かない方針できているんだけど、ちょっと自分語りしてみようかな。


昨日は休憩に入る直前でめんどくさい作業をしていました。他の人はたったか休憩に入っちゃったんだけど、私はそれやっつけちゃわないと休憩に入れないんで、急いでやってたんだけど。なにせ10分しか休憩ないんで。そしたら、近くを通ったバイトの子が「手伝いましょうか」と言ってくれる。ありがたい。私の返事を待たずに手伝ってくれた。そこで私は「ありがとう」と言っていたわけで。
ただ、あんなときって、私の場合、いつもは「すみません」なんですよ。でも、「すみません」って言うのもなんか変だよなあと思って、それで昨日は「ありがとう」つーか、ぶっちゃけ自分の息子くらいの年齢の男の子だったというのもあるかもしれない。それでもやっぱりこういう場合は「すみません」じゃなくて「ありがとう」だよなあ。で、上司じゃないから「ありがとうございます」じゃなくて、対等な感じで「ありがとう」と。


そういや、その上司で思い出したけど、上司は私より10歳近く年下なんですが、やっぱ20とか18くらいの相手に対してよりちょっと話しかける言葉が丁寧ですね。年上だからっていうのもあるんでしょうけれど。年下にはタメで話しかけますが、私のように年上には敬語っぽい感じです。で、この間も本来の仕事以外の仕事を私に頼んだことがあったんですが、私は早く帰らなくちゃならない日で、他の人はまだ仕事しているところを私は先に帰ったわけです。そのとき、「お先に失礼します」と声をかけたところ、「すみませんでした」と私に言う。ちょっと違和感を覚えました。別にイヤだとは思いませんでしたが、仕事なんですから「すみません」と言われる筋合いはないと私は思ったんですよね。こっちとしては、あれやってこれやってと言われるのはあたりまえのことだと思ってるんで、上司が「言われてやるのはあたりまえ」と思ってたって別に私は思うところはありませんから。ただ、いろいろ「なんで自分がそんなことまでしなくちゃいけないの」とモンク言う人は多いらしいんで、どうしてもそういう部下に対して下出に出てしまうことになるんでしょう。気持ちのよい職場を目指しているようなんで。


そういや、その手伝ってもらってるときに、とある人が「そうそう、それでいいのよー○○くん、人の顔色をちゃんと窺ってやる。それが仕事ってもんだからねー」と、彼に声をかけてた。「顔色を窺って声をかけて」というのは言い方はちょっと悪いですけれど、確かにそれはそうだなあと思います。どんな職場だってそうなんでしょうけれど、自分一人で仕事しているわけじゃないんですから、他の人の仕事だってやりやすいように配慮して手伝うっていうのも人間関係だけでなく仕事もスムースに進められることになりますからねえ。それが初期の頃の私には身についてなかったようにも思います。だから居心地が悪かった。けれど、今は当たり前にあそこの一員として溶け込んでます。やっとちゃんとした仕事をしているベテランといった自信もついてきたかなと今は思ってますです。


ほんと「いざ出陣」といった気持ちで出勤していたのが嘘のように今は自然に出勤できてるのが夢のようですね。仕事行くのが楽しいくらいですから。この場合、何に対して「ありがとう」なんだろう。たぶん、自分に対して「ありがとう」かな。(笑)

変わり者の定義

2008年02月22日 10:51

ブロガーの資格(まなめはうすより - 踊る肉とパイナップル


文章を書くことが主なストレス発散だと思います.なぜかローカルで書くのは続かず,ネットで公開するという+αがついてはじめて満足感を得る.そんな私は世間から見れば変わり者なのだと思います.



文章書くことがストレス発散というのは私も同じだ。ローカルで書くのは続かないっていうのも同じ。ネットで公開していることで満足感を得るっていうのもわかる。そのプラスあるふぁっていうのもね。でも、それが「世間から見れば変わり者」というのは違うんじゃないかなと疑問に思ったんでれっつら脊髄反射。(笑)


私の認識が「ローカルで書き続けられる人の方が変人」と思うから。まあ、これは私がそう思うってだけなんで、ほんとは他人に読まれることが快感で書いてる人のほうが変人なのだということが真実なのかもしれないけど。でも、私は結局は自分本位でしか物事を考えられない奴だと思うんで、ローカルで誰の目にも触れないものを書き続ける人の方が、私にとっては「変人だ」と思っている。それが私にとっての常識。
つーか、ローカルで書き続ける人はネットになんか自分の書いたものなんて公開しないんじゃないかなあ。たとえ非公開で鍵つきのところで誰にも読ませずに書いてたとしても、私にとっては「いつか誰かに読まれるかもしれないと思って書いてるんだ」と私は思っている。どんなに「ただのメモとしてつけてるだけだ」とその人が言ったとしてもね。だって、そうなら、完全にローカルで自分のパソコン内だけにとどめておくでしょ。消える可能性があるのが心配ならプリントアウトでもCDにでも焼き出しておけばいいわけだし。ネット上で管理することは、どんなに鍵つけてたとしても、悪い人なんかはいくらでも見るやり方は知ってる気がするしねえ。だから、読まれる可能性はまったくないわけじゃないもの。


でもまあ、ローカルで書き続ける人が変人っていうのもちょっと違うかもしれない。それは昔の日記と同じことでもあるしね。日記書くことは普通だし。それに日記は普通の人は読まれないことを前提として書いてるわけだし。私みたいにいつか誰かに読まれることを前提にして書くじゃなく、読まれない前提で書いているのが普通だと思うし。
だから、ここで私が思う変人っていうのは、鍵かけて非公開でネット上で日記やなんやらを書いてる人かな。誰にもパスワードを教えずにネット上で書き続ける人、それが変人さんなんじゃないかと。しつこいようだけど、この変人さんは「私が思う変人さん」だからね。自分本位で考えたことだから。あくまで私だけの考える変人さん。だから突っ込み入れないようにね。(W


私なんかは、たとえ鍵つけてたとしても、いつかは誰かに読ませることを考えて書いている。本当に絶対に読ませたくないものはネットだろうが紙媒体だろうが一文字も書かない。読まれたくないことは頭の中に書きつける。そして、墓場まで持っていくよ。

死んでからのことは

2008年02月21日 08:02

それ以前にPC起動なんてしないと思う - あれとかこれとか (Lefty)


パソコンの中身よりは、こことかのようにWeb上に上げているもののほうがきになります。



確かに私もネット上に存在する私の書いたものは気になる。気になるけれど、リアルに直結した書き物にしてもリアルと直結しない完全な匿名で書いたものにしても、自分が死んでしまった後はもうどうでもいいかーという気持ちもないではない。
パソコンの中身だろうがネッ上だろうが、私が死んだ後ならば著作権は放棄する。それをそのまま使ってもいいし、それを土台にして新たに物語を構築してもらってもいいし、好きに使ってもらってもいい。まあ、家族が好きに使ってくれれば一番いいんだろうけれど、旦那はそういうの興味ないだろうし、息子は私とは違ったジャンルの世界で楽しんで創作してるみたいなんで、これもまた興味は持ってくれないだろうしなあ。だから、ネットで晒し続けることによって、感性の似たような人に使われたいと私は思う。
突然死んだ場合に限りだけど。自分から死ぬ場合は整理して死ぬよ。遺言っぽいものを残したり、何か仕掛けを残したりして。そうならないことを祈ってて。(誰に言ってる誰にW)

ただ書きたいだけ

2008年02月18日 10:26

404 Blog Not Found虚像もまた自分


全く「こんなふうに読んでほしい」という気持ちがないわけじゃない。だけど、書いていることで「こんな人なんだ」と思われてしまうのはしかたないことだという気持ちはある。「こんな人なんだ」というのが、自分にとってむかつくことだったとしても、それでもそれが許せないということはない。「読者は自分が読みたいように書かれたものを読む権利」を否定するつもりはないから。けれど、誰かが「こんな人なんだ」と判断したことを、私は内心で評価して、相手を黙って切り捨てたり、黙って絶賛したりするよ。目立っての表明はしないけどね。でも、勝手に私は心の中で誰かの私への判断を優劣つけて見ている。ただ、私の優劣のしかたはたぶん特殊。どれが優でどれが劣であるかはわからないんじゃないかな。それから、私の発言が周囲に影響を及ぼすってことはない。そんなこと今までずっとなかった。ごく一部の人には影響あったらしいけれど。それも今はまったくないと断言できる。影響受けたっていう人がいたなら挙手してもらいたものだ。(笑)


昔ある人に「あなたは奥が深いですね」と言われたけれど、それは違う。私なんかそんなもんじゃない。むしろ浅すぎると思っている。私のすべての場所(ブログやサイトやその他)を見れば、私のすべてを知ることができるよ。まあすべてを知っていれば、だけど。さすがに私のすべての場所を把握している人はいないから。たぶん。浅い人間だからねえ、すべての場所を気づかれているかもしれないよねえ。


だから、私は自分を晒している。そうしないと自分がわからないから。



そんなに自分を知りたいというのだろうか。鏡となる誰かを多くすることは、もしかしたら私は興味がないのかもしれない。私は自分を知りたいから自分を晒しているわけじゃない。ただたんに「書きたい」それだけなんだよね。そこに意味も何もない。

トラバをやめた理由

2008年02月17日 10:39

トラックバックによる通知は誰のため?


リンクをはってそのリンクを自身が踏むっていうやり方は、私もここの前身であるブログでやっていた。私はリンク先の読者より取り上げた相手に読んでもらえたらいいかなあという気持ちからやってたんで。でも、それよりもっと昔は、相手だけじゃなく、私の書いたもので興味持ってもらえたら、誰にでも読んでもらいたいという気持ちがあったけれど、今はそこまで強い気持ちはないかな。もっとも、昔は今のようにブログじゃないんで、トラバで相手の場所の読者に読んでもらうっていう概念はなく、相手の掲示板に書いた自分の発言を見て「おもしろいこと書く人だな」と思ってもらいたいという気持ちがあって、それで掲示板でも発言にはとにかく自分らしさを出したり、これ書けばウケるかもと思っていろいろ考えて書き込みはしていたな。で、ブログで何か書くようになってからは、他人とはちょっと違うスタイルでやっては、誰かの関心をかうというのを実践していたようだ。


今の私は、ほんと自分の書くものなんて他人にとってはどうでもいいんだなあと気がついちゃったんで、トラバ先の読者に読んでもらうためにトラバするなんて、そんな大それたことはできないと思っている。もちろん、そういう気持ちでトラバをしている人を非難しているつもりはなく、それだけ自信があるからそうしているんだろうし、自信があることはいいことだと思うしね。私みたいに自信がどうしても持てない人にはトラバっていうのはほんと精神衛生上よくないっていうのがわかっちゃったんで、トラバはもう一切しないことに決めた。ノイズが書くものは、何だろう、理解してもらえないだろうけれど、嫌悪感持たれてしまうと逆上してしまうみたいなんだよね、あと、否定されるとダメみたいだ。だから、積極的に読まれようとは今は思わないんで、一応リンクははるけれど、今はこちらから踏むということはしていない。だから、リンクして自分語りしていることも気がついてもらえない人も出てくるだろう。でもそれでいいや。もし読んでもらって、不快感感じて、批判や非難されたとしても、メールフォームやブクマで何かネガティヴなこと書いてくれればいい。それを禁止するつもりはないしね。私もスルーすることで逆上しないようにできるかなと今は思う。


トラバは確かに、相手だけじゃなく、その相手の読者にも読んでもらいたいという気持ちがあるからする行為。それに私も気がついた。やっぱ、私も、まだ見ぬ誰かに興味持ってもらいたいという気持ちがあったようだ。それはそれで悪いことじゃないけれど、今の私にはそれは不必要なことかもしれないと思っている。それではなぜブログで書き続けているのか。それはもうね、更新するのが楽だから。あと、このブログのデザインが自分にとって気持ちよく読み返せるから。これはね、テキストサイトではなかなかできないことだよなあと思って、それもあって、ここのブログは続けることにした。読者についても、読みたい人がいたら勝手に読んでくれればいいかなという気持ち。それにアクセス解析での管理が簡単だしね。

セルクマのこと

2008年02月16日 10:52

セルフブックマークのお話、何回目 - 煩悩是道場


今利用しているブクマは最初の頃はセルクマしまくってたもんで、それもあってお気に入りに入れないがいいですよーと謳ってるわけですが、過去日記は今はサイトで読み返しながら随時更新してるということもあり、もうセルクマすることもないと思います。何のためにセルクマしてるのか、自分でもわからなくなってきたというのもあるしね。結局、読み返してみて、自分が読み返したくなる日記をセルクマしてただけに過ぎないし。どうせ、何回も読み返すことしてるんだから、セルクマ意味ないよなー。あとはもう、誰かがブクマしてコメントして、それにレスするくらいかな。とはいえ、コメントつくことはほとんどないし、そうなると必然的にレス返したくなるようなコメントもつくことはないと思うんで、これからはほとんどセルクマすることもないだろうと思う。
それでも、他人のブクマするスタンスには何も言いたくないという気持ちは変わらない。好きにブクマすればいい。セルクマうぜえなんて言わないよ。

私なりの文学への目線

2008年02月15日 10:08

本を読むことと本を語ること - メモ


「質の悪い読者」と言われたことがある。私の場合は読んでない本について語ったわけではないけれど、私も読んでもない本について「読みたいとは思わない」とか言ったこともないわけじゃないんで、読書や批評について、偉そうな口はきけないんだけど。でも、それでも過去に偉そうなことを書いたこともある。好きな作家やその好きな作家の書いたものをさんざ悪く批評されて、何もわかっちゃいないと、酷い批評をする人を「ダメなヤツ」とレッテルはったこともあるしね。けれど、好きな作品をけなされても、それでも「この作品のここがダメ」とか書かれているのを冷静になって見てみると、批評する人によっては「そんな見方もあるんだなあ」と感心することもあるということに気がついた。というか、ひどいひどいと批評してても、そこに愛が感じられる酷評をしている人もいることに気がついたんだよね。それに気づいたとき、私の好きな作家を酷評する人のすべてに今までとは違う目を向けるようになった。


いつも同じレベルのものを提供できるはずがないんだ。好きな作家であっても、この作品は好きだけどこの作品はちょっとなーというときもある。最近読んだ好きな作家の短編集でもそういうのがあった。そんなとき、好きな作品については雄弁に語れる私であっても、ちょっとなーという作品についてはうまく語れない。そりゃもうね、作家に心酔している人の目に触れたら、ちょっとした批判でも逆鱗に触れてしまうことはあるわけだから、なかなか書けないよ。自分が「この作品はちょっと…」と思っていても、他の読者には「その作品は好き」という人だっているはずだから。だから、怖いもの知らずな人だけが、正直な感想を堂々と不特定多数に見せることができるということがネットでの感想の書き方になってしまってるよねえ。それもよくない傾向かもしれない。それは本だけに限らず、映画や音楽や、そういったものにも同じ現象は起きているし。


やっぱり、どんな感想・意見・批評でも、規制されてしまうのはよくないんだな。好きに正直に、これは好き、これは嫌い、それはなぜか、こういう理由で、こんな感じで、って、書いていけるのがいいよなあ。


いい読者がいい批評家とは限らない。読んだ本を語る人より語らない人の方がはるかに多いのだ。



いい読者なんてきっと一人もいない。というか、いい読者・悪い読者という概念がおかしいんだ、きっと。つまりは私が言われた「質のいい読者」「質の悪い読者」というのもおかしい。読者はただの読者。たとえ、どんな批評をしたとしても、どんな感想を持っても、すべての人を満足させる批評や感想なんて誰一人できる人なんかいないんだよ。書いた作者だって、自分はこういうことを書きたかった、こういうことを伝えたかったということが伝わらなかったとしても、それは読者のせいじゃないし、たとえ、自分の想いが伝わったとしても、それだけが正解なんじゃない。書いた自分の思いもよらなかった感想がでてくることをもっと楽しんで、それをさらに新しい作品に活かせることができることこそを重要なんだと思えるようになれればいいのになと私は思う。文学って1+1=2のように一つの答えしか出てこないわけじゃないもの。いろんな答えがあるのが文学の醍醐味だもの。「これなんだ!」という決め付けなんかないほうがおもしろいじゃないか。


人の数だけ様々な答えがある。それが文学の存在意義なんじゃないかな。

どうでもいい話をひとつふたつみっつ

2008年02月14日 23:15

はてなブックマーク - 読んでもらうために気をつけること - 北の大地から送る物欲日記


なるほどね。コメ欄見てたら、文章長いのとか、だらだら改行なしで書かれているのって読む気がしなくなる人多いんだね。やっぱりね。そうだろうねえ。いいこと書いてあっても読む気がしないかー。なるほどなー。そういうもんなんだね。それが普通なんかね。普通なんだろうね。まああれだ。価値観の違いか。私の場合だと、どんなに万人が読みにくいと言って読む気なくしてるだらだら書きの文章だとしても、書いてる人に興味あって、書かれてあることが興味あることだったら読む気は起きるけどねえ。そういう人っていないのかな。まったくいないわけじゃないとは思うけどね。けどさ、読まれたいと思う人は知っとく必要のあることだよね。私には必要ないことではあるけれど。もう配慮なんて考えたくもないし。好きに長く書いてくためにはこれがいいって思ってやってるだけだし。それに、他人じゃなく自分のために書いてるから。私以上に自分のために書いてる人もちょっといないと私は思ってるけどねえ。まあこれも思い込みだけど。やあやあ我こそが一番自分のために書いてるのだーって言う人も出てくるかもしれないしね。まあいいや。どうでもいいや。私はハードル超えてでも読んでくれ、興味持ってくれる人を求めてるから。ま、そうそうそんな人は出てこないけどね。

私の長く続けていくコツは

2008年02月14日 10:09

404 Blog Not Found読者という神は自らを助くbloggerを助く - blogを続ける3つのコツ


まずは未来の自分が読みたくなるような記事を書きましょう。



あーこれは確かにそうだなあと思う。私なんかも8年ウェブで日記を書き続けてきているけれど、過去日記を何度も読み返していて、その中でも、読み飛ばすものと、じっくり読み返すものとに分かれるからねえ。じっくり読み返すものには、それこそ自分がそういう気持ちになるようなものが書かれてるから。内容だけでなく、とりあえずまとまった量の文章が書かれてて、自分の気持ちが正直に細かに書かれていることが多いね。


blogで仲間通しのノウハウ交換をやっているうちに、見物人がわらわらとやってくるのです。



うん。まあこれも言えるよね。


だったら何の遠慮がありますか。徹底的に利用しましょう。自分が絡める話題であれば、遠慮せずに絡みましょう。異論があればどしどし述べましょう。そのアルファブロガーが何か悩んでいて、それに対して何かできることがあれば、「どうせそのアルファブロガーの記事の方がアクセス数が多いんだろ」とか言わずに助けてあげましょう。



私もこの人のブログに一度だけトラバ送ったことがあるけれど、やっぱりアクセスには繋がらなかった。確か、あの時だってほとんどアクセスはなかったように思う。なんつーか、他人はあまりトラバなんて見てないんだなと思ったもんだった。いや、この人が、じゃなく、この人のブログを見ている読者が、だったんだけどね。けれど、何度も何度も絡んでいけば、たぶん、それなりにアクセスは上がっていくんだろうなあ。


書いて捨てるのではなく、書いてまた拾う。blogを続けるのであれば、まずは自分から拾いましょう。そういう姿を見て、人もあなたの記事を拾うようになるのです。



私もそういった書き方はしていたな。誰かの書いたもので自分語りをする。そしたら、それを読んだ人がさらにそれについて書く。さらにさらにそれを読んだ私がまたしても記事を書く、といったようなループな書き方。けれど、最近では、そのループはもうどうでもいいかとも思っている。どちらかというと書いて捨てるほうに変わっていっている。それはもうしかたない。好きに書いていきたいだけだから。そういうやり方のほうが、私は長くブログを続けていけるって気づいてしまったのだから。

自分らしさを貫いてほしい

2008年02月14日 09:26

ブロガーに蔓延する「自分は能力があるのに認められない」病の論理 - すちゃらかな日常 松岡美樹


「はてブで人気エントリになること」は、読者を得るきっかけにはなっても決定的な要因にはなり得ない。第一に、はてブからアクセスしてくる人は、はてブで取り上げられた1エントリは読むが、ほかのエントリはほとんど読まない。

 つまりブログ自体の読者になってもらうのって、そんな簡単なことじゃない。

 また第二の理由は、人気エントリ入りで一時的に読者が増えたとしても、その後、一定水準をクリアする記事を平均的なペースで書き続ける必要があることだ。

 なんせ更新頻度が下がれば、元の木阿弥なのだから。



これには同意。


たまに私の記事がブクマされることがある。そのときは多少はアクセスが上がる。つーか、私のブログの場合は(ここに限らず他すべての私の運営するブログも同様)どんなにアルファな人がブクマしたとしても、大量アクセスには繋がらない。ごくたまにドドッとアクセスが異常にあがることがあるけれど、ただの物見遊山的なアクセスのようだ。
そういった人たちは私の過去ログなんか読んでいない人がほとんどじゃないかな。一人くらいは過去ログ読んでる人がいるかもしれないけれど、アクセス解析見ていてもそういうのは見たことがないし。大抵は「読んだ」と表明してくれた人だけが全部読んでくれた人のようだ。四人くらいだったかな、全部読んだって表明したくれたのは。これは少ない数字だと思う。それに、その表明してくれた人のほとんどが、今はここを読んでいないようだし。解析見てればわかるもんね。それはもう、恐らく「こんな人には付き合っていられない」と思われたんだと私は思っている。まあ、それだけのことをしてきた自覚はあるんで、それはもうしょうがないと思うし、私はたぶん、それを望んでここまでやってきたんだと思う。私は、満たされてしまったらおしまいな人なんだから。書き続けようと思ったら、満たされない状況を作り出さなければならないと思い込んでるわけ。なんともあまのじゃくな奴よのお。(W


つまり、ブログ自体の読者になってもらうためには、自分自身に興味を持ってもらうのが一番なんじゃないかと思うよ。なかなか書かれていることすべてに興味を持たせることは難しい。となれば、ブログ主自体を好ましく思ってもらうことで、この人が書いたものなら何でも読みたいと思わせること。それが一番常連さんを増やすことなんだと思う。ただ、これは、好みが違う人からは受け入れられないから、万全の策とは言えない。いい記事を書いていたとしても、こんな奴の書く物なんか読むかと思われたら、すべてを読んでもらえないことにも繋がるしねえ。ま、あれだ。どっちが自分に合ってるか、それだけだよね。


それにしても、私個人の気持ちとしては、「自分は才能があるのに認められない」「能力を適正に評価されてない」と嘆く人に好ましさを感じる。とても素直な感情表現だなあって思って。けれど、「実力以外の要素で勝ち上がれる今の世の中はおかしい」というのは、ちょっとなあと思う。いや、別に思ってもいいし言ってもいいとは思うけれど、その先、自分より劣ってるように見える者が評価されることを妬んで攻撃するのは、そりゃいかんだろうって思う。
以前、Gが言っていたことに、うまく他人に取り入る事ができることも才能のうちだというのがあったけれど、大した能力もない人が注目されること、それも才能・実力だという考えは私も受け入れられた。なるほど、そういう考え方もあるな、と。なんつーか、みっともなく取り乱したくない、かっこよく生きたいと思っているGらしい考え方だと思ったね。


運も才能のうち、だから、注目されないことを嘆くより、淡々と記事を書いていくことが一番かっこいい人なんじゃないかなあ。まあ、私の好みでは、そういう人も好きではあるけれど、プギャーとわめいてる人にも愛情感じることもあるんで、とにかく、もう、みんな自分の好きなスタイルを貫いていってくれればいいなあって思うよ。どんなスタイルの人でも、誰かはきっと好きになってくれるんだろうから。

正直な人

2008年02月12日 10:29

「嘘をつく子ども - メモ」のコメント欄


適当な嘘がつけない人なんでしょうね。



そういう旦那様に嘘はつけない気がします。
すごくきちんと生きようとしているんだなあと思いました。



「きちんと生きようとしている」この言葉は私の心にしっくりきました。そうなんですよ。うちの旦那さんはまさにそんな人なんですよね。すごくマジメな人なんです。で、こんなことを日記に書いたことがありました。
嘘でも「おまえが一番」とは言わない人。それが旦那です。今はそういうこともないですけれど、昔は女性と二人っきりで食事に行ったこともそのまま正直に話してくるような人でした。そりゃ、別に何もないから私に話すんでしょうけれど、女としては、そんなこと正直に話されたくないわけです。まあ、もちろん、黙っててあとでわかってしまったらきっちりぷんすかするんですけれども。(爆)

そうよ私はあまのじゃく(笑)

2008年02月12日 10:18

真似るは学ぶ? - メモ

私の場合は「トーマの心臓」と「ポーの一族」ですねえ。マンガはね。あと、当時バレエマンガやデザイナーマンガが流行ってて、それらの設定でマンガ書いてたなあ。私も5冊ほどノートにヘタクソなマンガストーリー描いてたですけど、転校する友達にあげてしまって手元にはありませんね。


小説は「アルプスの少女ハイジ」の設定を自分なりに料理した「大自然の中の少女たち」(音楽鳴ります)を書いたし、「十五少年漂流記」を真似したお話や、鮫と少年、ジャガーと少年のお話など、そういったものを小学生の時に書いてました。で、中学になってジュブナイルSFにはまって、「人類のあげぼの号」という小説に出逢ったのです。それは主人公がコールドスリープで未来社会に行くというお話だったんですが、その設定だけを真似して奇想天外な話を作っていきました。もちろん主人公は自分。他の主要キャラも当時の同級生たちばかり。おまけに好きになった人たちもそのまま出して。ずっと書き続けていったもんだから、好きな人がかわるたびに主人公のお相手がくるくるかわるという、ほんと自分の夢をそのまま物語にしたような話ばかり書いてました。まさに、逃避型小説。自分を楽しませるためだけに私は小説を書いてたわけです。けれど、少ないながらも、私の小説をおもしろがってくれた友達はいたんですよね。自分で言うのもお恥ずかしいことなんですけど、それは書かれていたキャラが魅力的だったからだと思います。


以前、ネットで知り合った創作仲間と「作品の重みとか深さ」については話したことがあります。そこらへんのことはこの日記に書きました。
私はキャラ設定が得意なんですよね。とくに男性キャラは私の看板小説に出てくるマリーにファンがついたように、過去ではアディオスやシンゾウやスプリンガーやそういった男性キャラにファンがつくことがけっこうありました。まあ、私自身がプロの方の小説やマンガを読んだり見たりして、どういったキャラがファンがつく傾向があるかを肌でわかってるからでもあるんですけれど。まあ、そんな感じで、Gのようなキャラであるゲクトが生まれたわけですけれど。


とまあ、そんなわけで自分語りはここまで。(笑)


継続することは確かによいことだという見方がある。私も継続することに意義があるという考えも持っている。けれど、継続できないからといってそれで自分はダメなんだというのも違うんじゃないかとも思う。いや、別に、ゆっけさんが自分をダメだと思ってるとは思わないけれど、継続できないことは、ゆっけさんにとってはそんなに重要なことじゃないんじゃないかな。私から見れば、ゆっけさんは私より多くの人の関心を惹き付けることができる人でもあるんで、時には嫉妬心さえ抱くこともあるのだから。私にとって嫉妬心を抱かせる相手は私にとっては特別の相手。そういうものが持てなくなったら、私はその人から急速に心が離れていく。もちろん、私はGに対しても強烈な嫉妬心を抱いているよ。


真似ることに忌避感があるというゆっけさん、それでいいじゃないですか。「基本を知らないのにオリジナルも何もあったもんじゃない」というけれど、あなたは十分ステキなオリジナルを作り出してる。それだからこそ、あなたの書くものに多くの人の関心が寄せられるのだと思います。それに、私とは違って正直ですしね。私はどうしようもない根性曲がりのあまのじゃくですからして。もっとも、私はこんな私をけっこう気に入ってたりする。そりゃもう完全無欠の人間を毛嫌いしてますからねえ。

パクリとかそこらへんの話

2008年02月09日 11:08

はてなブックマーク - 「にれ」 - SOMETHING BLUE


2008年02月09日 aozora21 パクリ すごく不思議なんですがそっくり真似しているのに本人無自覚てことがあるんですよね…。/お絵かきなんかは真似しても下手で似てないからオリジナルてことにしたりはするけれど(笑)



私もプロットを考えていて「これおもしろい」っていうのができて小説を書いた後に、過去に読んだマンガや本を読み返したら、同じようなことを書いていたってことがあった。読んだはずなのにその内容を覚えてないということは、読んだときはそれほどおもしろいって思ってなかった話だったんだろうと思う。「赤毛のアン」や「あしながおじさん」などは内容を覚えてるわけで、それ以外でも内容を覚えているものって多々あるのに、覚えていないものを無意識のうちに書いてしまうっていうのも、当時の私は受け付けなかった内容が、年月が経って受け入れられるようになったということなのかなあと思った。


あと、小学生や中学生の時に書いていた私の小説は、既存の小説やマンガの内容が好きで、それと同じような設定で似たようなものを書くことがほとんどだったな。それが悪いとか考えたこともなかったし。もっとも、そのまま本の内容を清書したような一語一句を真似して書き写すのとは違う書き方ではあったわけだけど。そういう書き方は故意にやってるわけで言語道断なんですけれど。

これこそ究極の自分語り

2008年02月08日 23:48

牛蒡 また友達の話


前半の記述を読んでると、私と私のとある友達との間みたいな感じだよなあと思った。その友達はネットなんかはしない人ではあるんで、私がネット上で書いた(ここでも過去に書いたような気もする)彼女のことを読むことはないだろうし、たとえ読んだとしても自分のことだとか、誰が書いたのかということまでは気がつかないかもしれない。まあ、本家で名乗ってるPNで公開している日記だったら、自分のことを書いていることも私が書いてることも気がつくだろうけれど。ただ、本家では8年前にうちにきたときの様子しか書いてないけれどね。


彼女から今年も賀状がきた。今年は職探しをするとか書いてあった。病気のために一生もんの職だと言われていた仕事を辞めさせられたわけだったけど、また同じ職につくんだろうか。でも、一昨年、偶然にバッタリ出会ったとき、何年経っても全然変わってない彼女の様子を見て、まだ彼女の病気は完全に治ってないんだなと思った。わからないけれど。私は医者じゃないんで、ただそう感じただけだったけれど。でも、何年も前に彼女が言った「私は大丈夫だと思うんだけどね。でもね周りがそうじゃないって言うの」というのが、感じられたから。ただ、この間出会ってからさらに1年半経ったわけで。状況は変わったのかもしれないし。だけど、彼女の頑なさは昔から折り紙付きだったからなあ。年取っていけばますますそれに拍車がかかるような気がしないでもないんだけど。


僕は君の彼氏が大嫌いだし,君の周りにいる人たちとあまり価値観は合わないし,それに染まってきてる君を見ると少し悲しいけれども,そのことについては黙ってる。君はどうかな。時々触れてほしくないところまで踏み込んでくる。そういう時は笑って誤魔化しているけど,もしかしたら僕もそういうことしてるかもしれないって思うからよっぽどでない限り責めたりはしないけれども,帰り道楽しさと名残惜しさの中にふっと悲しみが紛れ込むことが増えてきた気がするんだ。変わっていくしかないのかな。あの頃には戻れないのかな。わからなくなる。



そして、一転して、↑の記述からは、昔、私が旦那と付き合い出す頃に友達に言われたことを思い出した。旦那って、私と付き合い出す前は、私自身からも仲間内の女性からもいい印象を持たれてなかった。私は、まあ付き合うちょっと前から他の女性より一緒にいろいろ遊びに行く機会があったんで、どんな男かを知っていくようになったおかげで、意外といい奴だってことがわかっていったわけではあるけれど。旦那と私の仲が怪しいとなったとき、他の友達に言われた。「あいつと付き合うのか」って。でも「あの男はやめときなさい」とも言われた。で、私もそのときは「付き合うわけないじゃん」とは言った。旦那は私の好きなタイプの男じゃなかったしね。ありえないしと思ってたし。けれど、結局、面と向かって告白してきた旦那になし崩しっていう感じでほだされていった。そのときには、好きという感情より、私に振られたら遠くに行ってしまうという言葉にショックを受けたからでもある。もう楽しいドライブができなくなるんだという気持ちが強くて、この人を放しちゃいけないって思ってしまったんだよね。今思い出しても、好きという感情は自覚がなかった。初めてだった。他に好きな人がいるのに、他の人から好きと言われて、この手を放してはダメなんだって思ったのは。それまでだったら、自分の好きな人だけが絶対で、たとえ、自分の好きな人が自分に振り向いてくれないってことをわかってても、私を好きになってくれる人を捨ててまで、自分の好きを貫いてきたのに。そんな私が、旦那の手を取ってしまった。それはイコール、当時好きだった人を諦めるという選択。


そりゃもう、周囲からは驚かれたもんだったし。私が絶対選ばないような男を選んだんだからねえ。ただ、今でも思い出すのは、旦那の友人Aが、私が旦那に告白されてまだ答えを出していなかったとき、私に「あいつは本当にいい奴だから」という言葉が忘れられない。それまでは、こんなふざけた男の物になるのは考えただけで虫唾が走ると思っていたんだけど、そのAの言葉を信じられるまでにだいぶ旦那の本性がわかってきてはいた。本当はすごく男として優れた男なんだっていうのを以前より接するようになって薄々気づいてきてた頃だったから。結果、私は旦那を選んで正解だったなと今は思っている。まあ、100%ではないけどね。そりゃしかたないでしょう。旦那自身には微塵もモンクはないけれど。ま、これ以上は言えないから言わないけれど、察しのつく人にはつくということで。(笑)


つーか、ほんとリンクした記事には全然関係ない話でした。ま、そこはそれ「言及とは名ばかりなり」ですからして。書かれていたことでブワッと思い出したことを殴り書きしただけですから。これが究極の自分語りってもんです。わはは。

価値観の違い

2008年02月08日 11:32

【2ch】日刊スレッドガイド 妻のダークサイドな部分を見たとき


これは私だけの印象なんだけど、男はスプラッタみたいなもんはダメっぽくて、女はわりと平気なのかなあって。でも、それが好きだからって、同じことしてみたいなんてことにはならないと思う。男が、陵辱ものが好きでも、だからって即実行するとも限らないし。それと同じだと私は思うんだけどねえ。同じに見ちゃいけないのかね。同じだと私は思うんだけどな。


なんかグロ系見る女が理解できないっていうのもそっくりそのまま返される場合があると思うし。ほら、アダルトビデオいくないって捨てさせた奥さんとかいたでしょ。ああいうのも女から見たらどうしてこんなもん見るかなあって言うわけで。エロとグロの違いだけなような気がする。つまりは価値観の違い?


とまあ、脊髄反射で言うてみるてすつ。といっても、公開はいずれ、なんだけど。何だよ、このチキン野郎って。自分突っ込み。(W

働かない私は生きてる価値はない

2008年02月08日 00:13

「働かざる者食うべからず」 - 忘れ去られるべき日々について


ああ、私も以前そんなこと書いてたよな。ここで書いたんだっけ?仕事しない私には生きてる価値はないとか、そんなことを書いた覚えがある。でも、それは私自身に放った言葉であって、決して仕事をしていない他人に向けて放った言葉じゃなかった。それでも、人は私を非難するだろう。「仕事していない私は生きてる価値はないんですか?」と。そんなふうに似たようなことは過去に何回かあった。私自身でさえも、他人が書いたことで相手を非難したことがある。
とはいえ、「働かない自分はクズだ」ではなく「働かない人間はクズだ」と書かれている上に、個人に向けてそのようなことを言っているのだとしたら、もうどうしようもないよね。何を言っても無駄なんじゃないかな。


働かなくても食べていけるのなら働かなくていい。食べていけないから私は働きに出た。ただそれだけのこと。働くことは崇高なことでもない。息をするために行動をしているのと同じこと。そして、趣味を続けるための手段でしかない。
どんなに仕事に行くのがユウウツだったか。それは仕事が嫌だったからじゃなく、すべて人間関係がうまく取れなかったことによるものだ。最初は辞めたくてしかたなかった。仕事は難しくなかったし、しんどいものでもなかった。対人関係で辞めたかった。でも今はそれなりにうまくいってる。さらに、今はそんなに仕事をしなくてもいい状態にはなった。それでもこのいい状態がいつまで続くかわからないので仕事は辞めない。たぶん、宝くじで三億当たったとしても今の仕事は辞めないだろう。もっとも、三億なんて当たらないとは思うけどね。つーか、この間、うちが買った売り場から三億出たけど。かなり悔しかった。(W

減ったよ

2008年02月07日 17:52

読者を減らす方法 - 大須は萌えているか?


まあ、もともと読者の少ないブログだったんだけどね。何度も「閉鎖」と「再開」を繰り返すうちに、数少なかった常連さんもいなくなっちゃったもんね。
ただ、毎日更新しつつ減らすっていうのは、よっぽど書いてる内容がちんぷんかんぷんじゃないとできないだろうな。こんな私の書くものでも、執着持ってくれる人はいないわけじゃないんで、記事を乱発すればそれなりにアクセスはあがる。それはまあ、こんなふうに誰かの書いた記事をリンクすれば、リンクされた人は一度はアクセスしてきたりするしねえ。あとはもう、リンクもせずに、何を読んで書いたのかも明言せずに独り言を書くくらいかなあ。私がプライベートモードでどっかに書いてるもんみたいに。(W
あれはねえ、最初プライベートモードじゃなくても誰もこなかったしねえ。検索で辿り着いた人が一人二人いたくらいか。


ほんと、私ってそんなにおもしろくないもん書いてんだなあって、思ったもんだった。たくさんの人に読んでもらえるものなんか、私には書けないんだなと思い知ったよ。まあでもいいや。それでも。これからも好きに書いていくから。

ある意味ブルドーザーな私

2008年02月02日 09:13

ブルドーザーのごとく - 深く考えないで捨てるように書く


でもネットでは、ブルドーザー同士が激突したり、相手がブルドーザーだと分かっているのにあえて進路の前に身を投げ出す人がいたりするのを、ちょくちょく見かける。



TVで素晴らしい折り紙を作っている外国人がいた。それを息子と見ていて、私がこう言った。「こういうの見てると、ぐしゃって潰したくならない?」でも、息子は「そんなこと思わないよ」と言う。さらに私は「たとえば、信号待ちして、通り過ぎるダンプとか見てると、ついふらふらっとその前に飛び出したくなるんだけど、そういうのない?」と言えば「そんなことならないよ」とも。それは旦那も同じだった。どうやら、私だけがそんな気持ちになるらしい。


その心理の違いは何だろう。と考える。まあ一番わかりやすいのは、旦那と息子は健全な心の持ち主で、私は不健全な心の持ち主ってことなんだろうけれど。間違いなく、車を運転したら、二人の運転する車は安全なんだろうけど、私の運転する車には絶対に乗っちゃダメってことかな。もっとも、私は車の免許は持ってないので、運転はしないんだけど。


私もある意味ブルドーザーみたいなもんかもしれない。旦那の私に対する評価は「おまえは猪突猛進」だから。

悲しみよこんにちわ

2008年02月01日 11:06

ネットは価値観の齟齬を埋めるツールなのか、それとも溝を深めるものなのか ひとりごと-ウェブリブログ


 ネットは、寧ろ溝を深める可能性が高いけれど、だからこそ齟齬が埋まった時は喜びが大きく、またそれを公開している事で、多くの人が同時に理解してくれる可能性がある。そう思うと、やはり、「価値観の齟齬を埋める事もあるし溝を深める事もある」と書くしか無いんだよね。


昔昔の私は「所詮人間同士わかり合えることなんてないんだ」という言葉を聞くと、そんなことはないと強く力説し、そんなことを言う人を非難したものだった。絶対にわかりあえるよと声高に言い放ち、そんな悲しい事は言わないで、きっとわかりあえるよと言ってきたものだった。でも、今の私は確かにわかり合える事はないんだという思いも抱くようになった。ただ、絶対にわかりあえないと断定するではなく、わかりあえることもあるし、わかりあえないこともあるということが事実であることを知っているというだけ。それが誰にとっても真実なことなんだろう。


どうしてもわかりあえない人もいる。
でもわかりあえる人だっているんだ。
それでいいじゃないか、と。
むしろ、わかりあえないことがあるために、わかりあえることがより一層素晴らしく感じられるんじゃないかなって。


わかりあいたい人とわかりあえないことはとても悲しい。誰にとっても悲しいだろうし、私はとくにそれを悲しく思う。けれど、たった一人でも誰かとはわかりあえる、たとえ細部でわかりあえなくても、それでも他の部分ではわかるよ、それでもいい、それでも付き合っていける、それでいい、そんな些細なことでも心に温かさを感じる、そのおかげでわかりあいたい人とわかりあえない悲しみが和らぐのだから。だけどその悲しみは完全にはなくならない。だってやっぱりわかりあいたい人とはわかりあいたいと思うのだから。でもどうしようもないことなんだ。その人とわかりあえることは無理なんだ。無理なんだけど、その悲しみを完全になくしてしまいたくはない私もいることは確か。それはその人を好きだったこともなくしてしまうことだから。だからなくさない。それに、その悲しみがあるからこそ、わかりあえる人との間に生まれる温かいものがより一層温かく感じられるわけだもんね。


そう思えば、きっと、どんな感情だって受け入れられる。そんなふうに思う。悲しみよこんにちわ──そんなふうに思えるようになれるよ。うん、きっと。



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