友達をなくすことにはならない

2008年06月11日 10:36



ブロガーという病 - 琥珀色の戯言


言っておきますが、私はじっぽさんの書くものは好きですよということです。なんでそんなことを言うかというと、そうやって言い訳がましいことを書いておかないと、なんか変な誤解されそうな気がしたんですよね。えっけんさんとのやり取りをずっと見てて。しつこいようですが、私はじっぽさんのことを嫌いなわけではありません。もっとも、どんなに私はこうだからと言ってもわかってはもらえない人なのかもしれないという気持ちは拭えないんですけれど。


 もしあなたが柳美里さんなら、もうそれはしょうがない。

 彼女は、そういう生き方しかできない人なのだろうから。

 でも、「ブログや文章で身を立てていこう。そのためなら、どんなに身内に後ろ指さされても構わない」というのでなければ、顔出しで身内の不幸をネタにするのはやめたほうがいい。そんなこと言わなくてもみんなわかっているはずなのに、人気ブロガーになると、ついついサービスしちゃうんだよね。

 それでキャーキャー言っていた人たちは、閉鎖したあとは鼻水もひっかけちゃくれないのに。



 友達や身内をブログのネタに使うな、ブログは炎上するかもしれない。それはそれで仕方ない。でも、友達までなくすことはない。



これを読んで私がくりりんしたのは間違いないです。まあ、じっぽさんが私のことを念頭に置いて書いたわけじゃないとは思いますが(それはわかりませんが、もしかしたらってこともありますしねえ)、でも、私も間違いなく身内や友達をブログのネタにする人間だし、よく知っているわけじゃない人の書いたものまでもネタにして書く人間ですからね。そりゃもうくりりんしてしまってもしかたないでしょう。というか、じっぽさん自身も友人や身内をブログのネタにして書いているという自覚は持ってるんでしょうか。自分もやってるということを棚上げにして他人を批判してる自覚なんですけど。自分をも批判の対象として込みで批判していると言うのならまあしょうがないよね、好きに書けばいいと思うんですけれど、もしかしたら気づいてないのかもしれないなあなんて思っちゃったんですけれど。ブクマでもこんな発言がありますよね。


2008年06月10日 ululun blog fujiponさんも、そのブロガーさんのことを良くは知らない儘、ブログに書かれた死を題材にしてエントリを起こしているという事実から逃れることは出来ていないのですけれどね。不謹慎ゲームから逃れることは出来ない



まさにその通りだなあと思いましたよ。
じっぽさんは、お通夜の写真つきで死のことをブログネタにしている人を批判しているわけです。そうやってその記事に対する違和感を書いているわけです。違和感を書くことは自分の正直な気持ちを書くことで何ら問題はないと私は思います。私もこうやってじっぽさんの書かれたことで思ったことを書いているのと同じことですからね。けれど、死をネタにするとはどうかと思うといったような記事を書いている自分もまた死をネタにして書いているということに気づいているんでしょうか。気づいていて書いているというなら別にいいんですけど。つまりは、じっぽさんが柳さんの話を持ち出しているように、自分もまた「不謹慎な人間」であり、そういうブロガーとしての生き方しかできないのだとわかってやってるということで、不謹慎な道を進めばいいわけですしね。でも、自分は死はネタにしない、身内や友達のこともネタにしない、不謹慎なブロガーではないと言うのなら、こういった記事は書かないほうがいいんじゃないかなあと思いました。いや、違う、そんなことは言ってないと言うかもしれませんけれど、でもさ、だってさ、どう見ても自分はそういう不謹慎なブロガーとは違うというふうに取れる記事だなあと思うんだもの。


私はもうどうでもいいと思ってるよ。私は誰に最低最悪な女だと思われてもいいと思ってるよ。だって書きたいと思ったことをこれからも書いていきたいから。不謹慎だと言われても、誠意がないと言われても、本当は相手を好きじゃないんだろうって言われても、好きな人に好きになってもらえなくても、それでも私は「書きたい」と思ったことを書いていきたい。私の母親のように「お母さんのどんなこと書いてもいいよ」と言ってくれる人だって世の中にはいる。私はそんな母や、そんな人たちこそが一番素晴らしい人々だと思っている。そういった人たちは自分の死でさえもネタにして書いていいよって言うよ。ただまあ、そのうちの一人は「覚悟を持って書けよ」とは言うだろうとは思うけれど。


書くっていうことはね、友達は持っちゃいけないんだと思う。というか、持っちゃいけないという心構えでいなきやいけないってこと。「友達までなくすことはない」そんな言葉は何の力も持たない。書いたとしても友達をなくすと決まったわけじゃない。書くことで友達をゲットできることだってあるはず。現に、私だって、確かに書くことで友達はなくしてきたけれど、それとは逆に友達もゲットしてきた。書くことで。そういうこともあるんだということは忘れないでほしいな。

気楽に書けたらいいな

2008年06月10日 10:27



Twitter - kawapon ネットという場所が文章を書ける場になれるのかどうか..


「ネットという場所が文章を書ける場になれるのかどうか、僕はブログを通じて試してみたけど、まあ無理だなと思った。オフラインで書く文章とオンラインで書く文章では力の入り方が違う。」



↑の発言を見て、思い出したのがzeroさまの次の言葉。


「今は思います。
薄っぺらくてもよかったんじゃないの、とにかく完結すれば。
って。
生きてるうちに書き終わる薄っぺらい身の程長編のほうが、絶筆する身の程知らずの大長編より、何万倍もマシだったんじゃないの?
って!!」





いやまあ、この二つの発言がどう繋がるのか、ただのこじつけじゃないかと思われる方もいるかと思うんだけど、誰が私を非難しようが(たとえば「誠意ある言及とは言えない」とかとか)私の中では繋がってんだけどね。つーか、ぐだぐだ言い訳すんなよヂブンとも思うんで、いいかげんやめとけよと自分突っ込みしちゃったりするけど、まあそこはそれ、私ですからもう諦めてください。(って、誰に言ってんだよ)


以前、私も日記で投稿作品とオンライン作品では書くときの力の入りようが違うとか、心構えが違うとか書いていたこともあった。そりゃね、投稿作品は賞を狙って書くわけだから、力の入れようが違うのは当たり前。だけど、そのときも言ったけど、だからといって投稿を考えずにオンラインだけで書いた作品を劣っているとは思っていなかった。というか、他人の評価を考えずに好き勝手にのびのびと書いているという点で言えば、オンラインで書いた作品のほうがおもしろく書けてたりすることもあるとも思ってたしね。なんつーか、小説に限らず、詩やエッセイといったような書き物の評価って普遍的なものってないでしょ。どんなにくだらないと多くの人が言ったとしても、高く評価する人もいたりするし、どんなに崇高な作品だと多くが言ったとしても、下劣だと評価を下す人がいたりする。時代によっても変わってくるわけだから、高く評価されても低く評価されてもそれは絶対的なものじゃない。だから、書き物っていうものは他人の評価で決まるものじゃなく、やっぱ評価を下すのは自分しかいないと思うんだ。


本当に気楽に書いていきたい。日記も詩もエッセイも小説も。誰かのためじゃなく。褒められたいからじゃなく。認めてもらいたいその人に認めさせるためじゃなく。過去日記では、いよいよサイト名にもなった小説ノートの始まりの箇所に差し掛かって、あの頃、夢中になって書いた小説とも言えないようなお話を書き出した頃の楽しくてしかたなかった気持ちを懐かしく思い出した。それはたぶん、栗本さんが小説を書くその気持ちと同じものだったに違いないと私は思っている。それは、うなさんの書いた記事で思ったことでもあるんだけど。


しかしまあ、ほんとに薫は反感くらいまくりそうなストーリーを、脅威の文章力でごまかしまくっていたんだなあ、と感じ入る昨今であった。



あれですよ、つまりは彼女は今ほんっとーに誰のためでもなく自分のためだけに小説を書いているというだけのことなんですよ。それについてあーだこーだ言うことは無駄なこと。彼女の書く物を好きだと思う人だけが読めばいい。それだけのこと。私は栗本さんが作家になってくれてよかったなと思っている。私にとって一番好ましく思えるものを書いているのがこの人だから。彼女が作家になってくれたおかげで、私は最も読みたいと思うものを読めるようになったわけだから。彼女を最低最悪の作家と誰が言おうと、そして、それが本当のことだとしても、私は彼女の書くものが好きだし、読めてこんなに幸せを感じる書き手はいないと思っている。私は自分のために、自分を救うために何かを幼い頃から書き続けてきたけれど、他人の文章でも救われたと思った初めての人が彼女だった。昔の文章より、今の文章のほうがより一層好き。それはまあガクトさんにも言えるんだけどね。ガクトさんも昔のガクトさんより今のガクトさんがより一層好ましいと思ってるし。けどまあ、それはそれで「私は違う。昔の彼(彼女)が好きだった」と思う人だっているだろうけど。それはもうしかたないよね。本人がそうなりたいと思って今の彼らになったわけだから、それを元に戻ってくれと言ったってどうしようもないよね。イヤなら離れればいいし、好きならどこまでもついてけばいい。それだけのことだし。


とまあ、脱線しまくりでいつものように勢いで書いちゃいました。ま、いっか。書いてて楽しかったから。リンクされた人には不本意なんでしょうけど。いつものように読んだ言葉で「こんなん考えちゃいました~」というだけです。

気楽にブログやっていくためにも

2008年06月02日 15:07



ここからはリンクしないけれど、今日からライブドアでは書かないんじゃないかなあと思って、あちらからこちらのリンクをはることにしました。


がくふら繋がりの皆様こんにちわ、ここではノイズといいます、よろしく。(笑)


とはいっても、こちらもライブドアと同様、頻繁な更新があるとは保証できません。ただ、けっこうな過去ログがあるので、ご興味ございます方はごゆるりと読んでやってください。ただ、コメントはつけられないのであしからず。とはいっても、以前もらったコメントを表示させるために閉じる前にもらったコメントの記事には今でもコメントがつけられるようです。そのせいでスパムコメントを書き込まれてしまうこともあり、コメントつけられても即表示ができないようになってます。だから、スパム以外でコメントもらっても確認せずにほったらかしになってしまうことでしょう。だから、確実に何か私に伝えたいと思うことがあれば、メールフォームからお願いします。まあ、そういう人もいないでしょうけれど、一応のアナウンスです。


思えば、がくふらが一ヶ月更新になってからだいぶ経ちます。書きたいことがないわけじゃなかったけれど、昔のように脊髄反射でガクトさんについて語るってことがなかなかできないでいました。別に非難されること恐れてとかそういうことでもないんですけどね。ただ、がくふらで書くものは、だんだんと人の目を気にして書くようになっていったようです。つまり、自分でも納得し、他人にも納得してもらえるような意気込みのある完成されたものを書こうと思うようになっていたようで、チラシの裏に書くような気楽な感じで書くということができなくなっていたようですね。だから、書こうとするととても時間かけてしまって、いざ書こうとしても気力が出てこないわけです。別にくだらないツブヤキでも書けばよかったんでしょうけれどねえ。でまあ、そういうこともあって、こちらでは気楽にガクトさん関連のことを語ってはいました。ただ、最近ではここに書くような気楽な気持ちでも、なかなか書こうという気持ちになれなくなってました。その理由のひとつをちょっと語らせてください。


少し前のことですが「あなたは本当にガクトが好きなんだろうか?」と、ある人から言われたことがあります。つまり、私からは他のガクトファンのようにガクトさんに対する愛情が感じられないということでした。ガクトさんを好きな自分が好きなだけなんじゃないか、と。で、私が書くガクトさんのことは、どうも「書いている言葉と、気持ちの向きが違っているのではないか」と感じられたそうなんです。まあ、その人がそう感じたのなら、私はそれを強く否定する自信はないので、そう感じられてしまってもしかたないかもしれないと思うと同時に、たぶん、この人だけじゃなく、他の人もそう感じている人もきっといるんだろうなあと思ってしまいました。ただ、思うに、当時こう言われた時の私は、やはり自分の好きという気持ちを否定されたと思って、かなり凹んだんですけれど、考えたら、他人はどうあれ、一番ガクトさんに対する気持ちを否定されるのが怖いのはガクトさん本人に他ならないなと思ったんですよね。つまり、誰が「あんたはガクトさんを本当は好きなんじゃない」と言ったとしても、ガクトさん本人が私の「ガクトさんを好き」という気持ちを「君は僕を本当は好きではないんだ」と言って否定しない限りは堂々としてればいいんじゃないかって。もっとも、今まで書いてきたガクトさん関連のものを読んで、ガクトさん自身がどう思っているかを知ることはなかなか難しいとは思います。そりゃまあ、メールなどで質問するということもできないわけじゃないんですけど、本当にその答えが返ってくるかはわからないわけです。返ってこないが当たり前だと思うし。また、本当に返ってきても果たしていいことなのかどうかもわかりません。返ってきたことをこんなふうにウェブ上で書いていいものかどうかもわかりませんしね。だから、まあ、結局は、他人が否定してきたとしても、好きなように語っていけばいいんでしょうけれど。なんだかんだいっても、書いちゃうのが私という人間ですから。


でまあ、私のガクトさんに対する気持ちを否定した人は、私がガクトさんの名前を出してはいても、結局は自分のことしか語っていないと言っていたわけですが、それは確かに私も否定しません。というか、それはもうしかたないことじゃないかなあと思うんですよ。私は大した才能がなくても、それでも自分を創作者であると思っているところがあるので、自分の創作心をガクトさんという存在で刺激されていることもわかってるつもりです。まあいわば、がくふらで書いているものや公で書いているすべてのガクトさん関連の書き物は小説と同じような創作物の一種だと思ってもらってもいいわけです。つまり、それこそ「こんなん出ましたけど~」の世界ですよ。でも、だからといって、好きという気持ちは否定されたくない。というか、そもそも対象が好きじゃなかったら、創作もできませんからねえ。わざわざ嫌いなもので創作なんてしませんから。ただ、そういった屈折した愛情は普通のファンの人とは違ってはいるという意識はちゃんと持ってます。そういうこともあり、私は他のファンの人とはなかなか一緒に語り合うということはできないなあとは思ってますから。でも、誓って、私の気持ちが上だとか思ってませんし、下だとも思ってませんけれど。だから、やはり「書いている言葉と、気持ちの向きが違っているのではないか」と言われてもね、納得できませんでしたよ、はい。頭の悪い私にもどうしてそう思うのかをキッチリわかりやすく説明してもらいたいものです…とは言うものの、たぶん相手もはっきり説明できるわけじゃないかもしれない。ただ何となくそう感じただけなのかもしれないし。だから、当時はむかつくコメントもらったというだけで頭に血が上ってしまってはいたけれど、今では「そう感じる人がいてもしょうがないか」と、やっとのことで「どうでもいいや、そう思うならご勝手に」と思えるようになりました。とまあ、そういった自分の気持ちの移り変わりをこうやって書くことで、相手の人へ抱いていたネガティヴな気持ちを打ち切りにしたいなと思ったわけです。ごめんなさいね、どうでもいいような過去のことをグダグダ書いてしまって。(^^;


これからも、そんなにガシガシとガクトさん関連で何かを書くということはないかもしれません。コミュニティサイトでは会員登録すればガクトさんの画像つきでブログとか書けますが、私は登録ができない身の上でもあるんで、今は、マイスペースでガクトさんとフレンドとなったことでもありますし、もし、何かガクトさんに読んでもらいたいものができたら、マイスペースで書くかもしれません。つまりは、私が書くガクトさん関連の書き物っていうのは、ガクトさんをモデルにして書いている小説以外の書き物はガクトさん本人と私自身が読めればいいと私は思っているのかもしれないと何となく思ったんで。まあ、そうは言っても、それだったら手紙とかメールとかでいいじゃんと私自身も思うんですが、どうしても私って、こんなふうに日記風に書きたいという気持ちがあるんですよねえ。以前、中島さん(作家の栗本薫さんのことですが)へ毎日のように送っていた手紙も、結局は今ではウェブ上で公開してます。それは誰かに読んでもらいたいという気持ちもまったくないではないんですけれど、基本はやっぱり「自分が一番読みたいという形がこういう書き方だった」ということなんですよ。だから、そんなふうに公開して日記を書いている理由でもあるんですよね。一番の読者は私自身であり、そして、興味を持ってくれた人が読んでくれたら嬉しいかなあという。そんな感じなんですよね。


でもまあ、そんなこんなで、いろいろどうすればいいのかまだ迷っているところがありますが、一つ言えるとしたら、ライブドアではもう書かないだろうなということ。そして、たぶん、ここでももう書かないだろうなということでしょうね。まあ、それでも絶対にそうだとも言えないです。とくに、ここノイズの場所は、過去に何度も止めると言っては再開したりしてたんで、もう誰も私の言うことは信用してくれないかもしれないし。でもまあ、いいじゃない。ブログなんて好きにやってけば、という気持ちもないではないです。削除しない限りは、気分でまた書きたいなとなっとなったら書くことになるかもしれないし。ただ、もう自分から削除はしたくないという気持ちだけは確かなことなんで、ライブドアもココも削除はせず、そのまま公開し続けますです。あ、それと、考えてみたらFC2のブログって一ヶ月以上記事を書かないと、トップに広告の記事が挿入されちゃうんですよね。それはちょっとイヤだなあと思うんで、何か一言でもツブヤキを入れるだろうとは思います。


こんなフラフラしてる私ですが、これからもひとつよろしくお願いします。(って、何度同じこと言ってんだかですよねえ)