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価値のないブログなので好きに書かせてもらいました

2008年11月27日 08:32



私のブログは他人にとっては価値のないブログだと思っている。そりゃ、私の書く物が好きだと言ってくれる人は価値があると思ってくれているだろうけど、果たしてそうだろうか、本当にその人にとって価値があるとなってるだろうか。それはわからない。価値があるよって言ってくれる人は一人か二人しかいないからな。他の無言の人々については「これこれこういうことで私にとっては価値があるんです」って言ってもらわない限りは私は何も信じない。って、言われても信じるかどうかもわからないけど。これはもうね、自己中の極みなんだけど、わたしの価値観というものと他人の価値観がズレているからなんだろうなと思わないでもない。もっとも、本当にズレてるかどうかなんてみんなに「どうよ?」と聞いてみたわけじゃないんでわかんないんだけど。

私が他人の書いたもので価値があると思うものは「いかに私に何かを書かせるか」に尽きる。今、ある人の書いたものでこんなふうに脊髄反射で何かを書かせてもらってるわけなんだけど、まさにこれを書かせた記事は私にとっては価値のあるものだ。そういう私に何かを書かせる力があるものを書いている人は私にとって価値のある存在だ。その人が気に食わない人であってもね。(爆)何も価値あるものを書いてくれるからといって、だからその人が「好き」というわけでもない。それは私だけじゃなく、他の人もそうだろう。けど、価値あるものを提供してくれるから好きにはなりやすいとは思う。私なんかはけっこうそういうことが多いから。その中でも最たる存在が有名人で現在二人いるけど(バレバレやな)、私がその人たちを好きで執着するのも、価値あるものを提供してくれるからだけじゃなく、その人の考えや思想が私にとってしっくりくるものだからなんだよね。そして、何より私の背中を押し続ける人たちということで。まあ、書かせるということだけでなく、その存在で何かを頑張れる、ちゃんと行動できるっていうのが私にとって価値のあるということなんだろうな。もちろん、何も書くことがなくても、読んでるだけでほんわかいい気分になれるとか、安らげるっていうのにも価値はないわけじゃないけれど、だけど、やっぱり私は何かを書きたい人だから、どうしても価値が上がる存在っていうのは「私に何かを書かせる」ってことなんだよなあ。

まあ、ありがたいことに、ノイズのブログでも他のいくつかのブログでも、脊髄反射的に閉鎖してしまおうとして、それで「待った」をかけてくれた人とかがいたんで、少ないながらでも私の書く物に価値を見出してくれている人はいるみたいだなあとは知れた。その価値が、私の考える価値とは違うのかもしれないけれど。他人の考えを尊重するのなら、そういった価値観も認めなくてはならない。けど、私はワガママだ。やっぱ、私と似たような価値観を持ってる人と仲良くしたいなあとも思う。でもそれはなかなか難しい。つまり、私の書く物で思わず「こんなん出ましたけど~」と何かを書いてくれる人、そういう人がまったく私にはいないということにかなりの絶望感を抱いてしまったということ。私には他人に何かを書かせる力はないんだという事実。私は誰の背中も押すことはないんだという、そういうことを幾度となく思い知らされることに絶望してしまった。

確かに、私のコミュニケーションのしかたは特殊だ。それについてこれる人なんてそうそういない。昔はそれでも何人かそういったコミュニケーションを取れる人もいたけれど、そういう人はなかなか群れるということを嫌う人たちで、結局はみんなどこかに消え去ってしまった。さて、私もそろそろひとつに絞らなくてはならないかなあと思っている。これでまた何人かを切り捨てることにも繋がるんだろうけれど、それはもうしょうがない。私もまた進化し続けなければならないからね。
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これもまた罵倒記事

2008年11月03日 20:52



えっけんさんが私の書いた記事をブクマしてこんなことを書いてました

"私はむかついたことをむかついたと書き続けたい。" それをなるべく多くの人に単なる罵倒と思わせないように書く工夫


Dカテで書いているものは言及というほどではないけれど、とある記事を読んでこんなこと思ったあんなこと思ったということを書いてるわけですが、賛同の気持ちから書くこともあるし、もちろん不賛成の気持ちから書くこともあります。でまあ、前回書いた記事では、はっきり言って「むかついたから書いた」というものであったんですよね。いいことを書いてるんですけれど、なんというか私にとってはその記事は当たり前のことを書いているなという思いしか持てなかったんですよ。そんな当たり前のことしか書いていなくても多くのブクマがついている記事だったわけで、完全にもう嫉妬心からくる八つ当たりな記事ではあったんです。しかも、書いた人にとっては「どうしてそうなる」というような不本意な記事になってることは確か。でまあ、私は今では言及元を明らかにせずに書いているんで、えっけんさんの立ち居地からすれば非難されてもしかたない、チキン野郎な記事の書き方をしているわけです。それはもう承知の上でやってることです。えっけんさんは「罵倒と思わせないように書く工夫」と書いてますけど、でも、時々、罵倒芸で多くのアクセスを稼いでいる人を見ると、多少なりとも罵倒芸でアクセス稼げるかしらなんて思ったりすることもないわけじゃないです。罵倒にもいろいろあって、見てて楽しい、思わず「うまい!」と座布団三枚でもあげたくなるような罵倒芸の人もいたりして、自分もそんな楽しい罵倒芸ができたらいいなあと思うこともないわけじゃないですから。でも、たぶん私の罵倒芸はとっても見苦しいものになると予測はつくんでやりませんけれど。

つーかね、私が過去に炎上したのもね、罵倒したからじゃなかったんですよね。けれど、それでも炎上してしまったわけで。罵倒しなくても罵倒して炎上するのと同じようなことになるもんなんだなあと、後に思ったもんね。それはまあ、日頃から私にむかついていた人たちが、ここぞとばかりに叩こうと思ったということかもしれないし。まあ、昔の私もけっこう好き勝手に高圧的な日記とか書いてましたから、それはもう自業自得ではあったんでしょうけど。

でもさ、罵倒と思わせないように書く工夫してもね、もし、アクセスが欲しいと思っている人にとってはそんなこと関係ないの世界だと思うんですよ。やっぱり罵倒を繰り広げる人は、何も考えてない人か、アクセスが欲しいという人の二種類だと思うんです。だから、罵倒と思わせないように書く工夫と言っても、そうだな、私は別に工夫しては書いてないよなあ。前回の記事だって、私にとっては罵倒記事だと思ってるんですけどね。以前、自分では罵倒とは思ってないのに、罵倒芸と言われたこともあったんで、やっぱ私の書く「きぃーむかつくぅー」な記事は罵倒記事なんだと思います。でまあ、もう飾らず私は罵倒記事を書いてこうと思ったんで、もう反論なんてスルーするぞーっていうこともあり、コメントは受け付けないってことにしたわけです。とはいえ、言及元を明らかにしてないんで、明らかに私の行為ははっきりと名指しで罵倒している人よりもはるかに外道だということではあるんですが。もしそう言われても、そんな声は気にしない。つーか、気にするようなコメントはもらえないようにコメント欄は閉じてるしね。ああほんと私ってなんて卑怯なんでしょ。

私の書く物が罵倒かそうでないか、それはもうね、ここを見ている人にゆだねますわ。それでも好きだと言ってくれる人だけ、よっといでってことで。もちろん、よってこない人を気にしないってことじゃなく、全力で気にします。ただ、よってもらうための工夫はしないぞってことで。ほんと駄々っ子ノイズですなあ。はっはっは。(空威張りっ)

って、乾いた笑いはどうでもいいのです。(爆)

前回の記事にも書いたですが、明日は出社拒否をしてしまうような出来事が待ってるということもあり、かーなーりー不機嫌なあたくしでしたけれど、あれですね、諸悪の根源のことをよくよく理解してくださる旦那さまのおかげで、だいぶ、明日は頑張っていこうか、おーその諸悪の根源に立ち向かってやろーではないかという好戦的な気持ちにもなってきているのですよ、はい。旦那さまも頑張ってらっしゃる、ということは、妻であるあたくしも頑張れねばねばということで。まっけるもんかー。おー。ということで、大多数の人が意味不明な呪文を一発。

月の魔法はしゃららら~♪

なっつかしーですなー。私はやるよ。がんばるよ。つーことで、少しでも執筆すすめるぞーおー。

他人を惹き付けることに定番はない

2008年11月03日 15:41



誰が私を支持しようが、私はやっぱりどうしても私の書く物っていいものなんだという気はしない。というか、私自身は自分の書く物がおもしろいと思ってるし、いいものだという気持ちは持っているんだけど、他人にとってはおもしろいものではない、いいものとは思ってもらえないとしか思えないんですよね。そりゃ一人二人と、おもしろい、いいものだといってくれる人がいないわけじゃないんで、そういった人たちを否定するようなこの言動ははっきり言ってよくないことなんでしょうけれど、どうしても私は他人は私の書く物をいいものなんだとは思ってくれないんだとしか思えない、支持してくれる人を貶めてしまうってわかってても、それでもどうしても!

ああ、うざい、こんなこと言う自分が超うざい。

自分のスタンスで書くこと、一番自分にとって楽な感じで書くこととは言うけれど、別に受けたいと思って書いてるわけじゃない。そりゃたくさんの人にスルーされたら悲しいし、少しはちょっと注目してよって思うことは思うんだけど、とりあえずは私も自分のスタンスにのっとって書いてきてはいると思うんだけど、今までにすごく注目されたことなんか一度もない。ああ、それは違うか、本家日記では一度炎上したこともあるんで、その時に一度注目されたことはあるけれど。その時だけだったよ、注目されてどどっと人々がなだれ込んできたのは。もう経験したくないけど。それもあるからコメントは開きたくないというのもあるんだけど。

誰でも書けるようなものとか当たり障りのないものっておもしろくない、優等生なことばかり書いているブログなんてつまんないということはよく言われるけれど、それって本当にそうなんだろうか。少なくとも、私が今まで見てきた誰でも書けるような、当たり障りないものとか、優等生っぽいブログって多くの人に支持され、はてブならばたくさんの人からブクマされてるよなあと思ったものだった。一応、私は自分の書く物が誰でも書けるようなもの、当たり障りないもの、優等生な感じのものを書いてはいないぞっという自負はあるんだけど、ちーっとも誰も注目してくれないんですけど。(しつこいようだけど、一人二人は注目はしてくれてるんだけどね、それはとりあえず数には入れないで話進める)私としては、私はノイズの世界を他人にはないものを展開しているという自信は持ってる。けれど、それでもたくさんの人を惹き付けることはできてないなあということもわかってる。だから、自分のスタンスが確立してて、自分の世界を構築してて、人に好かれようとは思ってなくて、好き勝手書いててもね、それが人を惹き付けるとは限らないんだってことを私は思い知った気がする。

私はむかついたことをむかついたと書き続けたい。たぶん、それだけなんだと思う。だから、はっきり言って↑は完全に八つ当たり。(爆)

まあなんというか、以前は確かに自分からいろいろトラバうったり、コメントガンガンに残したりして、それなりにいろいろな人から支持はしてもらえて、結局は、そういったコミュニケーションを発揮すれば、爆発的ではないにしろ、それなりに注目はしてもらえるっていうことはわかってた。けれど、そういった働きかけがあるからこそ、人は人を注目するんだっていうのにちょっと「なんか違う」という気持ちが芽生えてしまって、それで、今は「見て見て」という働きかけをしていない。だから、多くの人に注目されないのはあたりまえ。ただ、もしここで積極的にトラバしたり、コメント残したりして、注目されるように働きかけたとしても、もしかしたら、まったくスルーされる場合もある。まあ、そうやってみて、ほれ見たことか、どんなに積極的にやったって私はダメなんだと思い知るってことも一つの手ではあるんだけど、それやる気力はちょいと今の私にはないんでやらないけれど。たぶん、傲慢なことなんだけど、私は積極的に働きかけなくても、それでも支持してくれる人を求めてるのかもなあ。ああ、ほんとヤな性格だ。そりゃ、付き合い切れんわと思われてもしょうがないやね。って、別に言われたわけじゃないけど。(W

とにかく、人を惹き付ける魅力的なブログなんて、何が大事かなんて誰にも「こうなんだ」と言えると同時に、言えないんだってことも言いたいと、私はそう思ったということ、定番はないってこと。あーもう何が言いたいんだが自分でもわかんなくなってきた。もうあれだ、まるっとまる投げしちゃう。もういいや。明日のこと考えちゃって、はっきりいってこれも逃避行動の一つ。あーあ、執筆が進まないよー。わっさーにも書いたけど、逃避行動の詳しいことはmixiに書いた。期間限定で。まあ数日で削除とはしないんで、マイミクの人、読めるときにでも読んでやってくださいな。はーあ。溜息しか出ない。でも、がんばるしかない。うん。

涙は流していいから強く生きていって

2008年11月02日 09:33



Marumamekoさんからブクマで私信いただきました。(W

同感。先天性股関節脱臼で障がい者の友も、前川清氏の告白に勇気づけられていましたよ。ババアとなるのもなかなか楽しからずや、なので病気と折り合い長生きしませうw


昔の職場の先輩が「かわいいおばあさんになるのが夢なの」と言ってました。うん。確かに私もかわいいおばあさんにならなりたいよなあと思う。今なら中村玉緒さんみたいなおばあさんになるのが夢だなあ。(笑)
私も別にババアになるのが嫌だというわけじゃなく、長生きするのも元気で長生きがしたいと思ってるわけなんですよね。ただ、自分はそのために努力をしてるかといったらそうじゃないということもあり、そういった今までの不摂生のために今の私は元気に長生きができるという身体ではないということなんですわ。でも、決定的な最悪な病気にはまだ大丈夫なのかなとは思っているんで、老化による体調不良はMarumamekoさんの言うとおりで折り合いをつけて生きていくしかないわけです。

さて、↑までは昨日の朝に書いたものです。昨日の朝は体調が絶不調で、長い記事を書く元気がありませんでした。今朝もそんなに回復したというわけじゃないんですけど、昨日よりはまだ調子はいいんで気合入れて書いてこうと思います。って、別に気合いなんか入れることでもないんですけどね。ただ、これから書くことは今しか書けないことだしなあと思ってるんですよね。前回書いた記事にも微妙に関係してくることだから。前から書きたいと思ってたことでもあり、いい機会だから続けて書いちゃおうと思って。それにしても、前回、宇多田ちゃんの名前を記事で書いたことで、宇多田ちゃんの名前での検索でここに辿りついた人がたくさんいました。いやー芸能人の名前ってアクセス稼ぎには効果的だよなあと思いました。いや、別に私はアクセスを稼ぎたいと思ってるわけじゃないんですけど、でも、気楽に芸能人の名前を書けないっていうのもストレスなんで、書いていることに関係あれば書いていくだけなんですけど。それにまあ、宇多田ちゃんのような人のおかげでいろいろな勇気をもらったという話だってそんなに意味のないことじゃないと思うんですよねえ。もっとも、昨日検索で辿りついた人が、宇多田ちゃんの何を求めてここにアクセスしたかはわからないんで、「ったくもー、くだらねえこと書きやがって、このクソが」なんて悪態をついてないとも言えないんですけど、さ。(W

さて、本題いきましょか。

Marumamekoさんがブクマしてくれた私の記事なんですが、タイトルに書いたように芸能人は自分の病気を公表してほしいなと私自身は思っています。それで思い出したのが、この間亡くなられた緒形拳さんのこと、そして、同じようにガンで闘病中の作家の栗本薫さん(ここでは梓さんと書きます)のこと。緒形さんは亡くなられてしまい、梓さんはまだ生きてはいるんですけれど、これも絶対に大丈夫とはいえない状況ではある。梓さんは何年も前からサイトで日記を公開し続けていて、日記では日々の自分の体調のことを包み隠さず書いてました。だから、彼女の具合はファンであればみんなよく知っているわけです。そして、その逆が緒形さん。話に聞けば彼はご自分の病気を周囲に漏らすなと言っていたそうで、彼のファンのほとんどが彼の病状は知らなかったんじゃないでしょうか。その彼の配慮は、ファンに対する優しさからくるものなんでしょうけれど。

私はここでその優しさについて自分の思うところを語ってみたいと思うのです。この優しさということへの私の考えというものは、ガクトさんへの手紙に書いたことでもあります。少なからず緒形さんとはガクトさんも関わりがあるということで、芸能人のファンに対する優しさって何だろうということを私なりの意見として書いてガクトさんに送りました。メールではなく紙媒体の方法で。それに書いた内容を改めて書いてみようかなと。緒形さんも梓さんも、そしてガクトさんも多くのファンを持つという点で、ファンに対する優しさとはどういう優しさを持つべきかということをそれぞれが持っていたと思うんですが、ガクトさんが自分のファンに対する優しさをどう考えているかは私にはわかりません。緒形さんも梓さんも、別に「これが私のファンに対する優しさだ」とは明言はしてなかったと思うので、私がそうじゃないかと思うだけなんで、完全に私の想像で語ることではあるんですけれど。こんなふうに思ったということを書き残しておきたいなと思ったんで、よろしければどうぞお付き合いくださいな。


緒形さんは肝臓ガンだったみたいですが、梓さんはすい臓がんです。彼女は以前にも乳がんをやっており、その時も事細かにそのことを書いた本を出していますが、今回もまたこと細かに書いた本を出したわけです。それが「ガン病棟のピーターラビット」です。とにかく、自分の体験したことは書いて誰かに読んでもらいたいという欲求の強い方なのですが、緒形さんはその逆だったようですよね。自分がガンであることは絶対に他人には聞かせるなと聞きましたので、恐らく、同情もされたくないし、心配もさせたくないという、他人に対して細やかな優しさを緒形さんは持っていたと私は思いました。けれど、私は、病気であることを自分を知っているファンには包み隠さず言うのが本当の優しさなのではないかと、梓さんの「ガン病棟のピーターラビット」を読んで思ったのですよ。もちろん、緒形さんの優しさを否定するわけではありません。それもまた優しさの一つであると私も思いますが、でも、私にとっては緒形さんの優しさはただの自己満足ではないかという思いがどうしても拭い去れません。

それはなぜか。

緒形さんの優しさの場合、緒形さんと親しくしてもらっている人々にとって、彼が突然このように死んだ場合に相当なショックを受けると思うのですよ。病気をしているわけでもない、たとえば不慮の事故で死んでしまった場合はもうしかたないですが、自分が不治の病であり、明日をも知れぬ命であるとわかっていれば、それを人々に教えることで人々に「覚悟」をさせることができるのではないかと思うのです。現に、私は梓さんが、ガンでもう長くはないかもしれないと聞いた時は確かにショックでしたが、でも、まだ今は生きています。確かに彼女も明日をも知れぬ命ではあるんですが、もしかしたら生き延びてくれるかもしれない、と、そう思うことで、その時がいつかはわからないけれど、その時まで執筆し続け、頑張ると言ってくれる彼女を悲しませたくない、支えたいと、そう思えるようになりました。だから、たとえ、志半ばで彼女が死んでしまったとしても、「そうか、やっぱり、その時が来てしまったのか」と、嘆き悲しむことはないのではないかと思ったのです。

私は、できればガクトさんにも、そういった生き方をしてもらいたいなと思いました。なるべくならガクトさんを慕う人々にショックを与えない最期であってほしい、と。そのためにはどうすればいいか、それを考えるのが有名人には大切なことなのではないかなあ、と。自分が死んだことで、誰かが後追い自殺をしてしまうようなことは決してあってはならないと、有名人の人たちだって思っていると思うのです。

私はガクトさんへの手紙にこう書きました。

「私は、あなたがたとえ私より先にいなくなったとしても、あなたの分も強く生きていきたいと思えるようになりたいのです。それはあなたを愛する人たちすべてにそういう生き方をして欲しいと思う。それはきっとあなたもそう願っていることなんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。」

ガクトさんもきっと同じ気持ちだと思う。だって、この歌があるから。マイスペースのガクトさんのプロフで流れている「Road」でこんな言葉が出てくるから。

もし僕が先に消えてしまっても
風になって君を守り続けてゆくから

涙は流さないで
優しく微笑んでいて



そうはいっても、本当にガクトさん、あなたが死んでしまったら私は泣くでしょうね。泣かないわけがないです。あなたが緒形さんの追悼番組で見せた一筋の涙は、どんな言葉でも語りつくせないほどにあなたの心情を物語っていました。嘆き悲しむよりももっと、先立たれる残された者の心の痛みが感じられた。だけど、嘆いてばかりはいられないわけです。今、あなたは全国ツアーに向けて着々と準備を進めているわけで、きっと、緒形さんもその成功を願っているはずですから。

きっと、空の上から見詰めていますよ、あなたのことを。優しく微笑んで。主君を見守る宇佐美のように。



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