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はてなスター好きだよ

2009年09月28日 08:48

はてなスターが好きだったと書いている人がいた。


『でも今は。スターが明るくてまぶしすぎてこの人には近づけない。自分と同類なのかなって思える人のダイアリを見ても他の人がつけたスターが何個も連なっているのを見ると自分が入り込める隙なんてないんだと思い知らされる。なんというか、この人なんだかんだいって充実してるんじゃねぇの。実際がどうかは別として。mixiでマイミクの日記のコメントが連なってるのと自分を比べているような感覚だ。この人にとっておれは場外なんだろ。裏切られたような気分だ。勝手すぎるけどさ。勝手すぎるけど、おれは共感したかった。でもおれには共感する資格さえなかった。』



自分と同じ気持ちを持ってる人いるんだなあと思った。けどさ、この人の日記のアンテナの被登録数めちゃ多いんだよね。私の日記なんかこの人の足元にも及ばない。たとえ登録している読者すべてがこの人の日記を読んでいるとは限らないよって言われたとしても、わざわざ登録してくれることをもちっと自信に繋げてほしいよなあと思う。私なんてアンテナ被登録、私の確認できる範囲ではゼロだもんなあ。まったく読者がいないとは思わないけれど、私に確認できないものはゼロと同じことだもの。つまり、誰も私の日記読んでいないってことで。(しつこいようだけど読んでる人はまったくいないというわけじゃない)
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残った方がいいのか、消えた方がいいのか

2009年09月28日 08:44


『私がパソ通時代に好きな文章を書いている人のサイトがあって、そこはもう更新が止まってしまっているんだけど、未だにサイト自体は存在している。今でもたまに見ては、「ああ、やっぱり更新してないなぁ」と思いつつ、無くなっていない事にほっとしたり。』 (「「一つのウェブサイトの閉鎖と、過ぎ去っていった時代。(via 情報屋さん。) - 明日は明日の風が吹く」 より)



私にもそんなサイトはいくつかある。で、その中でも梓さんのサイトは、本人が亡くなっているということがわかっているサイトだ。いまだに梓さんの神楽坂は最後に更新された時のまま。毎日じゃないけれど、時たまアクセスしてはまだ消えていないと確認する。時間がある時は残された更新日記を読んだりする。それはマイスペースの梓さんのプロフもだ。あそこもずっとそのままなんだろうな。削除されない限りは。神楽坂はどうだろう。いつまでサイトは存在できるんだろうか。
過去にたくさん梓さんの更新日記を取り上げて自分語りをした。だいたいは引用しての言及(とも言えない内容だったけど)したから、梓さんが何を書いたかどうかは何となくは思い出せるけど、引用せずにリンクだけしたものは元の記事が読めなくなった今は、梓さんの文章が読めなくて悲しい。過去ログはどうしてそのままにしてくれなかったんだろう。その過去ログを本にしてくれるっていうのならいいんだけど、そこらへん梓さんのご主人はどう思っているのだろうか。
梓さんなら、ご自分の入院生活のことまでも本してしまうほどの語りたがりの人だったから、更新日記もいずれは本にする気持ちはあったんじゃないかと思う。ログすべてを本にできるものなのかどうかはわからないけれど、すべてのログが本になるのが私にとっては望みだ。


『私のサイトを見た人の中で、一人ぐらいは影響を受けてサイトを始めてくれたら嬉しいな。そのサイトがあって、またそのサイトに影響を受けたサイトが出来て……そうやって、また何かが伝わっていき続けたらと思う。そうしたら時代が過ぎ去っていく中でも、何かが消えずに残っている……という事にならないだろうか。』 (「「一つのウェブサイトの閉鎖と、過ぎ去っていった時代。(via 情報屋さん。) - 明日は明日の風が吹く」 より)



ヤストロさんとか梓さんなら、影響受けた人がいるだろうとは思うけれど、私の場合はたぶん誰も私に影響受けた人はいないんじゃないかと思う。まあ、影響も悪い影響は受けた人はきっといるんだろうなあとは思うけれど。これは自虐からではなく、事実であるから。間違いなく、私から悪い影響を受けた人はいる。そんな人を何人か私は知ってるから。

私はいいものだけが伝わればいいという考えを持っていない。ヤストロさんが「いいものが伝わっていけばいい」と思っているかどうかはわからないけれど、一般的にはいいものが伝わって欲しいと思うものなんだろうから、たぶんヤストロさんもそうなんじゃないかと思う。私にとっては消えて欲しくない何かであっても、他人からすれば消えてしまって欲しい何かの場合もある。そんな時にその「何か」は残ったほうがいいのか、それとも消えた方がいいのか、それは誰にも決められないことだよね。どうあるべきか、私は時々わからなくなる。残った方がいいのか、消えた方がいいのかって。いまだに決めかねている。

好きなあなたを忘れることはない

2009年09月17日 08:53

『最近、電車通勤をするようになって、往復で2時間以上の読書タイムが確保できるようになり、20年近く積読状態になっていた本などを読んでいる。

明らかに「積んだまま読んでいない」と分かっている本とか、「既読だけど面白かったのでまた読もう」と手に取った本の場合は良いのだけど、中にはあんまり印象に残っていなくて“まだ読んでない”と思い込んでしまった本に遭遇してしまうことがあるのが厄介。

ここ数年は図書館を利用することも多いのだけど、シリーズ物で似たような題名の図書だと、どこまで読んだのか覚えていないことも。

読み始めてすぐ気付いた場合はまだ良いのだけど、稀に三分の一くらい読んでから既読図書だと気付くのが痛すぎる。』 (「ekken : Amazonの個別ページから、自分のFC2ブログで紹介した記事を探すブックマークレット」より)


えっけんさんのこの記事に書かれていたことの中の引用部分を読んで思ったことなんですけど、私にも印象が残ってなくて読んだ内容を忘れてしまっていたということはよくあるんですよね。ただ、私の場合は「まだ読んでない」と思い込んで読んでしまってガッカリというわけじゃなく、私は明らかに読んだと記憶はあるわけです。内容もこんな感じだと覚えてはいるんだけど、読み返してみても「ああ、そうだった、こんな内容だった」となってしまい、まるで新刊を読んでいる気持ちになる。細かいところを忘れてしまってるわけです。小説なんかの場合はあまり読み返すってことはないんですが、マンガの場合は読み返すことがけっこうあるんで、毎回読み返すたびに、そうだ、こんな話だったよ、忘れてたよ、私の書いたあの小説のストーリーやキャラに影響与えたのはこのマンガだったよってな具合に再確認して、「やっぱこのマンガはおもしろいなあ」となる。

ある意味、何度も何度も楽しめるということで、読んで忘れてしまうっていうのは幸せなことなのかもしれないなあとも思いました。私の場合、読んでしまったものを忘れててもう一度読んでしまってガッカリという経験をしていないんだから。それはもう幸せですよねえ。ただ、こうなると、私の場合は新しいものを開拓することはなかなかできないとも言える。昔は私はどんなものでも受け入れられるとは日記に書いた覚えがあるんですが、それはBLを受け入れられないという人に対して、私は読めるから、だから物書きとしてはどんなものでも受け入れ、そして書けなくてはということで書いたんですけど、それって、たまたま私がBLが嫌いじゃなかっただけで、私にも確実に受け入れられないタイプのものはあるんだなあと、そんな「どんなものでも受け入れないと」とはよく言ったものだなあと反省ひとしきりです。

私は梓さんの書かれるものだったらどんなものでも読む自信はありました。それは私が梓さんの文章そのものが好きだったから。それはたとえばガクトさんの歌でもそうです。ガクトさんの「今の声」で歌われるものだったらどんなものでも好きだというのと同じで、私はガクトさんの声そのものが好きだからです。でも、そうなると、他のものが読めなくなる、他のものが聞けなくなるわけですよ。もちろん、まったく読めないとか聞けないというわけじゃないです。それなりに読むし聞くけれど、梓さんとガクトさん二人の生み出す創作物だけしか私にとっては史上最高のものとは思えなくなるということです。これはある意味不幸です。だって、二人が創作しなくなったら、私はとたんに読むものも聞くものもなくなってしまうわけですから。実際、梓さんは亡くなってしまったわけで、もう二度と彼女の新しい小説は読めなくなってしまいました。そして、ガクトさんもそんなに長い間その世界にいてくれるかどうかもわかりません。一応、死ぬまでやるとは言ってませんからねえ。彼は。嘘でもそんなことは言わないと思う人なんで、たぶん、彼としてはそんなに長く続ける気はないんでしょう。

もっとも、もしかしたら梓さんやガクトさんに代わる人たちが現れないとも限りません。今まで、梓さんやガクトさんを好きになる以前に好きだった創作家たちはいましたから、絶対出てこないとも限らないですから。それを信じて、今は全力で好きなものを好きなだけ堪能するだけです。

てか、やっぱり引用したことから外れていくよなあ。最初はコメントしようかと思ってたんだけど、絶対ズレたコメントになるだろう、自分語りに終始しちゃうだろうって思ったんだよね。そしたら、やっぱりそうなっちゃった。ブログでもしこれを書いたとしても、絶対トラックバックは送れない内容だよなあ。(笑)

とりあえずガクトさんのことも書いたんで、Gカテゴリ行き。(笑)

あの時この手を取らなかったなら

2009年09月04日 07:40


『俺も中学・高校くらいまでは「誰か女の子が俺に惚れて告白しないかな」みたいなことを考えていた時期がありました。』 (「「男に告白させる」スキルが低下してるのかも web-g.org 」より)



↑を読んで思ったんだけど、中学・高校の頃の男の子ってたぶんみんなこんな感じだったんだろうなあって。やっぱり積極的なのは女の子のほうで、だいたいが女の子が告白して、それで付き合うって感じだったんだろうな。
私なんて小学生の頃からいっちょまえに好きな子がいて、相手が自分に告白してくれないかって思って学校生活を過ごしていたもんだし。ただ、「誰か男の子が」とは思ってなくて、自分が好きな人が自分に告白してくれることが絶対条件だったんだよねえ。やっぱり少女マンガの読み過ぎだったんだろうな。
だから、二度ほど付き合ってくれと告白されたことはあったけれど、その二つとも冷たく断ってしまったものだったもの。今思うと、なんてもったいないことしたんだとは思う。

でまあ、中学の時にN君という男の子を好きになって、その人に告白されたいなあと思ってたけど、結局、その人は別の女の子とお付き合いを始めてしまったことがあった。それは、相手の女の子のほうが告白してきて、それでN君のほうは、それまで別に何とも思ってなかったけど、告白してるその姿がなんかかわいいと思って、それで付き合うようになったと後に聞いたんだよね。当時は、そんなN君の男心なんて想像もつかなかった。相手の女の子は他の子にいじわるばかりしたりするあんまり好かれてない子だったんで、そんな子をかわいいなんて思うN君に幻滅したもんだったけど、今なら、N君がその子を「かわいい」と思ってしまう男心はわかる。それだけ私も大人になったんだなあと感慨深くなったりして。(笑)


『実は女性は年齢が上がってくると男性に告白させるテクニックを身に付けてきて、それに男性が乗せられる、みたいな感じになってたのかも知れない。』 (「「男に告白させる」スキルが低下してるのかも web-g.org 」より)



私自身はそんなテクニックがあるとは思ってなかったけれど、確かに旦那が私に告白してきたことは、無意識のうちに自分に惚れさせるようにしてたんだなあと思うよ。当時の私は20過ぎの一番女として輝いてる時だったと思うし、それに当時は私にも好きな人というか「いいなあ」と思う人とかもいたりして、その人に「かわいい」と思われたいという気持ちから、男受けするような仕草だの言動だのは無意識のうちにやってたと思う。それゃもう「告白させるよう仕向ける」っていうのを無意識にやってたわけだ。それで、それにひっかかった旦那が告白してきたわけで。ただ、私も昔みたいに「この人じゃなきゃいやだ」っていう気持ちを「いいなあ」と思ってた人に持ってたわけじゃなくて、旦那とも一緒にいて楽しいとも思ってたから、それを冷たく拒絶するってことはなかなかできなかったんだよね。

告白される前、仲間たちと喫茶店で何の話からだったか、昔は私は告白してくる人を冷たく突き放してきたものだったけれど、自分も好きだった人とうまくいかなかったという辛い気持ちはわかるから、今はむげに冷たくするってことはできないかもなあと言ったことがあって、その時に、やけに旦那が「じゃあ、今告白されたらOKするのか」みたいなことを熱心に聞いてきたことがあったんだよね。その後に告白されたわけだけど、そっか、そういうことがあったから奴は私に告白したのかなって。ただ、旦那は私に断られたら、みんなとはもう会わない。遠くに行くつもりだったってあとで聞いた。それはまあ、私が自分ではない他の奴が好きみたいだと何となく感じてたからなんだろうな。まあ、確かに他に好きな人はいたんだけど。けど、結局は旦那と付き合うことにした私だった。

あの時、旦那の手を取らなかったら、今の私はどうなってたんだろうなあ。まあ、たぶん、今でも実家で一人、結婚もせずにニートしてるんじゃないかなとも思う。見果てぬ夢である作家を目指して。



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