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ギャルママすごいね

2009年10月29日 08:37

今朝の目覚ましでギャルママの特集をやっていた。紹介されていたギャルママたちは私が子育てをしていた頃よりしっかりとしたところがあって、お洒落という自分の趣味だけに没頭するということもなく、ちゃんと子育てや家事をこなしながら、さらに同じギャルママ同士の交流もちゃんとしていて、頭が下がる。私も趣味の物書きをしつつ子育てと仕事とできる範囲の家事はやっていたけど、唯一、子供を持つ親たちとの付き合いだけは受け付けなくて、まったくそういう集まりとかには顔を出したことがなかった。ギャルママたちは同じギャルママと子供の話や旦那の話やお洒落の話をさかんにしているようだったけど、私は子供の話や旦那の話なんてしたくもなかったし、あまり趣味の話も誰かとしたいという気持ちもなかったんだよね。まあ、趣味である物書きについては、似たようなことをしている人も周りにいなかったというのもあるんだけど。もっとも、隠れて創作活動していた人もいたかもしれないんで、公に「物書きしてます」とでも公言していたら、そういったママとも知り合いになったかもしれないけれど。ただ、私は子供が少し大きくなって小学生くらいになった頃には、けっこう新聞とかの読者投稿で、自分は小説書いているということは公にしていたので、知らない人はそんなにいなかったと思う。だから、それでも誰も私に接触してこなかったということは、やっぱりそういった人はいなかったか、あるいは私と同じようにつるんで創作活動したくないという人ばかりだったかもしれない。まあ、そんな感じで、ギャルママすごいよなーと今朝は思った。もちろん、テレビで紹介されていたギャルママだけしかいないということもないだろうけど。中にはやっぱりとんでもないというギャルママもいたりするかもしれないしね。とはいえ、ギャルママじゃなく、ごく普通に見えるママの中にだって虐待だの育児放棄だのまったく家事をしないだのというとんでもないママ主婦だっていたりするんだろうから、見た目で判断というのはよくないことは確かなんだけど。ただ、すれ違うだけでは判断しようがないから、どうしたって見た目で嫌悪感とか好感とか持たれたりしてしまうのもしかたないよなあ。でも、今朝テレビで紹介されていたギャルママたちは、若い頃よりだいぶ落ち着いた見た目になってて、むしろけっこうかわいい子ばかりだなあという印象を持った。お洒落していることは悪いことじゃないし、それが過度にならなければ「キレイでカワイイママ」ってことで、好印象だと思うんだよね。やっぱ結婚して子供生んでも、女はキレイにしておかなくちゃならないよねえ。私はめんどくさくて無理なんだけど。(それがいかん)

でまあ、そのギャルママの話で、雑誌なんかが売れないこのご時世でも、ギャルママ御用達の雑誌はかなりの部数が売れているということを言ってた。それで思い出したのが、例の休刊になった小学五年生と六年生。売れなくなった理由は少子化だけの問題じゃないとは思うんで、いろいろな理由はあるにしろ、それでも、ギャルママがギャルママの雑誌を買うから部数が伸びているのはギャルママが多くなってきているからということかなあとは思ったけど、たぶん、そんな単純なものでもないんだろうな。だったら、ギャルママが多くなっているということは、それだけ子供も増えてきているということで、今は子供が少なくて小学五年生が売れなくてもいずれ売れるようになってくるかといったらそうじゃないと思うし。小学五年生とかって子供自身が買うというより、やっぱり親が買い与えるというのが普通だと思うから、ギャルママたちはそういった雑誌は子供に買い与えないような気がしないでもない。と、これは私がそう思うってだけのことなんだけど。でもまあ、最近まで出ていた小学五年生の表紙とか見たけど、明星とかそういったのとそんなに変わらなくて、息子がその頃に買っていたのとはずいぶんと様変わりしていたから、今風になってきていたんだろうってことで、別に装丁とか中身がギャルママに受け入れられないってことでもないだろうしねえ。やっぱ売れないのは他にもいろいろ楽しみがあるからってことなんだろうなあ。昔は本しか楽しむものなかったから、だから、70年代が一番売れていたというのもそういう理由だったんだろうし。

ただ、この間も旦那が言ってたんだけど、雑誌とかが売れなくなったのは、コンビニとかも影響してるとか。立ち読みができるからってことらしいんだけど、雑誌の立ち読みって別にコンビニだけじゃなく、本屋でもできたと思う。あと文庫本とか。まあ、文庫本の場合は、あまり長い間読み続けていたら、店員さんに不審に思われて「やめてください」って注意されるんだろうけど。コミックスの場合は一応ビニールで包まれてるからなかなか立ち読みなんてできないんだけどね。でも、たとえ中身が見れなくても売れないものは売れないと思う。むしろ文庫本とかコミックスって立ち読みできたほうがいいような気もするけどなあ。これは私の傾向ではあるんだけど、立ち読みしてよければ買うっていう人なんで、私としてはやっぱり立ち読みができるのがいい。まあ、それを見込んでのことなんだろうけど、最近のコミックスはあらすじが本の後ろに書かれていることが大半になったんだけど。だけど、やっぱりどんな感じかを見て買うかどうかは決めたいから、私は。中身が見れなくて装丁だけ見ておもしろそうだと思って買っても、中身がガッカリで即古本屋に売られてしまうより、やっぱり作者としては手元に残して何度も読み返してもらいたいと思うだろうしねえ。ただ、本屋としては売れればいいという考えのもとでやらなくちゃならないんだろうし。そりゃ、売れればいい、あとは知らんというあからさまなことは思ってないだろうけれど、それでもやっぱり売れなきゃ商売やっていけないわけだし。そこらへん難しいとこだ。

清水玲子さんの「秘密」は、そんなこんなで中身が見れたことで買ってじっくり読んでみたいとは思ったんだけど、やっぱねえ、お値段が高くて…1巻2巻くらいまでなら新刊で買ってもいいなあとは思うけど、どうもシリーズ物でだいぶ続きそうだし…まあ、この「秘密」の場合は値段だけじゃなく大きさもネックではあるんだけど。せめてコミックスサイズで出してほしかった。文庫サイズになるのを待つしかないかー。
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聞いて聞いて私の話を聞いて

2009年10月27日 09:35

またまた言及とはいえないものを書く。それはみっちーが書いていた記事の中に出てくるこの記述から生まれた自分語り。

『ぼくは子供の頃、自分の行動範囲しか世界はないのではないか、というような妄想をしていたことがありました。なにかの理由があってここに連れてこられてきて、ずっと監視されていて、ぼくが行く可能性のあるところはしっかりと作られているけれど、例えば入る用事もないようなビルなんかは外側だけはちゃんと作ってるけど中身は張りぼて、更に、行く必要もないような遠いところなどは実際には存在しないのではないか?

そのような妄想を、どういった話の経緯でそこに辿りついたのかは忘れましたが、ある時、知人も同じように昔持っていたことがわかったのです。自分の周囲しか世界はないのではないか。自分は特別なのではないか。だいたい同じ内容です。お互い似たことを考えていた。その事実を共有した時はふたりでかなり興奮したものです(確か朝までチャットをしていました)。しかしやがて、インターネットなどを通じて、こういった(中二病的な)妄想は、それほど特別でもないのだ、ということを知ることになります。』(「我思う我書く、の2 - 「で、みちアキはどうするの?」より引用)


自分だけだろうかという考えや行動などが実は自分だけでなく、けっこう多くの人が同じようなことを思ってたりやってたりするんだっていうのは誰でも経験することではある。もちろん、なかには本当に特殊な考えや行動をしている人もいるんだけど、たいていの人はそれほど特別な考えや行動をしているわけじゃない。ただ、幼い頃はなかなかそういったことに考えが及ばず、そして、自分が特別なんじゃないかという思いをどうしても持ってしまいがち。まあ、それが子供の性質なんだろうとは思うんだけどね。で、ネットに限らず、大きくなって行動範囲が広がっていくにつれ、だんだんと周りの様子がわかっていくし、そこまでくると本人の想像力もだいぶついてくるもので、やっぱり自分はそんなに特別じゃないんだ、けっこう似たようなことみんな思ってたりするんだと気づいていくわけ。ただ、みっちーのこの文章の前半部分は、少なくとも私の子供の頃とはちょっと違ってたりするんで、そこらへんが私とみっちーとの違いなんだろうなあって思った。

私は物心ついた時には異世界とか宇宙とかに思いを馳せていたので、自分の行動範囲以外の遠くの場所には自分の知らない見たことのないすばらしい世界か、あるいは怖い世界が広がっていて、何かの拍子にその世界に迷いこんでしまうのではないかと恐ろしく思ったり、わくわくしたりしたものだったのだ。自分は実は超能力者で、あるいは別の世界の異世界人なんじゃないかと思っては、他の子供たちとは違う特別な存在なんだと思い込んだりして、いつか迎えが来て遠く宇宙の果てまで旅をしていくことになるんだと本気で信じていたものだった。世界は無限に広がる場所で、そこには限りなんてないんだって信じてたから。だから、自分の行動範囲にしか世界はないんだなんて、そんなことは一度も思ったことはなかったな。まあ、これも妄想の形態のひとつともいえる。

でまあ、ここまでがみっちーの文章で出てきた私の子供の頃の話ではあるんだけど、記事の最後にみっちーがこう言ってる。

『それにしてもなぜわたしたちは「思ったことを他人に伝えようとしたがる」のでしょうか。承認を得たいから? それとも、この世界に自分一人だけしかいないのでは淋しすぎるから、他人の存在を確かなものとせんがため、でしょうか?』


他の人はどうかわからない。でも、私の場合はただたんに「聞いて聞いて」につきる。理由なんてそこにはない。言えるとしたら、私の場合に限り、自己顕示欲だけなんだろうなって。誰かに聞かせるというよりも、どちらかというと自分のために書いてるって感じ。だったら、別に公開された場所じゃなくてノートに書いとけばいいんだけど、それは今までさんざやってたことなんだよね。ずっと私はノートに書き続けていた。ただ、また同じこと書くけど、ノートでは書くスピードが思考能力についていかないし、書く行為は手が疲れてたいした量が書けないけれど、でも、キーボードでの打ち込みだと疲れを知らないように書き続けることができるから、だから、こんなふうに書いている。で、だったら、別に公開された場所に書かずにローカルで書けばとなるんだけど、いったんネットで公開できると知ったからには、やっぱ公開で書きたくなるんだよね。たぶん、ネットに繋がらなければ公開せずに今まで通り、ノートに書いていたようなことを延々と書き続けてることだろうな。たまたま、ネットに接続できて、公開して、タイミングよく誰かが読んでくれたらそれはそれでいいなと。まあ、これもネットで書くようになって、少ないながらも反応してもらえたから、それが自分の自己顕示欲をくすぐっちゃったからとも言えるんだけど。それはもうしょうがないよね。まったく反応なかったというけじゃないからなあ。少しでもそういう楽しさを知ってしまったら、もう昔には戻れない。そういうもんだと私は思っている。

それが希望の音色として響きますように

2009年10月26日 07:53

警告音というタイトルで書かれた記事があり、それを読んでいたらこんな記述があった。

『 人間関係において、何かが終わる前には警告音が鳴ればいいのに、となんとなく思った。もちろん、思うだけで特に本気でそう考えたわけではない。常に終わりを回避できるとは限らないし、ある一方の立場においてはうるさく感じてしまうだけかもしれないし、別の立場では警告音ではなくよろこびの合図であるのかもしれない。または別の立場であったとき、最後の音を響かせるのはとてもさびしいし悲しい。あるいは全く気づかないかもしれない。…うーん。まあ必要ないか。』(「警告音 ぐったりスイッチ」より引用)


いつものごとく言及というものではなく、この文章を読んだことで心に浮かんだものを自分語りしてみる。まあ、早い話がまたしても昔の話を蒸し返すっていう行為をするわけだけど。そこらへんが、私という人間がいかにろくでもない人間かという証明みたいなもんだ。これを、もし、昔決裂した誰かが見たら「またかよ」とウンザリされるだろうし、「そこがいけない」とか「だから反省していないって言われるんだよ」とか「かわいそうな人」とか「病気だ」とか、なんかもうね、ありとあらゆる憐れみを向けられることは必須だし、そもそも、こんな超ネガティヴな前置きを書いていること自体がすでに痛過ぎる人間ということで、いかに私という存在が誰かにとっては最悪な存在なのだという証明に他ならないわけだ。いや、そんなことはないよと言ってくれる人もいるだろうけど、それでもね、間違いなく私は他の誰かにとっては最低最悪の存在なんだよね。ただ、私は、こんな最低最悪な人間であっても受け入れてくれる人がいればいいなあと、そんなふうに思って、こんな私であってもこのまま正直に立ち続けようと思っているだけなんだ。

とまあ、またしても前置きが長くなってしまったのだけど。

ひとつの掲示板のトピがなくなった。私がネットで初めて書き込みしたトピ。10年だったか、続いたのは。その掲示板では他のトピで私は管理人をしていたことがある。そのトビはもうずいぶん前になくなってしまったものだけど、そのときもこんなふうに感慨深い日記を書いた覚えがあるなあ。私が作ったトピ、本当は消えてほしくはなかったし、ずっとずっと続いてほしかったんだけど、自分としてはさまざまな別れを思い出させてしまうということで、忘れたいというわけじゃないけれど、見たくないという気持ちがあって消えてほしいと思ってたんだよね。それに、私と関わってそこに書き込みしてくれた人たちも、あまり見たくないものだったんじゃないかと勝手にそう思って、意図して消えていくように仕向けたものだった。だから、消えてしまったのも早かったけれど、やはり消えてしまったら悲しい気持ちにもなった。

けれど、私が初めて書き込みした10年経って最近消えてしまったトピは…確かに私にとっては消えてくれたことがとても喜ばしいと思えた出来事だったのだけど、正直な気持ち、本当は消えてほしくなかった。本当はずっと続いてほしかったんだよ。でも、消えてくれないと困ることでもあり、そのジレンマに私はいつも複雑な思いを抱いていたものだった。消えてほしい理由、その理由はそこに私への中傷めいたものが書かれてあったからということではないかと事情を知ってる人は思うかもしれないけど、それは違う。私はその中傷めいたことを書かれてしまったきっかけとなったことは自分の日記でも公開しているし、自分のサイトの掲示板でのやり取りまでも公開しているのだから、たとえそれが2ちゃんねるで書かれた中傷であっても、私は別に消えてほしいとは思っていない。それ以外の理由。なので、その理由さえ何とかなればずっと続いてほしいと思っていた。

でも、消えてしまった。ほっとしたと同時に悲しくなってしまった。

何の前触れもなく、消えてしまったわけなんだけど、前から消失してしまう危険性は何度となく訪れていたものだった。そのたびに誰かが書き込みをしてトピをあげてたね。私は「あれ」以来書き込みはしたことがなかったけど。それがとうとう消えてしまったんだ。私は何ヶ月かに一度は覗きに行っては消えたかどうかを確認していたのだけど、仕事を始めてから数年はずっと行くのを忘れていた。再び不定期的に行くようになったのは今年の夏くらいから。それもまあ理由があるんだけど。まあ、事情のわかる人ならなぜなのかはわかるとは思うけれども。

引用させてもらった文章の冒頭では『人間関係において、何かが終わる前には警告音が鳴ればいいのに』と書かれていたわけだけど、ちゃんとした警告音として私の耳に響いたわけではなかった今回のトピ消失ではあった。けれど、そのトピが本当に消えてしまうことになる前に再び覗きに行くようになったのはひとつの音のない警告音だったのかなとも思っている。虫の知らせとでもいうか。なんかそういうのって私とあまりいい別れをしなかった人たちとの間でもあったような気がするんだけど、それはただ後でそう思ったというだけに過ぎないんだろう。ただ、今回のトピ消失に関しては、どうも私には音のない警告音が私の胸に響いたような気がするのだ。もっとも、覗くきっかけとなったのは、そのトピに関係ある人の死がきっかけではあるんで、本当のところは警告音というものとも違うんだろうけどね。その人が死ななかったとしたら果たしてどうなっていたのか…それは誰にもわからないわけだから。

だけど、私もまた警告音はあってほしいと願う人間。警告音を無視して付き合って、それで決裂してしまうことが常識であったとしても、私はそれは100%だとは思っていない。警告音があったとしても、それでも続く仲だって僅かながらもあるはずだと信じているから。けれど、それも警告音があったからだと、警告音があったから壊れないように努力することもできるからなんだと、だから、警告音は必要なんだって、私はそう思っているのだ。

願わくは、警告音が希望の音色として私の耳に響きますように。

私にあなたの心を見せて、あなたの想いを見せてほしい

2009年10月14日 13:31

実名・匿名問題っていうのは何度もネットでの議論では出てくる話ではあるんで、以前にも何度か日記で書いてはいる私でもあります。だから、ほかの人も何度もご自分のテリトリーで書いてきているとは思うんですよね。まったく同じことばかり書いていることもあるし、時間が経って、少しづつ考えが変わったりして、同じことじゃないことも書いてたりもするでしょう。また、同じことであっても、一字一句同じことを書いているわけでもないから、たとえその人の書いた同じ意見を以前読んだからといってそれについて「またかよ」と思う人もそんなにいないでしょう。まあ、いたとしても別にいいんですが。おんなじこと書いててウンザリしたのならもうその人の書くものなんて読まなきゃいいんですからね。
でも、昔のその人のことを知らなくて昔のログも読んでなかったりして、今はじめてその人の書くものに触れることもあるでしょうから、何度も何度も同じ話題について書いても別にいいでしょうしね。というか、書きたい人間は結局はこうやって書いてしまうでしょうし。私なんかは書きたい人でもあるから書いちゃうんですけれど。つーか、気にしないで書く性格ならこんな前置きなんて書かずに好き勝手に語り倒すんでしょうから、とりあえずは「また同じこと書いてすみません」と殊勝にも書いちゃうんですけれど。まあ、ほんとにそう思ってんのかこらとか思われてそうではあるんですが。(笑)

『 これはよしおりさんにというわけでなく、実名で書いた方が良いと主張する人全員に。論点がズレますが、もし自分の子どもが小・中学生の頃から本名でブログをやっていたら止めますか?また自分の奥さんまたは旦那が、自分のブログに子どもの写真を毎日載せていたら止めますか?とある奥様ブロガーから、子どもの写真を通してその家の生活を見られ、いろいろ言われるという話を聞いて、ママ友怖い!って思ったので、ちょっと聞いてみたいなと思いました。』(「re:RE:実名も捨てたもんじゃない - あめだまなめる?」より引用)


10年近く前に初めてネットで書き込みをした時はもちろんHNで書き込みをしていた私です。ネットデビューはヤフーの掲示板でその頃の私のHNは「天慈」ではありませんでした。そのすぐあとにサイトを開設して、そこで「天慈」を名乗るようになったのですが、厳密に言うと○○天慈と名乗ってました。○○は苗字になるんですが、匿名じゃありません。当時の私を知っている人なら誰でもが覚えている名前でしょう。いわゆる実名ですからね。正真正銘の戸籍の名前です。最近になって知り合った人には知らない人もいるかもしれませんけれど、調べればすぐにわかる名前でもある。けれど、あえて私は今は伏せて、ただたんに「天慈」とだけ名乗っています。それは、やはり昔よりは危機意識を持つようになったからだと思います。まあ、いまさら隠したところで一旦ネットに上げてしまった個人情報ではあるんでどうしようもないんですが。だから、どうしても「天慈」として、あるいは「天慈」であるとわかる別のHNで書く場合は慎重にならざるを得ない。それは自分自身を攻撃されることが怖いからというよりも、リアルで私とつながりのある誰かを、たとえば家族や友人に何らかの危害が加えられる危険性があるからでもあるんですが。だから、私はネットで実名を晒して好き勝手なことを書くことには反対派なんです。昔の私は好き勝手に書いていたせいで嫌な目にも遭ったことがありましたから(それはネットだけでなく新聞紙上での発言によってでも、ですが)、その覚悟がない人は好き勝手な自分の意見を書きたいと思うなら実名で書くのはやめたほうがいいよなあと思っています。(だから、実名だけでなく、居場所も明記して発表しなければならない新聞への投稿は完全にやめてしまいました)
この場合の実名は本名というだけでなく、自分がリアルで特定できる立場で、ということなんですが。ただ、本名で書いていれば、どんなに日記などで自分の居場所を特定されないように書いていても、実名というキーワードでどこに住んでいるのかはわかってしまうことでしょうからね。実名というのは、リアルでのその人が「何処の誰であるか」ということであって、名前がどうのこうのじゃないと思うから。

それにしても、まなめっちの記事に書かれていたこの言葉『とある奥様ブロガーから、子どもの写真を通してその家の生活を見られ、いろいろ言われるという話を聞いて、ママ友怖い!って思ったので』というのなんですが、それは写真だけに限らないと思います。私なんかは自分が見聞きしたことはどうしても書きたくなってしまう人間でもあるんで、自分のことを書かれたくないと思う人にとっては、私の存在は脅威となるんじゃないかなあとも思いますし、実際にそういった声を聞いたこともあります。だから、私に自分の書いたものを読まれたくないという人は、私があまりにも好き勝手に書きすぎることが嫌だとか怖いとか思って、それで読まれたくないとなったんだろうなあと勝手にそう思っちゃったんですけれど。たぶん、そんなに間違ってはいないんじゃないかなあって思いますね。

さて、まなめっちはその実名・匿名問題でこんな記事を書いています。

「実名・匿名論争が論じるべきテーマはたった一つ 304 Not Modified」

『実名でやっていることの最大のメリットは、今まで自分のやってきたことがすべて繋がることでしょう。自分、過去の自分、今属している組織、過去に属してきた組織。そこからひょんな出会いがあったり、仕事に繋がったり。実名でなければ、過去と今を繋げることができないですからね。

匿名でやっていることの最大のメリットは、匿名でやっていることを実名の自分との繋がりを切り離すことができることでしょう。別に、実名の自分と繋がると良くないことをやしているからではありません(それが目的の人もいるかもしれませんが)。もし、何か失敗を起こしてしまったときに会社に迷惑をかけないためです。』


ここでいう実名は本名ではなく固定の名前のことでしょうね。まなめっちでいえば「まなめ」私でいえば「天慈」がその固定の名前です。たとえば、私がほかの名前で何か書いていたとしても(実際いくつか書いてはいるんですが)「天慈」という名前がゆるぎなくずっとあのサイトで掲載し続けている限り、この名前の人は実は「天慈」なんだよってなればそこに繋がりができるわけです。もし、別の名前で書いている私のことしか知らなかったのなら、その別の名前の人が「天慈」というこのサイトの人のことなのかーと新しい面を見ることにもなるだろうし。そんなふうに、私はいくつかの別HNを実は「天慈」のことなんだよと公表してきています。たとえば「天子」とか「ノイズ」とか「サアラ」とか「昏途」とか「久羅」とか、すでに日記の過去ログに追加した別HNで書いていた日記にはその名前は出てきているので、過去ログを見れば見つけることはできるでしょう。
まあ、公表したってことは、私にとって何かのメリットがあるから公表したわけであって、やはりいくつかの別HNは私がやっているのだとは公表したくないのもあります。それはもう確実にリアルの私にとって都合が悪いことを書いているからではあるんですが。つまりは、書かれたくないだろうと想像できる人のことを書いたものを書いているからです。そのほとんどが仕事での繋がりの人や親族のことなので「天慈」として書くことはマズイことなんですよね。だから、私にとってその知られたくないHNがたとえ固定HNであっても名無しと同じ匿名となるわけです。何も名無しだけが匿名というわけじゃないのです。私の場合は。

まなめっちは匿名か実名かそのどちらかはそんなに重要なことなんかじゃないと言っていると私は思いました。『名前なんてどうでもいい』と言い切っているわけですから。『連絡が取りたいと思ったときに、連絡が取れる相手かどうかが、信頼しうる相手かどうかとなる』と言っているから。そこには名前は関係はないわけです。ただ、どちらかというと実名援護派であるということは、まなめっちも結局は会いたい相手とは会うという人なんだなあと、オフ会に積極的に出て行く彼を見ていて、少し私とは基本的な立ち位置が違うのだと思い知った気がします。だから、まなめっちは多くの人に慕われ、私はあまり信用はされないんだと。でも、私は誰かに信用されたいから何かを書いているわけじゃない。私はただ書きたいんだ。書かせてくれればいい、それだけなんだって。誰に誤解されて悲しい気持ちになろうとも、その悲しい気持ちをネタにして小説を書く。それが私というろくでもない人間の存在理由。たとえくだらない小説ばかりだと誰かに指差されようとも、私は私が読みたいものを書き続けていくだけ。そのためには強くならなければ。けれど、何ものにも動じない強さではなく、凹むこともある、悲しくて号泣することもある、痛くて悲鳴をあげることもある、けれど、それでも書き続けることのできる、そんな人間にならなければ、こんなふうに書き続けることはできないんだなあと思い知ったから。

まなめっちは『結局は言葉の向こう側にいる人間を見ている。』と言うけれど、私は、言葉の向こう側にいる人間の心を見ている、というか、見たいという考えのもとで書き続けているのかもしれない。それは匿名だろうが実名だろうがどうでもいいことで、ただ、匿名であれば正直なその人の心を見せてくれるんじゃないかなあと、そんなふうに思っている。私にあなたの心を見せて、あなたの想いを見せてほしい、と。

一番作者を無視した存在

2009年10月13日 07:11

ちょっと前になるんですけど、ついったーで23mmさんが呟いていたことに反応したんですが、その呟きがこちら

『現代詩の詩集なんてまず買わないしな。そんな我が家にも谷川氏の詩集はあるんだよね。』


それに対して私はリルケの詩集とネットで知り合った人が出版した詩集を持っていると答えたのですが、考えてみたら私って詩集ってそれ以外は持っていなかったなあと思ったんですね。詩を読むのはそんなに嫌いじゃないし、自分でも詩はけっこう書いてはいるんですけど、本としては持ってないんだなあって。それに、リルケの詩集にしても、もともと母のもので、リルケの書いたものに興味があったから貰い受けたということもあり、自分で買った詩集って友人の詩集だけなのかもしれない。まあ、ほかに詩集っぽいものを買ったことはあったけれど、そういったものはあまり詩集というふうには私は捉えてなかったからなあ。でまあ、リルケにしたって、竹宮恵子がマンガで引用していなかったら存在さえも知らなかっただろうし。

私も子供の頃に日記とかで詩などを書き綴ったりして詩自体に接してきたことは確かなんですが、教科書で習った詩人などもほとんど覚えてないんですよね。誰かこの詩人がすごく好きというものがなかったという。私の場合は好みの語句が詩の中で出てくれば、これいいなあとなってその詩に執着持ったりすることはあっても(それは短歌とか俳句でもそうだった)書いた人に対しては興味を持つってことはほとんどなかったんです。だから、リルケにしたって、リルケが好きというよりも、リルケの書いたこの詩だけが私にとっては特別な詩だったわけです。竹宮恵子の「ジルベスターの星から」に書かれたこの一文。

『だれがわたしにいえるだろう
  わたしのいのちが
    どこへまで届くかを?』


これがひとつの詩なのか、ひとつの詩の中の一文なのかはわかりません。なので、これを読んでみたいと思って、ちょうど母が持っていたリルケの詩集から探してみたのですが、見つかりませんでした。ただ、「ジルベスターの星から」には、もうひとつリルケの詩が出てきます。「わたしは生きる しだいに大きく…」という詩です。それはちゃんとその詩集には掲載されていました。でまあ、今でもあきらめきれない私は、検索でちょっと調べてはみたんですが、やっぱり見つからないですね。タイトルでもわかればいいんですが。すると、検索のトップに出ていたある方の書いたものに興味を持って読んでみたんです。

『今日、実は大きな書店に寄ったので、このリルケの詩を読みたくて探しましたが見当たらず・・岩波文庫ならあるかと思ったんだけどなあ。「ドイツ名詩集」にはリルケが採られてたんですが、この詩はなくて。学生のときは「リルケ詩集」を持っていました。これは旺文社文庫だったかなぁ??もう無くなってしまったので残念です。また別の書店で探してみよう。

「だれがわたしにいえるだろう わたしのいのちがどこまで届くかを?」・・・この詞を目にしたころは、作品世界と相まって、物理的に遠くに行くことばかりに思いを馳せていました。どこまでも、どこまでも遠くに行ってみたかった。だから、英語もまるでダメだというのにヨーロッパを1人で放浪してみたりといった無茶もできたのでしょう。

今、この詞を胸に折りたたんで、そしてそっととりだしてみた時、違う感慨がありました。いのち、という限られた時間の中で、どこまでその心で高きをめざせるものか、というような。人生を広く、広くと夢見ていた思いが、今厚く、厚くと考えているということは、精神的に老いたというべきなのか、それとも視点が変わったのか、計りかねますが。』(「わたしのいのちがどこまで届くかを? 空音な日々のつれづれ」より引用)


この方も見つけていらっしゃらないようですね。ほんとどこにあの詩は綴られているのだろう。

私がこの一文と出会ったのは中学生の頃。引用させてもらった方のようにまた私も「どこか遠くに行きたい」と思っていたんですよね。今もその気持ちは変わりはないですけれど、なんと言うか、「どこか遠くに…」と思う時のその気持ちを感じることのほうが好きなのかなあと思うようになりました。
子供の頃のようにどうしても今の私には自分に対しての可能性というものを信じることはできなくなってしまった。それはやっぱり自分がもう若くはないのだということ。ただ、まだまだこの年でも可能性はあるということは頭ではわかってはいるんですけど、やっぱりね、どうしても身体の衰えとかをしょっちゅう感じるようになってしまうと、可能性を信じるよりも残りの人生を無難に過ごしていきたいと思うようになってしまったんですよ。そうなると、実際に「どこか遠くへ…」を実現させるよりも、その気持ちだけを楽しみたいとなっていく。それはもう私のような性格のものにはしょうがないことかなあとも思います。ほら、なんてったって私にはお得意の妄想がありますから。(笑)
そこで生まれる妄想が小説になるわけですからねえ。これはもう可能性を信じられる子供の頃からやってきたことでもあるんで、なかなか変われない性質だと思います。まあいいんです。私はそれで幸せなんですから。


で、本題。またしても前置きが長くなってしまったんですが。(笑)

23mmさんのレスで思ったことなんだけど。

『詩のリズムが翻訳で崩れてしまうだろうというのが気になっちゃうんですよね。かと言って、原語で読める程の語学力もないし。』


リルケの詩集も原語ではなく翻訳です。私は外国語がまったくチンプンカンプンなんで、翻訳されたものしか読めないわけで、だから作者の真の言葉というものは理解はできないだろうなあとは思ってはいても、それは別にどうでもいいことで、読んだ自分がどう思うかだけが大事だと思っているんですよね。翻訳されたものであっても、自分が「いいなあこれ」と思えることだけが大事だって。まあ、そうなると、翻訳する人の感性が重要な鍵になってしまうんでしょうから、いかに自分の好みに合致する翻訳家にめぐり合えるかどうかになっていくわけなんですが。

で、23mmさんの言っている詩のリズムというものって、原版と翻訳版ではやっぱり違ってきてしまうのはしょうがないかなあと思ったんですよね。それで、それがイヤなら頑張って原版を自分の力で理解していくしかないと。私も詩の持つリズムって大切だなあと思っているほうなんですけど、それは翻訳で感じられたらいいやと思ってもいるんで、23mmさんみたいに崩れることを気にするってことは私にはありません。そこに書かれたものだけが私のすべてですから。まあ、ある意味、一番作者を無視している読者とも言えるわけですけどね、私ってヤツは。

ところで、リルケの詩集を本棚から探している時にこんな本を見つけてきました。それは「人生の知恵 リルケの言葉」というもので、初版が1969年に出ている書籍です。リルケの詩を取り上げて、それについて解説というか論じているといった内容のもののようなんですが、おそらく古本屋でゲットしたものだと思います。もしかしたらあの詩が見つかるかもしれないと思って購入したんでしょうね。どうやら、載ってなかったようです。で、興味をなくして本棚に突っ込んだままだったという。つまり読んでない。せっかくだから、ちょっと読んでみようかなあと思っています。

これもいわゆる不幸自慢

2009年10月12日 07:02

ついったーでは斬さんをフォローしている私ですが、彼はついったーを非公開(プロテクト)にしてるんです。私が彼の呟きを読む限りでは、プロテクトにする意味がわからないなあと思っていたのですが、本人は本人なりに他人への配慮からそうしているらしいというのが彼のブログで語られていることを読んで理解できました。その記事が「『斬(ZAN)』 Twitter で予約投稿をする理由」なんですが。

ただ、この記事についたブクマコメでこういうのがありましてね。

『リプライじゃないsouryuuseiさんの呟きは、挑発的なモノもけっこうあるよなぁという印象が。つか開き直ってどんどん斬ってしまえば。』(「はてなブックマーク - 『斬(ZAN)』 Twitter で予約投稿をする理由」より)


うーん。確かに「斬」というだけあって、彼はいろんなものを斬ってはいるようなんですが、そんなに挑発的なものってあったかなあと私なんかは思いました。まあ、その発言が自分にとって当てはまるものであれば、くりりんしてしまって「何だとこら」となってしまう場合もあるんでしょうし、心弱い人であったなら「えーん、いじめられたー」となって傷つくってことにもなるでしょう。そして、私が彼の記事を読んで感じたことは、彼は他人を傷つけることにかなり臆病になっているということ。臆病っていうのはちょっと違うかもしれないけれど、ちょとほかにいい言葉が浮かばなかった。でも、正直、私から見れば彼はどうしても「臆病になっている」としか思えないんですよね。その記事を読んだ限りでは。

『 この記事を考えていて、Twitter を非公開にしている理由がもう一つあったことに気が付きました。それは、自分のつぶやきを観る人を傷付けてしまうかもしれないから、というのが潜在的にあったのだいうことです。

・文章は、間違って捉えられやすい
・文字数が少ないことで、的確に伝えることが難しい

 これも多くは、リプライなどで相手がある場合に、キツイ発言をしてしまい、誤解を生むことを避けるためでもあります。』


傷つけてしまうっていうことで、あとでまた引用するつもりなんですが、彼は「何でそんなことで傷付くんだ?」ということで傷付かれることが怖いというようなことを書いています。それは私も経験ありますし、誰でもそれは経験してきていることだと思います。だから、はっきり言って、それを怖がっていたら何も書けなくなるということで、積極的に傷つける気持ちを持てというわけではないのですが、傷つけてもそれはもうしょうがないという強い気持ちを持たない限りは、これ以上ウェブで何かを書き続けることはしないほうがいいんじゃないかと私は言いたいですね。この私の言葉も誰かを傷つける言葉じゃないかと思います。だけど、私は誰かを傷つけるつもりはないし、この言葉で傷付かない人だって確実にいることはわかっている。だから、私は自分の正直な気持ちを書き綴るだけです。だって、私は傷つけるために書いているわけではなく、ただ書きたいから書いているだけなんですから。他人のために書いているわけじゃなく、自分のためだけに書いているし、誰かを救いたいから書いているわけじゃなく、自分を救うためだけに書いているわけですからね。誰も傷つけようなんて思ってないことだけは、私の言葉で傷付いたという人には知っていてもらいたいなあとは思っています。

もちろん、そんな私でも非公開で書いているものはありますよ。ただ、私が非公開(ついったーで言えばプロテクトをかけている状態)で書いているものは、彼のように傷つけるかもしれないというあいまいなものではなく、確実に誰かを傷つけるはずのものを書いているからです。つまり、昔のようにサイトが炎上してしまうようなものを脊髄反射で書いているようなものですから、私の正直な気持ちを読まされた誰かにとってはかなり不快になるだろうし、傷付くだろうし、それがもとで私を攻撃してくることも火を見るより明らか。でも、私は絶対に読まれたくないものはウェブでは書きません。だから、その非公開の場所に書いたものも、いずれは公開することになるでしょうね。私がそこで書くのに飽きたか、それか気まぐれでといった理由で。ただ、今現在は公開するつもりはないです。

『以前、ウェブではなくリアルで、親しくなった何人かに
 「以前言われたあなたの○○という言葉で凄く傷付いた。今でも思い出すと心が苦しくなる」
 といった内容のことを言われた経験があるのです。』


私にもありますよ。「自殺はいけないことだ」と日記で書いたら、その言葉に傷付いたと言われたことが。日記を書き出して初期のころだったので、私の言葉で大好きな友人が傷付いたと知った時にはショックを受け、私なんて日記を公開するべきじゃないんだと自分を責めたものでした。けれど、その友人は、傷付いたけれどそれでも自分はあなたに正直に書いてもらいたいということを言ってきたのです。つまり、自分も正直に傷付いたと言うから、あなたも正直に書き続けてくれと。後に、これが文字だけの交流における本当のコミュニケーションというものなのかなと思ったものでした。そして、その友人とは今でも交流しています。主にmixiで、ですが。

『 移転前の goo 時代のブログでも触れたことがありますが、このブログが『斬(ZAN)』というタイトルにしているのも、ブログの言葉で“斬る”ことを前提に、周囲に斬られる用心をするようにという意図で付けています。つまり、斬られたくなければ近づくなということです。』


まあ、それは私も同意ではあります。私の場合は書いているものに何度か「私に傷つけられたくないのなら私に近づくな」とメッセージを書きながらそれを訴えてはいますけれどね。ただ、私としては、読みたい人のものは相手が隠さない限りは積極的に読んではそれで自分語りをしてしまったりするんで、近づかないようにしていても、私から近づいてしまうんですよね。だから、私を手ひどく振るしか私から逃れるすべはないと思います、公開で何かを書いていて私を嫌いな人は。もっとも、手ひどく振ったら振ったで、私はそれについても憤った何かを書いてしまうので、始末に終えん相手ではあるとは思いますが。まあ、あれです、私に好かれしまった悲運と思ってもらいたいよなあ。私がどういったものを好むかわかっていれば対処のしようがあるんでしょうけれど、私を嫌いであればどんなものを好むかなんて気づけないでしょうからねえ。そりゃもうどうしようもないと思います。何人かは私が追えないように完全に私から姿を隠した人もいますし、とどめを刺してきた人もいますしね。斬さんがそういった経験をしているとはどうも思えないんで、やっぱり私よりは斬さんの書くものって、そんなに他人を傷つけるものじゃないと思うんですけどねえ。って、これもいわゆる「不幸自慢」とも取れる発言ですよね。(笑)

『 それは、自分ではなかなか気が付かないことなのです。何でそんなことで傷付くんだ?と思うようなことで傷付かれているので怖いのです。たぶん、元々そーゆーモノを持ってしまっているのだと思います。』


だから、「そーゆーモノ持ってしまった」という自分だとわかっているのなら、覚悟して書き続けるか、もう書くことはやめるしかないと思うんですよ。あとは、完全に姿をくらまして、自分一人相手に書き続けるか。けれど、私は斬さんの書くものは読みたい人です。すべてを読みたいわけじゃないけれど、時々すごく私の心にヒットする(自分語りを誘発させるとも言う)ものを書いたりするんで、斬さんの書くものは見続けたいと今のところは思っています。だから読ませてほしい。でも、私に読まれたくないとなって隠れてしまうのならそれはもうしょうがないかなあと思います。たとえばついったーでリムーブされてしまうこともありうるわけですけれど、もしそうなったとしても、多少不満は呟かせてくださいね。それを読んで傷付かないでくださいね。なんてね、私なんかに不満ぶつけられても傷付くかどうかは大いに疑問ではあるんですけれど。



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