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非モテも非コミュもついでに変態もアングラでいこう

2009年11月30日 06:54

昨夜は平成教育学院(ってタイトルだったっけ)がスペシャルで、息子と二人で見てた。9時までやってたんで、お風呂も9時ってことにして見てたんだけど、息子が入ったあとに入る私だったから、風呂入って洗濯して寝る用意になるまでに少し時間がかかってしまった。ちょっと書き物もしてたし。気がついたら11時過ぎてたかな。あー寝なくちゃなーと思ってたら、テレビで興味あることをやりだした。それが非モテについての番組だったんだけど。

非モテって私はあまり詳しくないんだけど、その番組を見ていたらしい人が、ついったーで、恋愛できない人が非モテって違うだろ、みたいなことをポストしてた。私は非コミュについても「こうだ」と精通しているわけではないんで的外れなこと言ってるかもしれないけれど、テレビに出てきていた男女二人の恋愛したくない派の人、なんだか非モテというより非コミュに近いんじゃないかと思ったよ。異性と恋愛などで関わるってことをめんどくさいと言ってたし、たぶん同性に対してもめんどくさい関わり方はしたくないと思ってるんじゃないかと番組での彼らの意見を聞いていて思ったから、それってやっぱり非コミュ、コミュニケーションしたくない、できないっていうのじゃないかなあって。ただ、紹介されていた男性と女性とではちょっと違うタイプかなとも思った。どっちも同じように面倒なことはイヤだという感じではあったんだけど、男性のほうはそれでも多少はそんな自分に負い目を感じていて、他の人たちと同じようにやってみようという努力する姿が見られたんだけど、女性のほうはもうまるっきりそんな自分を認めてほしいという気持ちが強く、これでいいのよ私はっていうのがすごく感じられたから。だから、思ったんだけど、男性のほうは一種の病気なのかなあって。たとえば性欲についても、AVとかエロ本とかで性欲は感じず、大好きな音楽で興奮するっていうのも、音楽に関しての才能のある人であればそういうこともあるかもしれないけれど、普通だったらそれだけじゃなく女の子に対しても似たような性欲って出てくるはずだから、音楽だけでしか興奮しないっていうのはいわば音楽が女の子と見なしているとも言えるわけだよね。それが悪いとは言わないけれど、非生産的ということで、生物界で言えば病気と見なされて生きていく価値はないとなってしまうだろう。ただ、それを本人が受け入れてしまって、これが自分の生き方なんだと思うのなら、それを他人が無理やりに変えさせるわけにはいかない。だから、残念ではあるけれど、自分の好きなように生きればいいと私は思う。でもなあ、そういった人間がどんどん異常に増えていってしまったら、人類の未来はないよなあって思わないでもない。

あと、男性のほうは確かに自分のことで苦しんでるなというのは感じられたんだけど、女性のほうは少し違った印象を持った。私が言うのもなんだけど、かなり自分勝手な考え方・見方をしている人だなあって。男性と同じく恋愛に価値を感じていないという点では同じではあるし、セックスなどに関しては何か言ってたということはなかったようだけど、たぶん別にやりたいとも思ってないんじゃないかとは思った。ただ、興味がなくても何とか努力してみようとしていた男性と違って、この女性はとにかくこれが自分なんだ、これでいいんだ、嫌なものは嫌なんだという姿勢がありありと見て取れた。見ていてあまり気持ちいいもんじゃないなあと思った。それで思ったんだけど、私なんかも自分はこれでいいんだ、誰がなんと言おうとも私は私の生き方を貫くって声高に言ってきているけど、そんな私を見て潔いと感じてくれる人もいただろうけれど、確実に私のような生き方をできない人にとっては不快感を抱かせてしまっていたんだろうなあって。だから、この恋愛否定派の女性だって、自分がいいと思ってるのなら他人がとやかく言うことじゃないとは思うんだけど、私にしろ彼女にしろ、他にも様々な生き方、進み方があって、それが今よりもっと幸せになれるかもしれないという可能性だけは忘れず、少しは試してみることも悪いことではないよなあって、そんなふうに思えるようになれたらいいのにねえと思わないでもない。たとえば、恋愛に関してだと、私は結婚もして子供も産んだわけだから、ごく普通の女性としての生き方をしているわけだけど、こんな私でも若い頃は結婚とか考えたこともなかったし、異性に限らず同性ともうまく付き合っていけるような性格じゃなかったということで、テレビで紹介されていた、どっちかってーと女性のほうのタイプだったわけだ。けれど、そんな私でも旦那という相手に巡り会ったおかげで、そのめんどくさい関わり方をしてでもこの人と一緒にいたいと思うようになっていった。つまり運命の赤い糸を見つけたおかげで、自分の頑なな心がほぐされたわけだ。別に今だって恋愛至上主義というわけじゃない。恋する人以外にも大切にしているものはあるし、恋愛だけがすべてだなんて思っちゃいないもんね。

たとえば、恋愛でもっともめんどくさいものっていったらセックスだろうと私は思ってるんだけど、私は今だってセックスなんてそんなにいいもんじゃないと思ってるし、できればあまりしたくないほうだ。気持ちいいことは好きだし、そういった快感というものに対しては私も人並み以上に関心のあるほうだけど、それは相手のいるセックスでは得られないものだとも思っている。けれど、私は大切な人が私の身体で気持ちよくなってくれるというなら私は喜んで私の身体を差し出す。大切な人が幸せになってくれるのが何よりも嬉しいから。その気持ちがある限りは、私はたぶん身勝手で自分勝手な奴ってわけじゃないんだろうなとも思う。自分の好き勝手にやってるつもりだけど、ギリギリのところで私は大切な人のことも考えているってことでね。非コミュの人で、どうしても誰かとコミュニケーションしたくてもできなくて苦しんでいる人以外の、自分はこれでいい、他人と交流するなんて真っ平だ、そんなめんどくさいことなんてしたくないってことで非コミュ道を突き進んでいる人は、自分はそれでいいんだろうけれど、第三者にどう思われているかは考えてみたほうがいいかもね。まあ、そんなのどうでもいい、誰かに好かれたいなんてこれっぽっちも思ってない、むしろ嫌われたいと思ってるのならもうしょうがないんだろうけれど。ただ、そういった人って、堂々としているのもなんだかなーとも思う。私は多くの人にあまり認められないような性癖とか趣味とか性格とか気持ちとか思いとか考えとかっていうものはアングラな存在でいるべきだという考えなんだよね。それは差別とか虐げているとかそういうわけではなく、表ざたにせずにひっそりとしていることで安全に生きていけるための方法だと思っているから。だから、私なんかもけっこう人に認めてもらえないような考えとか趣味とか持ってはいて、昔はそれを隠そうともしないところがあったけれど、今は積極的に出していこうとは思っていない。そんな私を認めてもらいたいという気持ちはあれど、強い拒絶にあって深く傷付くこともあるのだから、地下に潜らせて密かに愛でることもひとつの生き方だよなあと思うんだよね。それもあって、リアルでは「書いている」ということは言わないでいる。以前は新聞とかで大々的に書いていて、そんな私の邪魔をしないでと声高に叫んでいたのだけど、あれから10年、だいぶ人々の記憶から私がやっていたことが忘れ去られたようでよかったなと思っている。とりあえず仕事場の人たちは私の趣味は知らないから。知られるつもりはない。絶対に知らせたくない。それもあって、来年からの投稿作品はリアルバレのしない完全匿名のPNでやっていこうと思っている。もっとも、私が毎年投稿している文芸誌は、採用された場合、住所を書かれてしまうで、それはちょっとマズイなあとは思うんだけど、それはまあ採用されてから考えることではあるんだけどね。

というか、またしても話ズレてきた。まあいいや。そんなことを昨日のテレビ番組を見て思ったということ。今日も元気に仕事、頑張るぞっと。
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何のために書くのかと聞かれたらやっぱりね…

2009年11月29日 10:38

何のために書くのか、それは書きたいからだと書いている人がいた。それは私も同じだ。私も自分のために書いている。公開した場所に書いているからといって、他人のために書いているわけじゃない。これが私には一番楽しい書き方だから書いているというだけに過ぎない。それは今までにも何回と書いてきたことだ。私は自分のために書いている。ただ、誰かに読まれていることは自覚しているんで、まったく読者を気にせずに書いているかといったら、やはり多少は気にして書いてもいる。

『 自己顕示欲ということでいえば強いほうだと思うのだけれど、俺には奇妙なほどに「自分を見てほしい」という気分がない。見てほしいのは自分が書いた文章であり「俺はこう考えている」ということ「そのもの」のほうであって、むしろ俺本体に近づいてこられるのは病的なくらいに怖い。』(「なにを、なんのために書くか」みたいなこと - G.A.W.より引用)


引用した記事を書いた人は「自分を見てほしい」というわけではないようだ。では私はどうなのか。私も自己顕示欲は強い。そして、自分の書いたものは、確かに自分のために書いてはいるけど、それを読んでもらいたいという気持ちも強い。誰かのために書いているわけではないけど、読まれたい。そういった気持ちがあることは否定しない。自分を見てほしいわけじゃないと記事の中の人は言ってるんだけど、自分の考えや文章って「自分」なんじゃないかと私は思ってるんだけど違うんだろうか。そりゃ、提示された考えや書かれた文章で自分をすべて語ることはできないんだけど、それも自分の中の一部ということで、「自分」なんじゃないかと思うんだけどね。もしかしてあれかな、生身の自分を見られることが嫌なのかな。つまり、リアルで会うっていうのが嫌だとか。そういうことなのかな。それなら少しは私も気持ちはわかる。てか、「俺本体」と書いてあったよ。ほんと私ってば読解力ないよなー。

それを踏まえて私はどうだろうか。一応、私もネットで知り合った人と会ったこともある。確かにリアルで接触持つって気を遣ってしまったりと精神的なストレスとか出てきてしまうから、それを感じるのが嫌だというのもあるんだけど、考えてみたら、相手だって同じだよなあって。もちろん、中にはそういったストレスなんて感じない、人と会うのが大好きという人もいるんだろう、初めてでもまったく気にしない、とか。ただ、やっぱりほとんどの人が初めて会うのは多少の緊張やら何やらはあると思うんでお互い様だよなあって。自分だけがストレス感じてるわけじゃないんだってことを忘れなきゃ、二度目三度目と接触持っていくうちに、そのうちに昔からの仲良しさんみたいな関係になっていくことだろうな。そんなふうに思った。

それにしてもこの人、海燕さんが大好きらしい。それは「ぶれない」ところらしいんだけど、私はそんなに彼が「ぶれない」とは思ってないんだけど、だからといってそれが嫌いというわけじゃない。私はどちらかというと「ぶれる人」っていうのは嫌いじゃないから。とはいえ、気持ちはわかる。私も彼の書く文章は好きだから。もちろんすべて彼と同じ考えを持っているというわけじゃないんだけど、彼の考え方とか姿勢とかは好感が持てるし、書かれている考えなども同感なものが多いから。

『 そういえば、余談的につけくわえるんだけど、ついったーの有名な人なんか特にそうだし、真のアルファブロガーまなめさんなんか見てても思うんだけど、楽しそうなんだよね。やたらに。楽しそうにしてる人が「楽しい」って言ったときに、そこに人が集まるのは、まあ必然かなーと思った。

 俺は湿度高いので、湿度高い人たちどうしで今日もついったーで楽しくやってます。』(「なにを、なんのために書くか」みたいなこと - G.A.W.より引用)


そうかなあ。確かに私もこの人と同じく湿度はかなり高いと思うんで、それで言うと私の周りに人が集まらないのもわかるんだけど、この人って私より確実に多くの人が周りにいると思うんだけどね。というか、私はどっちかってーと同種の人たちとつるむのはあんま好きじゃないかも。ついったーでもかなり浮いた存在だっていうのは自覚してるしね。

それと、この言葉。

『俺、引用すごいへただと思った。』(「なにを、なんのために書くか」みたいなこと - G.A.W.より引用)


いやいやいや、私に比べたら断然うまいと思ったよ。うん。

どんな声でも放たれるべき

2009年11月29日 09:51

「ウェブリブログのやり方に不信感を持った ひとりごと-ウェブリブログ」

私もウェブリブログにブログを持っている。過去に書いたエッセイを別の文体で書いて記事をあげるというだけの使い方しかしていないブログだったんで、どんなことになろうとも何も思うところはない。けれど、そのブログをメインにしてやっていってる人にとっては、やはり穏やかではいられないことなんだろうな。ただ、こういうことは、どんなブログサーヴィスでも起こりうることだ。自分で自分の書いたものを守ることは最低限の必要事項なんじゃないかと思う。確か、FC2のブログでも、過去ログのいくつかが自分が削除したわけではないのに勝手に削除されてしまっていたという声を聞いたことがある。それを聞いてからは私もFC2に限らず他のブログでもそんなことが起きてしまうことはありうるだろうなあと思って、書いてはログを保存してローカルで残すというやり方を今はしている。だから、私はサーヴィズ側にモンクは言わない姿勢。ただ、私も昔はサーヴィス側のやり方にぎゃーすかモンク言ってたほうなんで、言ってしまう人のことをどうのこうのとは思わない。そして「言うな」とも言わない。不満は言うべきだという考えもあるからだ。サーヴィス側はそういった客の声を聞くべきだと思っているし、中にはその声を真摯に受け止めて次回に活かすということもあるだろうから、声はどんどん放たれるべき。ということで、私も、自分の考えである「自分のものは自分で守る」という考えを提示する。

ちなみにライブドアブログも私的には使い勝手が悪いんだよねえ。ただ、ガクトさん関連のことをメインにして書いてきて、わりと読まれていることを知ってもいるんで、なかなか切り捨てるということができない。そういえば、ライブドアブログを使うきっかけになってしまったのも、それ以前に使っていた日記サーヴィスが崩壊して、強制的にライブドアに移行させられて、あのときゃ私もぶぅぶぅモンクたれたれをしたんだったよなあ。私はライブドアブログなんて使うつもりなかったんだけど、なんだったっけ、本名とか住所とか登録しないと退会できないとか、そんなことを聞いたもんで、なんだよそれーってなったんだったよなあ。でも、結局使ってみるかーということになって、使い勝手はやっぱりよくなかったけど、結局ずっと使い続けている。もっとも、今はほんとにほとんど更新されることはないんだけど。あそこでしか繋がりのない人だっているんで、やっぱむげに削除ができない状態。URLがあんな味気なくて、ほんとは好きなアカウントを作りたいんだけど、それもできない。あのURLでブロピとか今でも登録してくれている人がいるからねえ。

糞みたいなブログでも救えるんだ

2009年11月29日 08:47

『そうするとその期間中に絶望期もあればノリノリ期もあって、
ノリノリ期にはいろんなことを「見切ったッ!」みたいなヘブン状態で
頭のなかのことを書き留めておこうとエントリも書き書きするわけで。

それで最近気付いたのですが、その時期のエントリって、
ほんとうにへこんでいるときは読めないのです。
なんというか「ああ、わたしにもこんないい時期があったよね…」みたいな、
「でもいまはこのざま…」みたいな気分になってしまう。(暗いですね)

でも、どん底から浮上しかけていて、なんとなくちょっと気力が回復してきた…
あとちょっとでなんか元気になれそうなんだけどな…みたいな時期に読むと、
なんとなく前向きな気分を取り戻せたりするのです。』(「ブログを書いててよかったとおもったこと - インターネットの備忘録」より引用)


凹んでいる時にどんなものが読めなくなるのか…私の場合は自分の書いたものに限ってはどんなものでも読めるという自信はある。ただ、症状によっては読めないこともあるんで、それが明るい内容なのか暗い内容なのかは関係なく、体調関係がよくない場合は何も読めないし、精神的によくない状態の場合はどんな内容でも私は読む。もっとも、精神状態がよくない場合は、私は自分の書いたものより他人の書いたものを無性に読みたくなるんだけどね。ただ、体調が悪い時でも、その症状によっては自分の書いた物を読み返すことができることもある。それは、すごく悪いわけじゃなく、なんとなく体調不調っていう場合なんだけど。こういう時は、そのもやもやした体調の悪さのせいで余計なことばかり考えてしまって、結局は精神的によくない状態になってしまい、さらにその精神状態が身体に影響及ぼして、最終的には身体に変調を来たしてしまうこともあるんで、何とかして身体にまで影響を与えてしまう前の段階で食い止めなくてはならないということで、私は過去の似たような症状の時の書き物を読み返すんだ。すると、それで安心できて何とか乗り切れるってことが何度かあった。

だから、私にとっての「ブログを書いててよかった」ということは、こういうことで、なんだろうなあ。私の体調悪さを救ってくれたのは、ドリコムで吐き散らしていた呪詛の塊のような内容に埋もれているちょっとした日々の体調のことだったんだから。あんな糞みたいなブログでも私を救ってくれる。正直に書くことはこういった見返りもあるんだと痛感した出来事だったな。だから、この↓の引用記事を書いた人の気持ちが私にもわかるなあと思う。

『インターネットに何かを残す、ということは確かに便所の落書きかもしれないし
このブログみたいな、ごくごく小さい規模で地味に続けていくことって
あまり意味がないことなのかも知れないな~と思うときもあります。

でも、誰に見せるわけでもなく、自分がそのときその瞬間何を思って何を感じたか、という
「極私的・自分アーカイブ」がネット上に残る、っていうのは、何より未来の自分のために
なるのかもしれないなあ、と思ったので、備忘。』(「ブログを書いててよかったとおもったこと - インターネットの備忘録」より引用)


ところで、この記事を紹介していたまなめっち、この人の『定期的に絶望ってやってきませんか。』という問いかけに『やってきません』と一刀両断。(いやいや、まなめっちは切り捨ててはいないと思うぞ)私なんかも定期的に絶望がやってくる人種なんで、定期的に絶望くるっていう人の気持ちはわかるんだけど、まなめっちってば「やってきません」って…んもー、そこが私ら根暗な人間との違いなんだなあと思った。ふと思ったんだけど、まなめっちが絶望を感じる瞬間ってどんな時なんだろうねえ?

4年前の私には戻りたくない

2009年11月28日 19:53

『そんなうれしさを受け止めれるほどの現実への対策活動をしていないからだ。対価が必要だ。今までも何回もうれしいことたのしいことはたしかにあった。そのたびにそれらに感謝してそろそろがんばろうと思ってきた。でも、結局がんばれなかったのがこの結果だ。そして明日も同じ日々が始まるのかと思うと自分を消したくなる。自分を無視したくなる。』(「2009-11-27 - ReLife」より引用)


あるとないとっちとはまったく状況は違ってた、私の時は。ただ、引用した箇所もだけど、そこまで至る文章を読んでいても、今から4年前の私のことをありありと思い出してしまったんだよね。あの頃のことはmixiでもさすがに正直な気持ちは書けなかった。だって、書いたってどうしようもないことだっていうのはわかりすぎるほどにわかっていたことだから。きっと今の自分の正直な気持ちや状況を書けば書くほど惨めになって、そんな私を購読してくれてる人たちに見せたくないと思っていたから。だから、あまりにもネガティヴなことはドリコムで吐き捨てていた。そのドリコムももうすぐ終わる。私の呪詛の塊であるあの文章たちも消えていく。きっとそれでいいと思う。とはいえ、ちゃっかりログ残してしまったんで、呪詛以外の体調関係のことはいずれは過去ログにひっそりと追加しておくことだろうな。あんな酷い書き捨て記事でも、読み返すことで救われたこともあったから。これからも、似たような状況になった時に読み返して救われるためにも過去ログに残しておこうと思ったから。

仕事に出たくなかった。いや、正直な気持ちは別に仕事をしたくないということではなかった。ただ、私は行動ができない奴で、すべてお膳立てしてくれて、その場所まで連れてってくれるなら、という、とても人に聞かせられるようなことを思ってなかった奴だった。もともと以前の仕事だって、友人が見つけてきてくれて、一緒に受けようと申し合わせて受けた会社だったし、しかも、面接場所がわからなくて、会社の近くをウロウロしているところを偶然通りかかった友人が、私の代わりに面接場所を会社の警備の人に聞いてくれ、そこまで連れて行ってくれたという体たらく。それは、仕事を辞める場合もなかなか自分では言い出せないということもあり、ズルズルと12年だったか働き続けた。でも、もう続けられないと切羽詰ったところでやっと何とか自分から「仕事辞めます」と言った時は、自分だってけっこう言えるじゃんと思ったものだったけれど、仕事辞めて社会から隔絶された9年近くでまた変化に向き合うことができなくなっていたんだ。2005年秋、追い詰められた私は仕事に出なければならないと思いつめ、けれど、行動ができずに「いっそ死にたい」とまで思うようになっていた。頑張れ、頑張るんだ、ガクトさんに誇れる自分になりたいんだろ、旦那だけに苦労させている自分が情けないと思ってるんだろ、もう自分は作家デビューなんてできないんだ、そんな夢みたいなことばかり言ってないで、自分が一番果たさなきゃならない夫婦としての役割をやらなきゃいけないんじゃないのか……子供の頃からいつか作家になると思ってた。自分の文章がうまいとは思ってなかったけど、それでもお話を作ることは得意だったし、それを友達もおもしろいと言ってくれたし、高校の時にも私の書くものを素晴らしいと褒めてくれる先生もいたし、高校の先輩が「おまえはいつか何かでっかいことする」と言ってくれたこともあったし、なにより高校卒業した頃、短大時代にとある同人に投稿した詩が佳作になって同人誌に掲載され、それから何度も同人として創作活動をしないかと誘われ続けたことでも、私ってもしかして才能があるのかも?と勘違いをしてしまったものだった。だから、短大を卒業する頃には就職するという気持ちがあまりなく、友達が見つけてくれた仕事も正社員ではなくパートとして入社した。いつか作家になって寿退社(意味違う)するんだと意気込んでたから。でも、仕事始めだしたら、投稿用の小説はおろか、日記さえも書けないくらいに時間を作れないようになってしまったんだ。夜遊びを覚えてしまったから。そして、すぐに旦那と付き合いだして、何か書くなんてことは無理となっていく。つまり、あの頃からすでに私の書くスタイルというものが決まってしまってたんだなあと思った。私はリアルが充実していると何も書けない。私の書き物の原動力は「不幸」だったから。何かから追い詰められたり、傷付けられたり、生きていたくなかったり、恋に破れたり、手に入らないものに憧れたり、行きたい場所にいけなかったり、究極、物語のような生き方ができないから、その代わりに物語を書くことで自分の欲求を満たしていたからだ。そんな私が楽しい日々を送っていれば何も書けるわけがない。子供の頃は宇宙を旅したかった。だから宇宙に出て行く話を書いた。好きな人とうまくいかなかった。だから好きな人とうまくいく話を書いた。そんなふうに叶わぬ夢を物語に託していた。今の私は叶えたいという夢がない。いや、まったくないわけじゃない。けれど、それは私の心がけしだいで叶わないものじゃないと実は思っている。だから、今の私は強く叶えたいと思う夢がないんだ。もしかしたら、私はもう自分の夢を叶えるための物語は書けないかもしれない。そんなふうに今は思うようになってきた。

今の私は仕事が楽しい。仕事を初めてからしばらくは、やはり人間関係で仕事を続けられないくらいに追い詰められていた。けれど、あるきっかけで楽しく仕事ができるようになった。それは以前やってた仕事でもそうだった。以前の仕事は今の仕事とは違って客商売だったから、事務で仕事をしていたとはいえ、売り場で客相手をすることもあった。でも私は売り子が一番苦手な職種だった。それはたとえばスーパーなんかのレジでの仕事も私にはダメだったろう。あれもレジ打ちをしていて何かのトラブルが起きた場合に私は臨機応変に対処ができない。事務の仕事でも取引相手や客からの電話でいろいろと対応しなくてはならないということもあり、そういったことも対人関係に問題のある私には無理なことだった。私が一番楽しく仕事できたのが、事務でも伝票の内容をコンピューターにひたすら打ち込んでいくというものだった。今の仕事もそれと似たような仕事なんで、こういった仕事は私にとって天職だと思っている。で、以前の職場では、その仕事をずっと続けていくことができなくなったので、それもあって辞めたということもある。今は、職場での人間関係を気にしなければ、仕事自体は楽しくてしかたない。だから、今の私の仕事ぶりはかなりのものになった。最初の頃のミスばっかりだった私とは思えないくらいだ。楽しく仕事してお金がもらえる、こんな嬉しいことはない。そして、こんな幸せなことはない。そんな私だ。自分を救う物語なんて書けるわけがない。きっと、書けないのはそのせいじゃないかと思ってしまってもしかたないと思う。

でも、今の私はそれでもいいかなとも思う。このままずっと平穏に暮らしていきたい。もう4年前の私には戻りたくない。すべてを呪って呪詛ばかり吐き捨てていた私には。もう絶対に戻りたくない。もちろん、戻らないという保障はない。人生浮き沈みはどうしてもでてきてしまう。いずれ、また落ち込む時期もくるんだろう。ただ、できれば、その落ち込みの時期を何とかやり過ごす心の強さを手にしたい。それだけを今の私は願っているかな。

いやー、ほんとにまったく言及になってないや。リンクなんてするんじゃなかったかな。(苦笑)

様々な意見が並ぶことは大事

2009年11月27日 17:36

『人に理解されたり、よろこばれようなんて思うな。

むしろ認められないことを前提として、

自分を猛烈につき出すんだ。』


という、岡本太郎の言葉をすべての表現者に送るということが書かれた記事を見た。これってちょっとデジャヴ。似たようことを生前、梓さんが書いてたなあって。梓さんの場合は「認められたらおしまいだ。むしろ認められないからこそ力を持つんだ」みたいなことを言っていたと記憶する。でもねえ、確かにそうなんだけど、それはなかなかに難しいことなんだよね。私なんかもけっこう昔よりは神経は図太くなったとは思うけれど、最近は酷い誹謗中傷を受けたことがないこともあり、今また昔よりもっと酷い目に遭ったとしても「私は好きなものは好きなんだ」と堂々と表現していられるかどうか自信はない。たぶん、ほとんどの人がそういった強さは持ってないと思うよ。だから、簡単に他人に対して「強くあれ」とは言えないんじゃないかなあ。

一連の記事は読んだ。あえてここでは詳しくは取り上げないけれど、その二つの記事を読んだことでちょっと思ったことを備忘録。てか、またしても前に書いたことの繰り返しを語るわけなんだけどね。私がガクトさんを好きだということを否定されたときのことを。私もまた、自分の好きを否定されて傷付いたわけだ。でも、本当に好きであればその気持ちを否定されても「それがどうした」で負い目を感じることもないんだけど、不思議なんだよねえ、好きであるという気持ちを否定されたら、どうしても負い目を感じてしまう。それはなんでなんだと考えてみたんだけど。これはもうそういった条件反射の持ち主ってだけなんじゃないかなあ。負い目を感じない人も確かにいたりするんだけど、私からすればそういった負い目を感じない人っていうのも困りもんな人種だなあと思ってるんだよね。これもまた偏見ではあるんだろうけど。ただ、それこそ、梓さんが言ってたような感じで、負い目を持たないことで堂々と表現するよりも、負い目を持って隠れて鬱々と表現することで、その作品になんかこうものすごい凝縮されたパワーみたいなものが宿るといったそんなふうになりはしないかなあと。でもまあ、負い目なんかまったくなくて明るく清々しく気持ちいいパワーっていうのもあるんだろうから、私はどっちも否定はしたくないんだけど。BLなんかで甘甘な男女の恋愛みたいなものだって私は嫌いじゃないし、痛過ぎる内容とか耽美や退廃な内容の同性愛文学だって大好きではあるし。ようは好みの問題ではあるんだけどね。

私がガクトさんを好きだということ、そのことを「それは本当の好きじゃない」と否定されたり、「ガクトが好き?あんな気持ち悪いののどこがいいの?」と言われたり、私だってそりゃあもう何度となく自分の趣味を否定されてきたものだ。ガクトさんだけに限らない。他にもいろいろ理解されない趣味とか好みとか私にはいっぱいある。そして、それを誰からも「そうだよね」と肯定されることはほとんどないのだけど、その都度やっぱり私はしょぼんとなって自分を否定されたような気になる。これはもうそういった性格だからとしか言いようがない。子供じゃない大人である私でもそうなんだから、心が幼い子供であれば、大人や他人が理解できない傷付き方もする。「こうであればいいんだよ」「気にするな」「何も悪いことしてないんだから負い目なんてかんじる必要ないんだよ」と言ったとしても、それを「そうですね」となって好きを貫くことってなかなか難しい。それにはやっぱり時間が必要だし、あと経験も必要だ。何度も傷付くことで辿り着ける境地であるんだから、今すぐ結果を求めることはそりゃもう無茶なことだよなあと私は思う。

ただ、いつかは子供たちも気づくだろう。だんだんと傷付いてもそれほどのダメージを感じなくなったみたいだなあって。そして、「気にすることない」「負い目なんか感じるな」と言ってくれた人がいたなあってね。だから、「好きなら好きを貫けばいいよ」と言っておくことも大事だと思う。いずれ気づく人のためにも。様々な意見がウェブ上にあることが望ましいと私が思うのは、そういうことなんだよ。

恵まれた病人、気の毒な病人

2009年11月25日 09:08

今朝もある人の書いた物を読んでいる。その最新に書かれたものを読んでいて、ふっと思い出したのが、旦那が言っていた言葉。「ウツなんて贅沢病だ」いや、ちょっと言葉が違ってたかもしれない。恵まれた人しかかからない、とか、なんかそんな感じだったような気もする。というのも、この間、ババさまんちでご飯食べてた時に、何の話からそうなったのか、最近はあの人もこの人も実に多くの人がうつ病で、という話をしてたんだよね。そしたら、旦那は「うつでも生きていけるっていうのはそれは恵まれた環境だからだろ」と。旦那が言うには、そもそもうつ病になっても生きているということ自体がおかしいんじゃないのかって。普通、生きていけないだろって。というのも、そんな病気になったら働けなくなったりするわけで、働けないということはイコール死を意味するわけで、それでも生きていってるってことは誰かが世話してくれているということ。それは恵まれているっていうことじゃないかと。その日その日を生きるのが精一杯な奴はそもそもうつ病なんてかかっていられるヒマなんてない。生きることに一生懸命な奴は心の病気になんてならないんだと。私はそれを聞いてなるほどなーと思った。私なんかも心の病にかかる傾向があるんだけど、私自身を顧みると、やっぱり確かに恵まれた環境だったなーと思うんだよね。母親がシッカリしていたから、母がいれば何とかなるという安心感のもと、好きなことばかりしてきた子供時代だったし、今だって、旦那のおかげで私はのほほんと生きていけるわけだし。けれど、旦那は自分がちゃんと自分でやってかないとたちまち生きていけない人生を子供の頃から歩んできたわけだから、心の病なんてそんなものかかってる場合じゃない、とにかく気合だ行動だと突っ走ってきた、まあいわゆるガクトさんみたいな肉食系だったわけだ。肉食系な人間は心の病なんてかかるってことはないのかもしれないな。確かに見たことないよなあ、肉食系なうつ病な人。やっぱ草食系な人の性格がモロに心の病にかかる要因なんじゃないのかねえ。だから、草食系が増えてきているということだから、そりゃ世の中うつ病も多くなるよねえ。となると、うちの息子くんも、どちらかというと草食系。ちょっと心配だよなあ。ただ、旦那の血も受け継いでるわけだから、少しはそれを期待したいと思うんだけど。

私としては、どんな人だって存在していていいという考えでもあるんで、うつ病を排除するという考えはない。肉食系しかいないっていうのもバランスの悪い世界だと思うしね。それに、草食系すべてが病気になるとも限らないわけだから、すべてが肉食系になるべきだとも思わないんだけど。だけど、うつ病が増えるっていうのもよくないでしょ。それはそれでまたバランスが悪いということになるから。昔だってそういった心の病がまったくなかったわけじゃないだろう。けれど、昔は今のように心だけに限らず身体に関しても病気の人に優しい社会じゃなかったから、病気になったら寿命を待たずに死んでいくのが普通だったはず。だから、病気の人はなかなか生きていくのは難しかった。生きたくても生かしたくても医療が追いつかなかったんだろうし。けど、それで世界のバランスが取れていたんだろうな。それが今はいろんなことのバランスが取れてない状態で、たぶん、かなり危うい世界に成り果ててるんじゃないかと私は思う。まあ、それがいい悪いということは私には決められない。私一人が何を叫んでも行動しても変わらないんじゃないかと思ってるし。ただ、私はこう思うよって言うだけなんだけど。やっぱ私も草食系なんだろうなあ。ダメだとわかってても行動するという気持ちはなかなか持てないから。

ただ、ここまで書いてきて思い出したことなんだけど、うつ病でも病に倒れた伴侶を介護する人なんかにもうつ病になる人とかがけっこういるってことも思い出した。介護する人も考えてみたらその日その日を一生懸命生きている人たちだよなあって。介護のために仕事なんかもできなくなって生活していくために働くっていうこともなかなかできないわけだから、旦那の言うようながむしゃらに生きるために頑張ってる人はうつ病なんてならないっていうのが当てはまらないことになる。だけど、うつ病でも、介護でうつになるっていうのはまた違うのかもしれない。あまりにも頑張りすぎて、それで心が疲れてしまう時もうつ病になったりするんだろうから、頑張りすぎる性格の人も病気になってしまうということなんだろう。たとえば、旦那なんかも頑張っちゃう人ではあるけれど、極限に至るまでにリミッターがかかるんじゃないかな。うまく息抜きができる人でもあると思うから。だから、介護する人でもすべての人がうつになるわけじゃないわけで、そういった病気にならない介護する人もまたうまく息抜きできるタイプの人なんだろう。私の母親なんかも壮絶な人生を歩んできているけど、そういった心の病なんてかからない人だし。母はこれがまた超ポジティヴな人だからなあ。

けどまあ、旦那の言うような恵まれているから病気になるタイプの病人もいないわけじゃないだろう。そして、本当に気の毒な病人もいるだろう。ただ心の病だからというひとつの括りだけで見ないようにしないとねえ。それだけは忘れないようにしたい。

普通って何だろう?

2009年11月22日 07:14

『なんか、ネットでいろいろ書いていたら過去記事がたまっていって、自分では「え?それもう何年前の話?今は考え変わっちゃったし、全然キョーミないし、関わる気もないし」みたいな事柄についての記事も、削除しないでそのままおいてたりします。そういうのをたまたま検索やどこかのリンクでみつけて読んじゃうと、私が今でもそう考えてたり、そのことに興味があったり、関わりたいと思ってる、と受け取られても仕方ないのかなと。いや、仕方ないんですが。』「Fragments 潮時を知る人、知らない人」より引用


私などは見つけてきたおもしろそうな人の書いた日記などは過去ログから順番に読破していくほうなので、どうしても時系列で興味のあることに言及してしまうことになる。そんな感じで今までにも読んだ日記の過去ログを取り上げて「この人はこう言ってるけど、私はこう思う」的なことを書いてきたことも何度かあった。そうなるとやはり言及相手から「あれから何年も経っているので、あの頃の考え方とは違ってきているんですけど」と言われたこともある。まりねこさんのようにしかたないよなあと思ってくれる人ばかりならば私も気軽に「私はこう思うよ」と書けるのだけど、中には自分を誤解されたくないということで過去ログをあっさりと削除してしまう人もいるだろうから、私としては楽しみな日記読みを断念せざるをえないことで、残念だなあと思ってしまう。まあ、そう思うなら、書き手の嫌がることをするなよということなんだろうけれど、どうしても私は語りたいと思ってしまったら、相手の意向など確かめずに好きに書いてしまうんで、うーん、やっぱ私ってば誠意のない取り上げ方をしているということは確かなのかもなあと思ってしまうな。さすがに私も感情のある人間なので、自分のしていることを完全否定されたら腹も立つのだけど、それでも私は書きたいとなったら好きなように書いてしまうんだから、そりゃもう嫌われるのは覚悟の上で書いていくしかないわけだ。うん、でもまあ、覚悟っていっても覚悟だって本当は別に持たなくていいじゃん、とも思う。嫌われたら素直に「むきー」となって、そんなに私ってダメですか?どーして?私ってそんなに嫌われるようなことしてますか?なんて往生際の悪いことだって書けばいい。誠意がないって言うことだって素直な意見。そして、それを言われた側のやるせない気持ちを言うことだって素直な意見。まああれだ。素直対素直で泥沼的なことになってしまうのはしょうがない。結局はどっちもどっち、どちらにも思いやりが欠けているからこんなことになる。けれど、思いやりっていいことばかりじゃないと思うんだよね。思いやりがあったら、互いに相手に何も言わないでしょ、自分がいやだと思ってることなんてさ。けれど、言わないでいたら、相手はいつまで経っても、こっちが「そういう思い」を持っていたなんて気づかないわけで。いずれはそのことで他からバッシング受けてひどいダメージを受けてしまうことにもなる。だとしたら、はっきりと自分は「こう思ってる」と突きつけるのも思いやりってことにもならないかなあ。まあ、つまりはその時その時の相手次第で思いやりの形も変わってくるってことなんだろう。でも、私に対しての思いやりは「好きに言えばいい」ってことなんじゃないかと。人によっては、その人の悪いところを辛らつじゃなくてやんわりと指摘したとしても、その行為が思いやりにならない場合もあると思うんだ。その人には言わないことが思いやりっていうこともね。けれど、私に限りは言うことが思いやりになる、と思う。確かに、言われたことでこの私はかなり荒れるよ。もうね、思いっきり荒れる。過去にはあまりの荒れようで相手がびびってしまったことがある。私の荒れ方を見てめちゃくちゃ傷付いたって言われた。けど、あの頃のような荒れ方ももう今はする元気もない。だから、私を突付いたとしても、そんなに荒れることはないのでご安心ください。って、誰も私のことなんて怖いとも思ってないって?そりゃどうもすいませんでした。(って、別に言われてもないくせに。てか、相手もされてないだろうし)

ううむ、やっぱり話がズレてきたぞ。

ええと。ちょっと軌道修正。つまり、私の場合に限りなんだけど、私はその人が書いている考え方とか興味の対象とか、そういったものを書かれたものを読んで、その人が今でもそうなんだとはあまり思ってないんだと思う。そこに書かれていることが、私と考え方が違ってたりした場合、その考え方に対して、いや、私はこう思うと語るだけであって、その人が今でもそうであるかというのはどうでもいいと思ってるんじゃないかなあって。まあ、だからといって、その人に興味がないというわけじゃなく、興味があるからその人の書くものを読んでるんだけど。「考え方変わったよ」って言ってもらえれば「ああ、そうなんだ、変わったんだ」と、その人自身の情報として知れることは私にとっても嬉しいことだし。相手も私の自分に対する誤解を解消できるということで、私としても、「今は考え方変わったよ」と言ってもらえるのは助かる。時系列で読んでいってもなかなか考え方が変わったということはわからないかもしれないからねえ。やっぱりその時に書いた考え方のところで注釈とか入れてもらって「現在はこれこれこういうふうに変わってきてますが」と付け加えてもらえればわかりやすいと思うし。ただ、あまり自分の日記を何度も読み返すっていう人はいないだろう。私なんかは読み返すほうなんだけど。で、読み返していて自分の考えが明らかに違ってきているというところは追記として書くんで、過去ログを読まれることは嫌なことじゃない。ただ、それはけっこう大変な作業だと思うんで、私としては読めなくなるんで残念ではあるんだけど、自分をちょっとでも誤解されたくないという人であるなら、過去ログを削除しつつ日記を書いていくこともしかたないかなあとは思う。無理強いはできないからね。けど、今までにそんな感じで読破していこうと思ってた日記がいくつも削除されてしまって、別に私が取り上げたから削除されたわけじゃなくても、ちょっと後ろめたい気持ちにはなったものだった。それもあって、私もなるべくなら削除しない方向でこれからもやっていくつもり。サービス側が削除してしまうことはどうしようもないけれど。

『私の知っている人のブログもなくなってしまいました。
誰が何を言っているかもわからないネットのあれこれなんかより、リアルライフのほうが大切なのに決まっています。きっと潮時だと思ったんでしょうね。けど、そうやって飽きたりトラブルを起こして閉じては、別の名前で別のブログなどを再開する人も多いそうですが。
なんなんでしょうね。
露出癖?目立ちたがり?
そういうものが強くある人もいそうです。悪いことではないですが。いや、私もたいがい、「私を見て」な人だと思っていましたが、もちろん世の中、上には上が。私の欲など、小さい小さい(笑
痛い目に会ったり、ライフスタイルが変わって、これはもうネットから足を洗う潮時ってもんだろう、と周りが考えるような環境にある人でも、さらにさらにズブズブのめりこんで行く人もいますし。
私?そうですね、潮時を知る普通の人でありたいですね。』「Fragments 潮時を知る人、知らない人」より引用


潮時っていうのは私にはわからない。でも、私は普通の人だ。確かに、露出癖はあるし目立ちたがりではあるけれど。それでも私は普通の人間。こんな私なんてどこにでもゴロゴロしてる。どちらかというと、そういった露出する人とか目立ちたがりな人が私には普通の人に見える。というか、普通じゃない人ってそんなにいないような気もする。じゃあ普通じゃない人ってどんな人だろう。たとえば犯罪を犯してしまう人?それでも、誰某容疑者は普通の人でしたという声はよく聞くんで、犯罪を犯すから普通の人じゃないというものでもないんだろう。普通ってなんだろうな。どういうことが普通なんだろう。たぶん、誰一人として「普通とはこういうことだ」とは断定はできないんだ。昔の私は普通でありたくなかった。人とは違っていたいという気持ちが強かった。自分は特別な人間になりたいって。というか、自分は特別なんだって思いこんでいた。それは子供の頃のことなんだけど。大人になっていくにつれ、そんな理想の自分とかけ離れた普通の自分を見つけてしまい、絶望したものだけど、普通じゃない人は平穏な生活は望めないだろうなあと思ったら、今の私は平穏に暮らしていくことこそが最大限の目的でもあるんで、今はごく普通に生きていきたいと思っている。ただ、自分が考える普通が人とは違っていたら?それを思うと、やっぱり「普通」ってどんなことが「普通」なんだろうって思ってしまう。たぶん、私が他人の日記を読みたいと思うのも、他人の思う普通とは何だろうって知りたくて読むのかもしれない。それだけじゃなく「普通」以外のことでも、自分はこう思ってるけど他人はどう思ってるんだろうということを知りたいから、読みたいと思って読んでるかもしれないな。

読みやすいのか、理解しやすいのか

2009年11月20日 10:54

私の文章は読みやすいと言われたこともある。けれど、ぐしゃぐしゃな文章だとも言われたこともあるし、どちらかというと、私は文章はヘタクソだと思う。中学生の頃に国語の先生に提出した作文の評価が「何が言いたいのかわからない」というものだったこともあり、あれ以来は少しは文章も上達したんだろう。曲がりなりにも地元の文芸賞で奨励賞だの佳作だのいただいたこともあるわけだから、そんなに酷い文章ってことはないだろうから。けれど、基本、子供の頃から私の書くスタイルって変わっていないとも自分では思っている。

文章が読みやすいから読んだ人が私の書いたものを理解しやすいかといったらそれは違うのだろうけれど、印象的には「読みやすい」イコール「理解しやすい」だとは思う。けれど、私の書くものって説明過多なところがあるんだよね。余計なことをいっぱい書きすぎる。シンプルに書けばいいのにそれができない。なんでもかんでも詰め込んで書いてしまうところがある。あと、だんだん話がズレてきたり、あっちゃこっちゃと飛んでしまったりして統一感もなかったりする。それはまあ、自分の思考をそのまま垂れ流しているような書き方だからなんだけど。それって他人に理解されようと思って書いているわけじゃないってことだよねえ。いや、別に理解されたくないと思ってるわけじゃないんだけど。ただ、こういう書き方が私にとっては一番自然な書き方だってことなんで。私はこういうふうに書きたいからこんなふうに書いているというに過ぎない。昔はそれでもここまでの垂れ流しってわけじゃなかったと思うから、たぶん昔に比べたら、今のこの書き方はひどく読みにくいものになってるんじゃないかなあ。文章の書き方なんてまったく考えずに書いてるから。なんか文法上のものすごいタブーも犯してる気もしないでもないし。

で、本題に入るんだけど。(笑)

書かれていることを理解することで昨日はひとつ考えたことがある。それは、就職試験で二泊した息子のメールで思ったことなんだけどね。内定をもらったというメールが昼に届き、私は「いつごろ戻るか教えて」と送った。今思うと「いつごろ戻るか」ではなく「いつごろそこを出発するのか」と送ればよかったんだなあと思うのだけどね。それへのレスはすぐには来なかった。私はそのまま仕事に出て、仕事が終わる頃、もう夕方になった頃に「今帰る」とだけのメールが来たわけだ。私は「今帰る」というのを「今から帰る」と思って「えー今から出発するのー。だったら家に着くのって何時になるんだよー」となったんだけど、実は、息子はすでにこっちについていて、駅からそのメールを送っていたのだとあとで知った。それを知らない私は「今どこにいるの?」とメール送り、息子からはその20分後くらいに「家」という一言だけのメールがきた。で、思ったんだけど、最初に息子がメールしてきた「今から帰る」の時に「今駅についた。これから学校に行ってから戻る」とでも打ってくれれば、その後の悶々とした気持ちといくつかのメールのやり取りはなかったのになあと。メールって詳しい内容って送らない傾向があるような気がする。そりゃあリアルタイムにやり取りするのならそれもいいんだろうけど、今回の場合だとだいぶタイムラグがあるんだから、少しは事情ってもんを書いてほしいよなあって思った。私は、一番最初に息子が内定もらったというときにでも、できればメールじゃなくて電話でいろいろ話したかったんだけど、息子が今どういう状況かがわからないんで電話はできないなと思ったんだよね。もしかしたら、まだ会社の人と一緒なのかもしれないし、そんなときに電話で話すってことはできないだろうからってことで。その後、すぐにレスがこなかったこともあって、やっぱまだ自由時間になったわけじゃないんだろうと思ってこっちも何もリアクションしなかったんだけど。私もその後は仕事で電話なんてできる時間ないし。でも、息子は1時過ぎにはもう特急に乗ったわけなんだから、その頃にはメール送れるはずだから、特急内からでもメール送ってくれればよかったのになーって。

「読みやすい」と「理解できる」とは違う。短文で的確な文章だからといって相手に伝わるとは限らない。読みにくそうな長文であっても、すんなりと理解できる場合もある。ちゃんと伝えたいことは、理解できるように場合によっては相手の理解度に合わせて伝達はしないといけないけれど、私がウェブで書くことは、そのほとんどが誰かに理解されたいから書いているわけじゃない。こんなふうにブログなんかで垂れ流しているものは、たぶんひとつも誰かにわかってほしいから書いてるものなんてないはず。だから私は書き続けることができる。そう思う。理解されたいと思った時、私の書く手は止まってしまうんだろう。

と、私は思っているのだけれど、さて、ここを読んだ人で、私の書く文章が「読みやすい」「いや、そうじゃない」と思うのか、それとも「理解できる」「いや、できない」と思うのか、どう思ってくれるのか、それはちょっと興味あるなあとは思うんだけど、ここで問いかけてもねえ、ライブドアブログでアンケートに答えてもらえなかった苦い経験もあるということで、問いかけるなんてことはしない。きっと、また誰も答えてはくれないんだろうから。文字でのコミュニケーションはもう諦めた。

適度に無関心、適度に関心

2009年11月19日 09:44

『なんの事件だったか忘れたけど、最高裁判事が「被告は死刑、反社会的で更正の余地無し」みたいなこと言ってたのを見て、ぼくは、ぼくも反社会的で更正の余地無しなんだけどなぁ、と思っていた。反社会的といっても、社会に対し積極的な破壊活動をするわけではなく、もっと消極的なものだ。ひとことで言えば、社会への非協力的な姿勢("反"社会的ってか"非"社会的、か)。件の被告との差は、法に反するようなことはしていないという、ただそれだけ。』どうでもいい人 - 「で、みちアキはどうするの?」より引用


みっちーは自分のことを犯罪者と同じようなもんだと言っている。そのものの言葉ではないけれど、自分も「反社会的で更正の余地無し」「社会への非協力的な姿勢」であって、ただ犯罪者と違うのは法に反することはしていないということだけだと。法を犯した犯罪者は隔離されたり(刑務所)、排除されたり(死刑)されるわけだけど、積極的に犯罪に手を染めてしまう人間はそりゃもう等価交換でなんらかの罰を与えられるのはまあしょうがないとしても、頭の中でどんなに犯罪の妄想を巡らせていたとしても、そして、法は犯してないけれど、ギリギリなところでまだ一線を越えていないというのには罰を与えられることはない。もっとも、別の形での罰を与えられているという可能性はあるんだけど、それを知るすべは私たちにはない。

私はどんな人間でも排除されるべきではないという考えを持っているけれど、それが絶対だとも思っていなくて、場合によっては「こいつは死ぬべきだな」という考えも持ってたりする。それはまあ、単純に、ある犯罪者に対して「こいつは生きることに執着している。そういった人間は死刑に臨む時に恐怖を抱いて己のしたことを反省するんじゃないか」といった感じで、その人間によってどんな罰が一番こたえるのかということを考えて刑罰を突きつけることが望ましいと思っているからだ。だから、私は、積極的に排除されるべしという考えの下で行動を起こすことはしない。どんなにその犯罪者が凶悪な犯罪を犯したとしても。排除されたくて犯罪を犯す人間もいるはずだから。刑罰っていうのは、その犯罪者がどんな刑だと一番苦痛に思うのかを決めることであってほしいと私は思っているから。そうじゃないと犯罪なんてなくならないと思っているから。もっとも、私の考えの刑罰の決め方であっても、絶対に犯罪はなくならないことは確かだ。中には等価交換を覚悟で犯罪を犯さなければならないという考えで犯罪を犯す者もいるはずだから。そういった人間にはどんな罰も抑制にはならないからね。

『基本、世の中どうなってもいいや、と思っている。ぼくが死ぬまで(それは5年先か10年か、最長でも20年内のことだろう←そのくらいで自ら死んでやろうと思っているので)保ってくれればいい、と思う。あとのことはしらない(悪くなれとも良くなれとも思わず、ただ関心がない)。このあと誰かと暮らす気もないし子供を作る気もない。ひとりで出かけひとりで遊び、くだらないニュースに笑い、自殺者増加のニュースに胸をときめかす。』どうでもいい人 - 「で、みちアキはどうするの?」より引用


無関心が一番悪いということも聞く。それだから犯罪が増えるとも。それはそうかもしれない。無関心だから誰かが何かの悪いことをしていても自分には関係ないねと見過ごすことによって、犯罪が増大してしまうこともありうるだろう。そして、実際に無関心な人間が増えてきているとは私も感じる。まあそれだけでなく、自分にまで被害が及ぶことを恐れて、どうしても無関心を装わなければならないっていうのもあるだろう。それは電車内で痴漢されている女性を知っていてとめられない人がいたということからも思ったことなんだけど。昔は近所の怖いおじさんおばさんが悪いことをしている子供を叱ったり、悪いことをしようとしている人をとがめたりして未然に防ぐっていうことがよくあったと聞くけれど、それって今でもまったくないというわけじゃないとも思う。ただ、そういったうるさいおばさんやおじさんよりももっと増えてしまったのが無関心な人、あるいは保身のために行動を起こせなくなった人ってことなんじゃないかと。というか、無関心って犯罪を犯す側も無関心だから問題なのかなあとも思った。つまり、人が見ているのを知っていても悪いことを堂々としてしまうっていうのも無関心が関係してるとも言えるから。たぶん、昔の犯罪者って自分が悪いことをしているのを何とか人に知られまいとして隠して犯罪を犯す犯罪者がほとんどで、今の犯罪者は誰が見ていようとも周囲に無関心でいられればどんなことでもやってのける犯罪者が今は増えてるような気がするんだよね。それもまた無関心のなせることなんじゃないかと思うわけ。こう考えると無関心って罪なことだよなあと思える。なんか今思い出したけど、生前、梓さんが更新日記でこういった世間の無関心さについて書いていたような気がする。それはよくないというようなことを。もう彼女の日記で確認取ることはできないんだけどね。無関心は時として罪になる。けれど、人々は無関心で自らを守ってもいる。それは私も感じていることだから。私にも無関心から一歩を踏み出すのにはなかなかに勇気がいることだよなあとは思ってもいたりする。

『そしてぼくは、美味しいコーヒーやお酒を飲んだり、美味しいものを食べつつ本を読むという、それだけのことがほんとうに楽しくて幸福で、自分のことと世界のことが大好きで、生まれてきてよかったなーといつも思う。ありがとう、と言う。で、他の人ってどうなんだろうなー、とちょっとだけ思うんだった。(この人はまぁだいじょうぶそうだな!って人もいっぱいいるけれど)』どうでもいい人 - 「で、みちアキはどうするの?」より引用


私もどちらかというと、みっちーのように反社会的なところがないこともない。たとえば地域の自治会、学校のPTA、会社での人間関係などといったものの重要性を頭ではわかってはいても、自分は積極的にそれらをやっていこうという気持ちはない。自分のやりたいことを邪魔されたくないと思っているから。そのやりたいことっていうのは私にとっての生きがいであるから、それを脅かすものから逃れたいと思っているからだ。それは身勝手なことだとわかってはいても、そうじゃないと自分は何をしでかすかわかからない、へたすりゃ犯罪者になってしまう可能性だってあると思うからだ。もっとも、そう思うだけで、きっと犯罪なんて犯さないという気持ちも持ってたりする。すべてはその時になってみないとわからないからねえ。断定はできないよ。ただ、犯罪さえ犯さなければ、自分が楽しく生きるために少しばかりの無関心を装っても悪いことじゃないと思う。無関心自体は悪ではない。それを行使する人間によって悪にもなるし良いものになるとしたら、良いものとして無関心を使いたいと思うのが道理。ただ、私の正直な気持ちとしては、無関心にはあまりいい印象は持っていないようだ。だって、無関心とは程遠いガクトさんのような人に魅力を感じるから。でも、考えようによっては、無関心な生き方ではないけれど、ガクトさんもまた将来のことよりも「今現在」を一生懸命生きるという人でもあるだよなあ。これって「今」以外は無関心とも取れるよねえ。

つまり、あれかな。やっぱ両極端はダメってことかな。適度に無関心、適度に関心を持つ。それが一番上手な生き方なのかなあって。ただ、これって適当に生きるってことじゃなく、考え方や生き方を臨機応変にするってことだよね。まあ、グダグダとなんかいろいろ書いたけど、一番言いたいのは、私も自分が好きで、世界が好きで、ガクトさんが好きで、みっちーも好きで、だから、今は楽しく生きてるよ、たとえまたあのつらい日々がきたとしても、自分が好きなこと世界が好きなことを、楽しいことをまたやりたいと思えれば、きっと生きていけるし(でも、正直な気持ち、やっぱつらいのはもうイヤだ)、ほんと生まれてきてよかったなーと、この世に生み出してくれた母に感謝できるなーってこと。私だって一時は母に対して「なんで産んだんだよ」って、つらい思いにとらわれていたときに思ってたけど、ちょっとだけ意識を変えることで、楽しく生きられるんだと思えるようになった。それは私が変わろうとして変わったというものでもないけれど、数少ない経験と人々の想いに触れたことで獲得した変化だったんだよね。それは少しの関心だけで手にできるものなんだ。だから、私は今幸せだよ。少し前まで不幸だったけど、今は幸せ。他の人もそうなれればいいなあと、本当に心からそう思った。

世界中が許してくれる存在

2009年11月18日 21:02

『世界中ぜんぶが生きることを許してくれてるんだってね─』


この言葉は引き続き読んだ紫堂恭子さんの「グラン・ローヴァ物語」の4巻に出てくる言葉だ。人間は愚かであり、これからもずっと愚かであり続けることに絶望した者が、こんな自分など生きている価値もない、自分一人が死ぬことで世界が救われるのなら自分はいなくなってしまったほうがいいのではないかという言葉に対して、どんな馬の骨であっても生きたっていいと賢者は言う。その理由に、人間に食べられる存在である魚や鳥は人間を恨んではいない。それはいい人間だろうが悪い人間だろうが関係なしに食べるのを許してくれているのだからだと。すなわち、それが世界に許されたからということなんだそうだ。それがどんな人間であろうとも、と。そういう考えは私も好きだ。人が生きているのは世界が生きることを許してくれているからっていうのは。ただ、この考えは一方的であって、本当に魚や鳥や動物が私たちに食べられることを許してくれているのかは断定はできないよなあとは思う。もし、人間と同じような思考能力を持っていて、話せたりしたとしたら、彼らはどう言うのか、なんていうのも想像しちゃうこともできるからねえ。けれど、彼らに人間のような思考があるのかどうか、それはわからないんで、食べさせてくれていると思うしかない。あと、世界が私たちに生きることを許してくれているから、だから生き続けているんだっていうのも、裏を返せば、人間が滅びることがあれば、それは世界が私たちの生を許さなくなったからだとも言えるわけで。だから、どんなに環境破壊を食い止めようとしても、それが止まらずに私たちはいずれ滅びる。世界が許してくれなくなったから、だから人々は環境破壊へと突っ走っていくんじゃないかと。でも、ここでもうひとつ、環境破壊のせいで人間や動植物が生きていけない世界になったとしても、突然変異でその破壊されてしまった世界でも生きていける生物に進化していくということもないわけじゃない。それもひとつの「世界に許された」ということでもあるよなあって。

つまり、何が言いたいかというと、結局は生きているというそのことがどんな形であれ、生きてることこそが、何かから許されているのだということなんだ。許されたから生きている。許されなかったらそもそも存在しないし、死んでいくんだろうなって。まあ、いずれは人間は死ぬ。一人一人は。一人一人の生きることを許された期間はごく短い。だから、せめてその短い時間だけは、生きるべきか死ぬべきかなんてくだらないことなんて考えずに、今この瞬間を一生懸命生きるべきなんだ。そうは思わない?私はそう思ったから、今を楽しく生きようってなったんだよ。確かに、時には辛くてしょうがない時もある。そんな時は全てを呪う私になってしまう。死にたいって思うこともある。けど、それはその時を何とか生き抜くための方法なんだろうって今は思う。またいつか楽しく生きていくための。だから、そんなマイナスなときはとことんマイナスに生きて、ギリギリ死なないようにする。いつかまた楽しく生きていけることを夢見て。それが人間っていうものなのかもしれない。人間が今ここに存在しているそのことこそが許されているということなんじゃないかなあ。許されているから存在しているんだって。だからもう何も考えずに生きる。それが一番自然な生き方なのだろう。って、私はそう思ったよ。

プライドはなくしちゃダメなんだ

2009年11月16日 10:05

「2009-11-14 - ReLife」

こんなふうに私の書いたものをまともに取り上げてなんか書いてくれる人って最近いないなあ。

たくさんというのが人によって規模が違いすぎるけど、ここだと更新すると35pv/dくらい、更新しないと15pv/dくらいか。おれはこれをたくさんだとおもう。


なるほど、それだけのアンテナ登録数でもそれくらいなんだな。私のgooのブログはアンテナ数だとかRSS購読だとかほとんどないのに、それでも更新しなくても40pvくらいある。最近では数ヶ月に一度、ヘタすりゃ半年一年に一度という更新だけど、更新されると70くらいにはなる。まあ、書いているものが検索で来る人ばかりになってしまうようなキーワードで書いているから、それでいうと少なすぎるアクセスではあるんだけどねえ。でも、今私の持っている複数のブログの中ではダントツに多いんじゃないかと思う。

ノイズのブログとか他のブログでもアクセス解析はつけているのだけど(gooにはついていない)アクセス解析で見てみると私のブログのほとんどはキーワードでのアクセスが一番多い。単純に私の書くものに興味があってアクセスしてくる人は一人か二人くらいだろう。それについて私はどう思っているのか。そりゃ多くの人に好かれて読まれたいとは思わないわけじゃないけれど、そのために読まれるものを書くということはできない人でもあるんで、一人いるだけでも良しと思うようにしないといけないんだろうな。なかなか難しいんだけど。私は自己顕示欲が強烈に強いから。読ませるものが書けない私にとって自己顕示欲なんてものは害のあるものでしかないんだけどねえ。それをバネにして読ませるものを書くようにできる人であったならいいんだけど、残念ながらは私は人一倍努力の嫌いな人なもんで。

ここで書き出してしばらく経った頃は、ここもコメント欄を解放していて、何人かの人と有意義な会話をしてたりしていた。今ではもう話しかけることすらできない人とかもいたし。たぶん、私のバカなところに嫌気がさしてしまったんだろうなあとは思っている。高校生時代の日記なんかを読み返してて思ったんだけど、そういったところはまったく変わってないなあと思う。こっちが気にせずにいたら相手との仲もいい感じで関係持てたりするんだけど、いざこっちが相手のことを気にしだすととたんにぎくしゃくしてしまって、結局はぶち壊れてしまうっていう、そんな人間関係クラッシャーなところなんか、ああ、確かに私はクラッシャーなんだなあって。私の気持ちの問題なんだよね。何にも気にせずに話しかければいいのに、相手のちょっとした言葉の端々で「ああ、機嫌を損ねてしまった」とか「嫌われてるみたいだ」とか思い込んでしまって、萎縮してしまってもう話せなくなる。そして離れてしまう。相手にとっては何が起きたのかわからないことだろう。結果、こんなめんどくさい奴とは付き合えないとなっていくんじゃないかな。そういうことがずっと30年続いてしまうと、私はもう誰とも付き合わないほうが双方のためにいいんじゃないかと思ってしまうことは必然。カラを破るには、もうね、硬すぎてダメかもしんない。ダメかもしんない…か。それってもう終わってると同じようなことだよね。いやー私なんかはもう年だからそれはそうかもしれないんだけど、あるとないとっちはまだまだでしょ。私の息子と言っても過言じゃないくらいの子にそんなふうに言われたら、おばちゃんどうしていいかわかんないよ!(笑)

若いうちはみっともなくていいんだと思う。というか、私なんてこの年になってもまだみっともない醜態晒してるからねえ。だけど、プライド持つことはそんなに悪いことじゃないよ。プライドはなくしちゃダメだ。私はそう思う。今のキミを必要としている人は必ずいる。少なくとも私はキミの書くものは好きで読んでいるわけだから、私はキミを必要としている。それだけは忘れないでほしいな。もっとたくさんそういった声がほしいと言われたらどうしようもないけれど。それでも、一人でもここにキミの書くものを必要としている人がいるんだから、それは誇りに思ってもいい。とはいえ、私みたいなおばちゃんに言われても誇りとは思えないかもしれないんだけどさー。

消さないで

2009年11月15日 22:56

『 全部消してアカウントも削除して、カミングアウトではないけど、すっぱりやっちゃおうと思う。セッションハイジャックされて消された事にして、消えよう。そしてまた絡もう。酒と音楽ってのは絡むのにいいね。ああああああああああああ、あと淫欲に溺れれればさいこーだ』「さて、一周忌に伴って。 - _」より引用、というより転載?(笑)


私の別キャラを誰も気づいてくれないのと同様、私も他人の別キャラを気づくことはない。だから、彼がどんなに同じような文章で同じようなことを書いていたとしても、再び、この文章を書いていた人を見つけ出すことはないだろう。たとえ、そうとは知らず、この人が新しいアカウントで書いていたのを再び読み出したとしても、自分は誰某でしたとはっきりと書かない限りは私は気づかず読んでいるはず。ああ、彼は今頃どこで書いてるのだろうなあとその本人の書いたものを読みつつ懐かしむだろうな。

私が今それと同じようなことを誰かに思わせていることを私もまた同じように思う。それは罰なのか。罰なのだろう。

ノイズの場所を何度も削除して消してしまおうと思った。そして、去年の暮れにいよいよ私はここを二度と更新するものかと思ったものだった。でも、削除だけは決してしないと、ノイズの前身であるぐれあむペンギンブログをえっけんさん絡みで脊髄反射的に削除して後悔してからは、ノイズ以外でも私は削除はしてこなかった。まあ、例外的に一度だけドリコムを削除はしたけど(あ、それとのなびーアカウントのはてダもだ。でもあれはアカウントは削除してないし、ログは日記のほうに纏め上げたから、厳密に言うと削除したわけじゃないんだけど)、それも後悔したんで再びドリコムで新アカウントを取って同じような内容のものを書き始めたんだけど。だけど、そのドリコムももう終わる。私が残したいと思ってもそれは叶わない。もうドリコムで書くことはない。

更新停止してしまった他のブログでも、本当に二度と更新していない場所もあるけど、ここのようにたまに更新してしまう場所もいくつかある。その違いは何なのかと考えてみた。ガクトさんに「ブログはもう書かない」とメールで宣言したこともあるんだけど、ガクトさんが本当にそれを読んだかどうかもわかりゃしない。もし、本当に読んでくれてたとしても、結局は私は書きたいと思ったら書いてしまうろくでなしなんだから。だから私はまたしてもここでこんなふうに書いているわけで。たぶん、また更新してしまうっていうことは、まだノイズで書きたいことが終わってないってことなんだろうな。他のあの場所とか、その場所とか、といったところはもう書きたいと思うものがなくなったということなんだろう。それとも、ノイズで書くのが一番自然体で書きやすいのかもしれないし。やっぱ、なんだかんだいっても一番ログが多いのはここだもんなあ。一番自分らしい場所であるエッセイブログでさえも更新はなかなか難しい。自分らしいはずなのに。やっぱ書きやすい文章って偉大だよねえ。

だけど思ったんだけど。これはいろいろとキャラを使い分けて文章を書いてきた自分の正直な疑問として、前にも何度か書いたことはあったんだけど、私のこのキャラの文章を読んだ人が他のキャラで書いていたあの文章を読んで違和感というか、なんか違うという気持ちを抱くことが時々あって、それってどういうことなのかなあと思ったんだよね。私は何度も言うようにキャラがガラリと違っていても書いていることは同じことしか書いていない。それなのに、文章というのか文体というのかそういうのが違うだけで「なんか違う。違和感がある」と思うのってどうなんだろうって。ただ、だからといってその文章は嫌いだから読めない、読みたくないっていうのは言われたことはないんだけど、それでも言わないだけで、もしかしたら「もう読まない」となった人だってまったくいなかったわけじゃないと思う。それもあって、最近ではなかなかカミングアウトっていうのはできなくなってきている。あれを書いたのは私だと言えなくなってきている。わかる人にはわかるんだろう。けれど、わからない人は両方を購読していてもわからない人もいる。私もそうだし。てーゆーか、私の場合はもっとタチが悪い。まったくの別人なのに「この二人は同一だ」なんて思ってたりするんだから。二人が同一であるのにそれに気づかないよりも私の場合の勘違いはもっと罪なことだよなあと思う。でも、自分もそんなふうにキャラの違う一見別人としてブログを書き分けたりしてるんだから、そりゃもうそう思ってしまうのはしょうがないんじゃないかな。ひとつのキャラで書き続ける人とは違う思考回路になって疑心暗鬼になってしまうのはしかたないことかなあってね。つまり、似たような二人を「同一だ」という目で見てしまう人は、私のように二つ以上のキャラでいろいろ書いているということなんじゃないかと。もちろん、それが真実というものでもない。そんなことしてなくても、誰かと誰かは同一なんじゃないかと思ってしまうこともあるだろうし。まあ、いろいろグダグダと書いたわけだけど、結局は私は誰かと誰かが本当は同じ人であったとしても気づかないに違いないということ。そして、私は読みたいものを読む人ではあるけれど、それはやっぱり「その人が書いた」というのが一番重要だと思っていて、「その人が書いた」というものが読めなくなるのはひどく淋しく思ってしまう人なんだということ。て、あら、そうなると、私が別のキャラで書いていたものがもう更新されなくて、それが読めなくなると知った人が、たとえ、あれを書いた私はあのキャラで書くことはなくても、ここでノイズとして書いてるからこっちで読んでと言っても、それはイヤだ、あっちのあなたの書いたものがいいんだと言われてしまうことと同じことなのかな…いや、違うか。私の場合は、あれを書いていたのは自分だけど、こっちで書き出したのでこっちを読んでくださいと言われるのは嬉しい人だからなあ…つまり、書いている人で私はやっぱり読んでいるってことなんだな。うん。

ええと、何が言いたいのかというと、消えてほしくないってことなんだよね。そのアカウントでこれからも書いてほしいってことなんだよね。あれから書き込みしなかったけれど、ずっと見てた。更新されれば読みにいってた。ネットに繋いだら一度は必ずアクセスしてた。もし削除されたらそういったことももうできなくなるってことが淋しい。けれど、それを強制することはできないんで、できれば削除したとして、またどこかで書き出したとしたら、「あそこで書いていた誰某です。ここでまた書き出しました」と知らせてくれたらこの上なく嬉しいと思うだろう。けれど、それはほとんどの場合が無理なこと。削除したいと思うのは、だいたいがそこで繋がりを持った人との縁を切りたいと思うことが発端となることが多いと思うから、わざわざ新しい場所を教えてくれるっていうこともあまりないだろうしねえ。ということで、私はこれからも心に残ったものはこんなふうに引用だの転載だのして公開で残していこうと思う。相手がどんなにそれを嫌がったとしても。まあ、直接言ってくれば残しはしないけれど。今までにもそれで削除した記事はあったし。けど、ローカルでは残してるんだけどさ。

でも、それでも乞うしかない。消さないでって。

時にはのめり込み時には程々に

2009年11月11日 20:42

ついったーでこんなポストを見た。

『ネットゲームと人生について。この文章好きだな。僕じゃ書けない。』

そこにはってあったリンクがこの記事。→「ネットゲームを辞めた - コトバにしよう」

私はネットゲームはしたことがない。リアルでアンジェとかミストとかそういった感じのゲームに一時期はまったことはあった。それは仕事を辞めた1997年の頃。仕事を辞めたことで好きに使える時間ができ、小説の執筆とゲームとで一日中そればっかりだった。朝、旦那が仕事に出てから洗濯や掃除などしつつゲーム、お昼ご飯かっ込んですぐにゲーム、息子を保育所に迎えに行くまでゲーム、とにかく昼間のほとんどをゲーム三昧。さすがに旦那が仕事から戻ってきた後はやってなかったと思う。たぶん。そこらへん実はよく覚えていない。あの頃の私はゲームしている時の記憶はよく覚えているけど、それ以外はあまりよく覚えていないんだよね。仕事を辞めるちょっと前までは少し私もおかしくなっていて、一度駅のホームから飛び込んでしまいそうになったくらい仕事でノイローゼになってしまったことがあったから。それは何とか立ち直ってしばらくは仕事も慣れたようで、死んでしまいたいと思うほど追い詰められることはなかった。でも、やはり時々やりたくない仕事があったりすると精神的に不安定になってしまうことはあって、このままではいつか辞めてしまわないと本当に私は死んでしまうかもしれないという危機感は抱いていた。だから、やっと仕事を辞められて、私は有頂天になってゲームや執筆におぼれていたと思う。まるでそうすることで自身を癒すかのごとく。だからなのかな、今はまったくゲームには興味がない。それに、私は、どうもそういったゲームに向かない性格でもあるみたいで、他にはまるものができたからゲームにも興味なくしてしまったんだろうと思う。今はアンジェとか好きだったゲームでさえもやりたいとも思わなくなってしまった。だから、ネットでゲームにはまることはなかった。ただ、私は別のことでネットではまったことがある。それが書くこと。掲示板で書きたいことを書いては誰かに反応もらって、それに対してまた自分の考えなどを書いては会話することにはまった。チャットにははまったことはない。リアルタイムでやり取りする能力は私にはなかったんで、掲示板でのタイムラグのあるやり取りやメールでのやり取りにはまったものだった。ただ、まだネットを始めた初期の頃は常時接続環境じゃなかったんで、それほどはまりこんでいたということはなかった。

そのうち常時接続環境になったこともあり、今度は自分のサイト作りにはまって夢中になった。同時にサイトで日記を書くことにも夢中になり、毎日長文な日記を書くようになった。どこかのランキングでかなりの上位になったこともあって、自分の書くものはおもしろいんだと天狗になった。その頃は特に梓さんの日記を毎日のように取り上げて書いてたから、たぶん、その関係でヲチされてたんだろうと思う。だから、ランキングで上位になったのも痛い人という目で見られていたんだろうな。そのことに気づいたのが、梓さんの日記がもとで炎上した時だった。2ちゃんのスレで私のことが書かれているとある人から聞いて覗きにいって、そこに書かれていたことを見て初めて自分が痛いことを書いている人としてヲチされていたんだと知ったから。ただ、その時は頭に血が上ったけれど、あとでよく考えてみたら、ヲチされることは本当は不快だとは思ってないと気づいた。突付かれない限りは好きなように見てもらって自分たちの領分で好きに叩けばいいと思ったから。私も好きに書くから。互いに互いの場所で好きに書けばいいじゃんって。だからなんだろう。炎上して一時期はいろいろ書くのにためらいが出たけれど、結局はまた書き出した。

次の舞台がライコス。そこで再び書き出した。今度は以前に比べてもっと大量な文章を書いていた。複数アカウントでキャラを演じ分けて書き続けた。そのキャラごとに繋がりを作っては交流していった。その頃はもうワヤだったな。それ以前は昼間は誰もかれも学校や仕事で相手してもらうってことはできなかったけれど、ライコスでは主婦もたくさんいたし、若い人でも学校や会社でもネットのできる環境だったこともあり、四六時中相手をしてもらえたこともあり、私はそのネタとして日記を大量に放出していた。普通の日記、過去の日記、ポエマーな日記と一日何十ものエントリを上げてはそれについて読んでくれた相手と会話したり、私もまた相手の日記を読んでは語ったり会話したりと、とにかく一日のほとんどをネットにかじりついてたな。というか、その頃から少しづつリアルでの生活が崩れ始めていて、それから逃れたい一心でネットで何か書くことにのめりこんでいたんだと思う。それがしばらく続いた。再び仕事に出るまで。その狂気めいたネット依存症は2005年まで続いたな。

結局、私を依存から救ったのはリアルでの平穏だったんだと思う。2002年の春に酷く体調を崩して胃カメラを飲むはめになった頃、確かにネットでの友人たちの存在も私を救ってくれはしたけれど、どんなに彼らが心配してくれても、最終的に私を病院に向かわせたのは旦那の抱擁だった。そして、「早く元気になってね」と手紙を書いてくれたまだ小学生だった息子だった。ネットで何か書くことは確かに私の精神を救ってはくれるのだけど、時にあまりにものめりこんでしまって、旦那のことも息子のことも疎かにしてしまっていたと思う。2002年当時はそれに気づいてなかった。それに気づかずにいたから、その後に起きてしまう一連のトラブルは、私の目を覚ますために起きたことでもあったのかもしれない。なんて、またしても都合のいいことを言ってるよな。たぶん、当時トラブルに巻き込まれた人がこれ見たら呆れ果てることだろう。けれど、私はそれくらいの経験をしないと気づかない大バカ野郎なんだよ。だから、私もネットというツールを全面的には否定しない。私はネットで痛い目に遭ったことで救われもしたし、何が大事なことかを気づかされたわけだから。

リンクした記事のラストに書かれていたこの言葉。

『どんなものも同じです。

使い方と程度次第で、どっちにも転ぶんです。』


本当にそうだと私も思ったよ。すべてののめり込みを否定はしないけれど(それが芸術になりうることもあるから)、確実にのめり込んではダメなものもあるって。ギャンブルとか、ね。だから、時にはのめり込み、時には程々に。それが大切なことなんだろうな。


ところで、蛇足になってしまうけれど。どんジレさんの「僕じゃ書けない」という言葉は、以前、私も他人に言われたことがある。私の書くものも誰かにとっては「自分には書けない」となるみたいだ。それはノイズに限らず、別のキャラで書いていた時にも言われた。私の場合は文章で、というよりも、書いている内容がそう思われる傾向があるらしいんだけど、確かに苦手なことは私にだって書けないことでもあるんで、私の書くものだって苦手で書けないとなることもあるかもしれない。でも、私は難しいものを書いてるわけじゃあない。だから、自分にはあなたの書くようなものは書けないなと言われて、嬉しく思う反面、自分に似た人は書けたりすることもわかってるんで、ちょっと複雑な気持ちになったりするんだよねえ。私は私だけにしか書けないものを求めているところがあるのかもしれないから。もっとも、そんなことなんてできやしない。もし書けたとしたら、私がいったい何を書いているかなんて、きっと誰一人理解する人なんていなくなってしまうんだろうな。でもまあ、考えてみたら、今だってほとんど誰も私の書いたものに言及する人はいないんだから、自分にしか書けないものを書いているようなものかもしれないけれども。と、自嘲気味。(笑)

Missing~笑顔を見せて~

2009年11月11日 15:27

怒涛の更新をしている誰かさんに触発されたということでもないんだけど、でも、たぶん、その人の書いたものを読んだからこんなバカげたものを書こうとしているのも確かではある。とはいえ、その人のせいじゃない。これは自分がそうしようと思って残しておくログである。その人に責任はない。ただ、こんなふうに書くと、その人がもし自分のことかと知ればいい気はしないだろうし、たとえその人が何にも感じなかったとしても、第三者は私を非難するだろう。他人のせいにしている、と。あるいは、他人のせいにしないのであればそんな前書きなんぞ書かずにいきなり核心を書けよ、と。ということで、こんな前置きを書いている私に不快感を抱くだろう。けれど、毎回毎回うざがられるほどに言うけれど、これが私だ。そして、自分のために書いてる所以でもある。今から書くものはたとえ言及でもなんでもないとしても、「それ」を読んだから書こうという気になったということで。もっとも、それならばちゃんと「どれ」を読んでそうなったかのタイトルとリンクをはるべきなんだろうけど、それはちょっとしないほうがいいかなあという私の中での判断でその都度決める。だから、今回はリンクはらない。それに、かなり読んだものには関係ないことを書くから。

という、いつもの前置き。

今回ひとつのリンクをはる。相手にとってはたぶん不本意なリンクだろうし、なにするんだと思われてもしかたないリンク。ただ、引用というか、その人の発言を公開することで、その人が私に抱いている私のイメージというものが、私のことをよく知らない人にとっては知っておいてもらうにはいいかもなあということで、あえてリンクをはる。私はそれくらい最低な人間なんですよというひとつの判断材料として。まあ、いわばこれも不幸自慢になりますかね。私はこれくらいしょうもないどうしようもないろくでもない人間なんですよってことで。

『小町でこんなトピ発見
「嫁が心を開いてくれません」

今はもう遠い誰かを彷彿とさせられます…。
人間関係クラッシャー、本人には自覚無し…。
やっぱり発達障害とか、機能的な問題なんですかね?
こういう方ってどうしたって直らないんだろうなぁ。
周りも本人も不幸だ。』(ここより引用)


リンクした掲示板は恐らくいつか消えてしまうだろう。それもあって、引用しておくことにした。いつもならローカルに保存しておくのだけど、今回はこんなふうに公開の場所で保存。

「今はもう遠い誰か」は私だ。間違いなく彼女は私のことを言っている。名前を書いてなくてもわかっていることだ。だって、その発言がそこで出てくる意味がわからないから。私がそこを見ていると知っていて書いているとしか思えないからだ。彼女は知っているんだから。私がそこを見ていると。見ているから私も書かれていることを発見したんだから。

私は普通の人間だ。けれど、何度も言うけど困ったチャンなところがあることは認める。けれど、大多数の人は私までとは言わなくても、私のようなところはまったくないとは言えないんじゃないかとも思っている。もし私がそんな病気があるとしたら、リアルで普通に生活していくことはできないんじゃないかと思う。引用の中でもリンクされている小町でのその人だって、問題のある性格であるだろうけれど、普通の人だと思う。大なり小なりそういった困ったところはみんな持ってるはずだし、その問題なところも、気になる人だっているだろうけれど、気にならない人だっているはずで、付き合う相手が合わなかったことによる問題でしかないと思うんだよね。ただ、家族にそういう合わない相手がいる場合確かにどちらにとっても不幸ではあるけれど、これではいかんと思ったほうが離れるしかないんじゃないかなあって。離れられてしまう人にとっては不本意で、自分は悪くないんじゃないかと思ってたら、どうしたって誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたくなる、私もそんな聞いてもらいたいタイプの人間。場所が小町じゃなかったってだけで、私もまた似たようなこういった場所で今まで書いてきた。もちろん、私に同情的な反応をしてくれる人もいたけれど、ちゃんとたしなめる人もいた。私の気持ちとしては、やっぱりたしなめられる、叩かれるっていうのは確かにつらい。けれど、それはしかたないことでもあるよなあとも思った。

ただ、本当に反省しているのなら、こんなふうに自分の気持ちを公開された場所で書くべきではないというのは、言われたくない。いや、言われたわけじゃないけれど。けれど、自分のことを書けない人だっている、とか、書ける人は同情を集めやすいのだから私のように書く人はいいよねとか、そんなようなことは聞いたことがある。でもね、書ける人が同情を集めやすいって、別にそうでもないんだよね。書けば書いただけみっともないと思われることのほうが多いし、黙ってしまった人に同情が集まるってことだってあるんだよね。私は書かなくちゃ自分の気持ちを整理できない人だった、ただ、それだけのことだったんだよ。自分の気持ちを書けない人のことなんて考えてるヒマなんてなかった。自分のことだけで手一杯で。私は自分を守ることだけしか考えられない奴なんだよ。それがイヤなら離れてよ…そりゃそれもほんとはイヤだけど。離れられてしまったら、それはそれでまた吐き出すんだろうけれど。私に好きになられてしまったことは、その人にとって不幸だったということなのか。そうは思いたくなかった。思いたくなかったけれど、確かに不幸だったんだろうな。だから、結局はそんなふうに「どうしたって直らないんだろうなぁ」と言われてしまうんだ。

でも、それでも、私は今でも彼女が好きだし、彼女が心安らかに生きていってくれることを心から祈っている。

だから、最後にここで取り上げて言葉を綴ることで、本当に最後にしようと思う。しばらくは掲示板も覗くだろうけれど、その掲示板が消えてしまったら、もう私には彼女がどこでどうしているのか知りようもないんで探すこともしないし、もう関わらないようにしたい。彼女に贈りたいと思っていたものがあったんだけど、それも諦めることにする。彼女は知らないだろうな。私がガクトさんの「Missing」を聴いて、彼女と「彼」のことを想って号泣したことなんて。どうして私が泣いてしまったのか、なんて。「Missing」の歌詞カードのバックで心持ち下を向いてタバコをふかしているガクトさんが「彼」のようだと思ったことも。

ねえ、貴女。貴女は「彼」が消えてしまったら私を許さないと言ったけれど。「彼」が消えてしまっても私を許さなくていいから、「彼」のことは許してほしい。というか、許すも許さないももしかしたら「もう関係ないし」って貴女は思うかもしれないけれど。

『君を離さない…離したくはない…』とガクトさんが歌う。
傷つけることでしか自分の存在を感じられない「彼」は、暗闇で怯えていた貴女に手を差し伸べることで、「彼」自身もまた暗闇で怯えていた自分を貴女に救われたんだよ。
けれど、「彼」は貴女から離れてしまった。
それをそう仕向けたのは私だ。
「彼」は私のせいじゃないと言ったけれど、間違いなく私のせいだ。
だから、憎むなら「彼」じゃなく、私を憎んで。
私はそれくらい酷い事を貴女にしたんだから。
離れることがそんなにも辛いことなんだと「彼」は言った。
ガクトさんが歌うように。
いつも落ち着いた言葉を紡ぐ「彼」が悲痛にそう言ったんだ。
私は胸が張り裂けそうだったよ。
辛い、辛いと血の滲むくらいに悲痛な叫びだった。
もう遅い。
気づくのが遅くてもうどうしようもなかったと。
だから、「彼」は貴女が自分ではない誰かと幸せに過ごせることを祈ってた。
本当は自分と一緒にいることで幸せにしたかったのに。
でもそれは叶わないのだと悟ったわけで。

私は貴女に「幸せに」とは言えない。言う資格はない。
だから、私のことは忘れてしまってもいいし、忘れられないのなら、徹底的に憎んでもいい。
けれど、「彼」のことだけは忘れないで。
そう願うことは無理なことだとしても、どうか「彼」のことだけは忘れないでほしい。


Missing~笑顔を見せて~

私に見せなくていいから
貴女に笑顔が戻りますように
心から祈ってる

世界最強な私

2009年11月08日 10:43

「辺境警備」を読み終わった。その6巻にこんな言葉が書かれてあった。

『闇を知らぬ人間を決して信用するでない。世の暗黒から顔を背け、心の闇を直視せぬ者には闇を乗り越えることもできぬのじゃ─』


私が正論しか言えない人や正義ばかりを声高に言い立てて正義から離れた人間を責めることしかしない人に嫌悪感を抱くのも、この世が清く正しいばかりの世界ではないのに、まるで臭いものにふたをするようなことしかせずにそれが正しいのだと、己の正しさばかりを提示することが本当に正しいことなんだろうかと思っているからだ。それは、私が自分をいい性質の人間ではないからと知っているからであり、正義しか生き残れないという考えを認めてしまったら、私は生きてはいけないのだと認めてしまうことになるからでもある。

ただ、正義を間違っているとは言いたくない。私だって多くの人が「それはどうかと思う」と言うものに嫌悪感を抱いたり、それは悪だと非難したりすることだってあるから。いい性質ではない私であっても、純粋な悪人というわけでもないからだ。純粋な悪の存在であるのなら、凶悪な犯罪に手を染めたりして、ここで普通に主婦なんてしていないだろう。まるで映画の世界のような環境で毎日ドンパチやってたりするかもしれないしね。私は、ただの困ったちゃんというだけな存在なんだから。しかも相当なチキン野郎。自分を守るためには言い訳だってその場しのぎの土下座だってなんだってやる。そういうチンケな奴なのだ。

そんな私が、正義を持って誰かを裁くだなんてできやしない。それは他の人だって同じだ。人を裁く裁判官だって本当なら誰かを裁くことなんてしちゃいけないんだと思う。けれど、社会の秩序を保つためには裁かなくちゃならないわけで、そのために公平に裁くために専門家として勉強してきて正義を行使する権利を持ったわけだから。それまでどうのこうのとは私も言えないだろうとは思っている。そうじゃないと好き勝手に悪いことをしでかす人たちが蔓延ることになるからね。

ただ、正義ばかりしかなくて、悪から目を背けて自分はそういうものとはまったく関わりない、清く正しく生きていると疑いもなく信じている人に対して、それって本当にそれでいいと思ってるの?と思うだけだ。もちろん、そう見える人だって実は心では葛藤しているのかもしれないけれど、とりあえず見た目はそんなふうにしか見えないわけだから、もう少し謙虚になって他人を糾弾するのはやめたほうがいいのになあと思わずにはいられないわけ。

たぶん、私がのうのうと生きていられるのも、そういったカオス的なところがあるからなんじゃないかなあとも思っている。悪を徹底的に否定して正義ばかり貫こうとするのも、悪だけしかなくて闇世界ばかりで生きていこうとするのもどちらも等しくこの世界では生きていくことはできないんじゃないかなあって。正義に従わず悪にも染まらないどっちつかずな人間こそが一番強かに生きていけるのかもしれないなあって、そんなふうに引用した言葉を見て思ったよ。

世界最強な剣士であるシモラーシャになりたいと願った私は、たぶんその生き方を本能的に悟っているんじゃあないのかと、だから、私はこの世で一番強くて幸せな人間なんだろうなあ。うん。そう思うとなんか元気出てきたな。ほんと単純。(笑)

正しい生き方と生きたい生き方

2009年11月07日 09:17

紫堂恭子さんの「辺境警備」を読んでいる。これで何度目だろう。蔵書の中でも何年かごとに繰り返して読み返す本があるのだけど、この「辺境警備」もそのうちの一作品。それはやはりその作品が好きだからなんだけど、それなのに好きなはずのその作品の内容をほとんど覚えていないというのも、自分でもどういうことだと思ってしまう。それだけ私はバカなのだろうかって。まあ確かにバカではあるんだけど。(笑)ある程度「こんな感じ」っていうのは覚えてはいる。けれど、細かい内容は覚えていないから、毎回初めて読むみたいに感動したりわくわくして読み進めたりするわけだ。とはいえ、まったくの初めてというわけじゃないから、所々覚えているところもあったりする。だから、本当に初めて読むというわけでもない。でも読み返すのは楽しい。そこらへんが、一度読んだものをまた読んでしまってガッカリしたという人より恵まれたところなんだろうなあ。私にはそういうまた見てしまったというガッカリ感など抱いたこともないのだから。

またしても前置きが長くなってしまった。

「辺境警備」の4巻に同時収録された物語がある。これもまた記憶に残っていなかったものだった。タイトルは「海から来た星たち」で、コミュニケーション能力抜群な少年とそうじゃない少年の二人の友情を描いた作品。作中で友達についてこんなことが書かれてあった。

『恋人のように告白してつき合うわけじゃなく、夫婦のように誓約を交わすのでもなく─名前を呼び合ったり、他愛もないことをしゃべったり─ただ、ほんの少し心を開いてくれればもう、それだけで』


心を開くだけで二人は友達になれるというのが本当ならば、私に友達ができないのもなんとなくわかるかなと思った。私は自分のことはかなりどんなことでも喋ってしまうので、心を開いていると自分でも思いがちだったのだけど、いくら自分のことをいろいろ喋っているからといっても、それはたぶん本当に心を開いているということじゃないんだろう。現に、私の場合の喋りは、こういった不特定多数の場所で文字で喋るということでもあるし、コメント欄だのを開放していないこともあり、誰かと対話をしたいというわけじゃないのだから。これは心を開いているとは言えないのじゃないかと思った。そんな相手と友達付き合いしてやろうなんて思う人も出てくるはずもない。よって、私には友達はできないし、対話を望んでないということで、私は友達を作りたいとも思っていないということなんだろう。そんな私が、友達ができないだの、誰も私を好きになってくれないだのとは言えないんじゃないだろうか。

誰も好きになってくれないというか、厳密に言うと、私の場合は誰かに好きになってもらいたいじゃなく、私が好きな人に好きになってもらいたいっていうのなんだけど、そりゃもうこんなだから、自分が好きになる人だって私のことを好きになってくれるはずもないわけだ。たぶん、子供の頃から私が好きになる人が私を好きになってくれなかったのも、私が本当は相手を好きだと思ってなかったからなんじゃないかなあ。ただ、どうなんだろう。私はやっぱりこの気持ちは好きだと思うんだよね。相手のことは気になるし、嫌われたくないとは思うし、一緒にいたいとは思うし、その人の話は聞いていたいし、その人が興味あるものだって私も興味持ちたいと思うし。それを好きということじゃないとはどうしても思えないんだよね。けれど、どうしても好きな人には好きになってもらえない。なんでだろうって理由がそこにはほしいとどうしても思ってしまうんだよね。

と、ここまで書いてて気づいたことがある。最初は「心を開いていないから」なんじゃないかと思った。私は心を開いているつもりだった。それは自分が正直に自分の考えや思いを喋っていることがそうなんだと思ってた。何も言わないよりも自分のことをいろいろ喋ることは心を開いていることなんだって。けれど、それは、本当は心を開いてたわけじゃないのかもしれない。いや、そうじゃない、そうじゃないんだ。心は開いてるんだ。むしろ開き過ぎているのかもしれない。人には受け入れられないものがある。嫌悪感を抱いてしまう考え方や嫌いな性質、そういったものが一人一人あって、それを相手が持っていると知ってしまったらどうしても友達にはなれない。そして、不幸にも、私は、私の考えや性質が嫌いなタイプの人しか好きになれなかったということ。そんな人ばかり好きになるから、どうしたって私の好きな人は私を好きになってはくれない。今まで一度だってそれを乗り越えて両思いになったことなんてなかった。とはいえ、まったくなかったということでもないのだけど、ことごとく関係は壊れていった。それはもちろん、私が悪いからなんだろうけれど。私は相手に合わせるということをしない、できない人間だから。いつでも私は相手に合わせてもらってる人間だから。そんな付き合いが長続きするわけがない。

よって、私は独りでいるしかないんだ。努力をしたくない私にはそれしか生きる道はない。

けれど、その生き方を心から受け入れているというわけでもない。だから、苛まれる。だから、愚痴ばかり書いてしまうことになる。たとえばガクトさんあたりなんかは「本気で変わりたいなら変われる」とか言うんだろうけれど、そして、私もそれは本当にそうだとは思っているし、他人に対しては「本当にそういう生き方がイヤなら変わればいいし、変われるはずだ」とは言うだろうけれど、自分のこととなるとやっぱり変われない。いやだと思うんなら独りの生き方はやめればいいのに、それができない。他人には言うくせに。それが私だ。言うことと実行が伴わない。ろくでなし。そりゃ好きになってはもらえないはずだ。好きになってもらいたいけれど、自分を変えたくない。こんなろくでなしでも好きになってほしいとだだをこねる、最低最悪な人間。でもね、私が自分を変えようとしないのにも理由があったりする。こんな私でも好きになってくれる人はいるんだよね。変わってないという人もいるだろうけれど、自分でも気がつかないところで自分はどうやら少しづつ変化してるみたいで、そういったところをちゃんと見ててくれる人はいるんだ。そういった人がいるから、私は変えようとして変わろうとは思ってない。つまり自然に変わっていくのをあるがままに受け入れているという。なんかもうほんと都合のいいことばかり言ってるような気もするんだけれど。でも、それが真実なんだと信じている。そして、この私を好きだと言ってくれるのが、私の横にいる結婚20年目の旦那、なんだよねえ。もともと旦那だって、私が好きになってというわけじゃなくて、旦那のほうが私を好きになってという経緯だからなあ。だから、やっぱり私は私が好きになる人とは一度だってうまくいったためしはないわけだ。つまり、結局は私の場合、私から好きになる人とうまくいこうなんて考えること自体が無駄なことなんだろうな。その人にはその人なりの正しい生き方っていうのがあるわけで、私の場合は、自分を好きになってくれる人だけのことを考えればいいということなんだって。それが私の正しい生き方なんだろうな。

私を好きになってくれる人、その人を大切にすれば、私はきっとこの世で一番幸せな人間になれるんだ。それはきっと間違いない。


……それでもやっぱり私は好かれることじゃなく好きになることに喜びを見出す性質でもあるんで、結局は好きな人ができては拒絶されて悶々とした日々を過ごすことになるんだろう。もうどうしようもないね。(苦笑)

本当の自信は数では獲得できない

2009年11月06日 09:56

「はてなスター好きだよ」でもリンクして引用した人がこんなことを書いていた。

ある人は「こんだけアンテナ登録も多いんだし少しは自信もってほしいな」といった。しかしあたたかい目線だと感じられるときと、ヲチとしてネタ扱いされてるだけなんじゃないかと感じられるときがある。昔は純粋に喜んだけど、今は純粋には喜べない。うれしいけど、すこしこわい。すこしこわいがふくらんでかなりこわいってなるときもある。被害妄想。


そのある人は私のことなんだろうなと思った。確かに書いてたしね。引用先の人はとある人が読んでいるブログだったということで、私も読破対象にしていたブログなんだけど、今はちょっとそれをお休みしている。だけど、更新されれば新しい記事は読んでいる。もちろん、私もこの人のブログはアンテナに登録している。プライベートにしているIDで、なんだけどね。ただ、あたたかい目線だと感じてもらえてるかどうかは微妙。私の言及の仕方は誠意がないと過去に言われたこともあって、すべての人が誠意がないと思っているわけじゃないとは思うけど、それでもこの人がどう思ってくれるかどうかはわからない。面と向かって言われたわけじゃないから。ええ、私は読解力のない人間ですからねえ。書かれていることで相手の気持ちを察するなんてことはできないもの。どちらかというと私もヲチしていると取られてもしかたない感じだし、それに間違いなくネタにさせてもらって何か書いてるわけだから。というか、私は人生すべてこれネタであるというスタンスであるから、どうしても他人のことまでもネタにしてしまうところが無きにしも非ず。小説のネタにも使ってしまうことだってあるしね。まあ、だから、確かに他人の書いたものに対しても、誠意がないと言われてしまってもそれは確かにそうですね、としか言いようがない。と、いう開き直り。

昔の私はそれなりに中傷されたりもして嫌な目に遭ったりもしたけれど、今はそれもそれだけのことをしてきたんだから当たり前だよなあという気持ちはあるし、無視されるよりはまだマシかと思えるようになったということで、多少は精神的にも強くなったんだなとは思うんだけど、どうなのかな、今はほとんど誰かに中傷されるということもなくなって、今もし酷い中傷を受けたとしても、それでも閉鎖せずに続けていられる、とは、やっぱそうなってみないと断定はできないなあとは思っている。でも、私は怖いとは言えない。というか、昔も怖いと思ったことはなかったかもしれない。すごくむかついて、不快感とか憤りとかは感じたことはあるけれど、怖いという感情だけはなかったかも。

とまあ、いつものごとく、前置きが長くなってしまったのだけど、記事を読んで思ったことはそういうことではなくて(いやまあ、そういうことも思ったわけではあるんだけど、一番言いたいことはそこじゃなくてってことなんだけど)、アンテナ登録がどんなに多くたって、それをどう思うかはその登録されている人であるんだよなあって気づいたってこと。たぶん、私のブログが何百何千と登録されたとしても、それが自信に繋がることはないなーって思ったから。数を気にするってことは、いくら数が増えたって満足に果てはない。本当の自信っていうものは、数なんて気にしないところにしかないんだって。自信持ってる人ははなから数なんて気にしないんじゃないかって思ったんだよね。だから、いくら多くの人に読まれたからって、たぶん私は満足しないんだろうな。ただ、そういった多くに登録されるとかブクマされるとかっていう経験がないから、そうなった時に自分はどう思うのか経験はしてみたいなあとは思う。無理だとは思うけど。本物の釣り師はアクセス数を稼ぐためにどんなものでも書くんだろうけれど、私は書きたいと思うものしか書きたくないし、ブクマ稼ぎのために自分が書きたいと思えないものは書きたくない、というか書けない。そんなことをしたら自己嫌悪に陥ってもう二度とネットで何か書くということはないだろうなあ。私はいつでも「書きたい」ということしか書かないから。キャラを演じて別人として書いていても、私は私だし、書きたくないものは書いたことはない。それは小説でも同じこと。読者が要求するものじゃなく、自分が読みたいものしか書いたことはない。たまにリクエストされて書いたこともあるけれど、それはたまたま相手の提示したテーマが私の書きたいという気持ちに火をつけただけなんだよね。だからプロ作家としてはやってけないんだろうな。梓さんはそういった書きたいものしか書かない作家だったけど、彼女の場合は驚異的な文章能力があったからこそやっていけたのであって、文章の才能のない私にはできないことだもの。

思ったんだけど、私は自分がどういった状況だと一番の幸せなんだろうかって。私は自分が書きたいと思うもの、それが日記でもエッセイでも詩でも散文でも小説でも何でもいい、そういった書きたいと思うものを思う存分書くことが幸せだと思っていたし、今でもそう思っている。けれど、そのためには、私は現実での自分が追い詰められて不幸でないと書けないんだと知ってしまった。それが本当の幸せなんだろうかって今は思っている。怒涛のように書きたい。書きたいと思うものを実際に文字で表現したい。そう思ってはいるけれど、現実でつらい思いをするのはもうごめんだとも。だから、私は願った。もう書けなくなってもいい。書けなくなってもいいから、現実で平穏に平凡に何の問題もなく静かに暮らしたい。病気になって痛い思いもせずに、人間関係とか仕事関係で辛い思いもせずに、残りの人生をポカポカあったかい陽だまりで、旦那さんと一緒に静かに暮らしていけるのなら、何も書けなくなってもいいって。それのせいじゃないとは思うんだけど、ほんと最近ではあまりいろいろと書けなくなった。小説に対するモチベーションもそんなになくなったし、日記とかブログとかで書くのも昔ほど多くは書いていない。それでもまったく書けないわけじゃなく、こんなふうに時々吐き出すように書くこともあるけれど。ただ、昔ほどのものは書いてないから、少し物足りなくはあるんだけど。けれど、今が本当は一番いい状態なのかもしれない。現実でも追い詰められることもなく、書き物でもまったく書けない状態じゃなく少しは書けているわけだし。こういったほどほどの状態が一番幸せってことなのかもしれないなあと、ちょっと暖かくなった晩秋の午前、仕事に出る前にそんなことを思ったよ。今日はいっぱい書いたね。書かせてくれた人に感謝。今「ネタに使ってごめんなさい」って付け加えようとしたけど、本当はそんなこと思ってないと気づいたから、やめといた。これだから、私の取り上げ方は誠意がないと言われるんだな。やっぱ私って最低だ。でも、これが私なんだよな。それでいいと思ってるんだよな。そして、そんな自分が私は好きなんだよな。

というか、ほんと私って一言多いんだよね。「そんなことを思ったよ」でやめとけばいいのにねえ。余計なことまで書いてるし。ま、それが私という人間の本質だってことだよ、うん。(笑)

私の笑顔のために

2009年11月04日 09:53

なにも言わない誰かわからないあなたが読んでくださるだけで嬉しいです。
このわかりにくい、へたっちょな文を読んでくださる方が凄いのです。
だから闇雲な信頼と無尽蔵な感謝を贈ることしかできないのです。(「せつめいがたりない - のきにっき」より引用


私の場合、何も言わない誰かわからない相手に書いているわけじゃない。そのほとんどがある特定の誰かに向けて書かれているものであり、それ以外は自分自身に向けて書いたものだ。それでも、私の書くものは上手な文章とは言えない。この人の書くものには到底到達しない。それはたぶん書いている人の問題なんだろう。私には持てない「無闇な信頼と無尽蔵な感謝」を誰かわからない誰かに向かって贈ることのできる人だから、この人は。そして、私はそうじゃないから。そりゃもう誰にも見向きもされないのはしかたない。しょうがないよ。ほんとに。

それでも私は振り向いてほしい。その人に。私が心に抱いているその人に。それも私の書くことのひとつの理由でもある。その人に届いたと確信した時、やっと私は安心してにっこり笑える。そのために書いている。私は私自身を笑顔にするために。



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