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両方欲しいが正解かもね

2009年12月24日 10:39

『多くの人間は「金よりも自由を選ぶ」と答える・・・

本当にそうですか?


いくら自由があっても金がなければ何も始まらないですよ?

金があれば自由は手に入れること出来ますよ?



金を得る力の無いやつに限って「金より何某」って・・・良く言います・・・お前ら・・・生きていて楽しいか?』(「黒と白のブルース」より)


いつものごとく引用というより転載。でも、たーしゃんなら許してくれると確信犯的にやっちまうわたしくし。わはは。

ところで、彼は以前、私に「普通の生活で幸せを感じる?」と聞いてきたことがある。この時の話題、以前にも書いたかもしれないんで、また同じようなこと書くかもしれない。でも、なんかまた書きたいと思ったんで書いてみるね。

彼は私よりもお金を持っていてそれを自由に使える立場だ。お金で不自由をするということもないだろう。けれど、それで幸せを感じているかといったらそうじゃないみたい。でもね、たぶん普通の生活をしたって彼は幸せだとは感じないだろうし、結局はまた普通の暮らしではなくお金のある普通とは違った暮らしに戻っていった…ようだ。

いくら自由があっても金がなければ何も始まらない──

それは確かにそうだ。私だってお金がなければ不幸だと思っている。現に私はそのお金で一時期はかなりの窮地に追い込まれたことがあるから。今のこの平穏が手に入ったのも、私が仕事を始め、そして旦那が正社員になったことで少しお金にゆとりが出来たからに他ならない。もちろん、たーしゃんみたいにたくさんのお金を持っているわけじゃない。けれど、私や旦那は金はないに越したことはないが、ありすぎると不幸のもとだと思っているところがあるんで、3億を夢見て宝くじを買っていても、それが本当に当たるとは思っていない。ただ、老後の貯蓄が少しできるくらいの資金が当たればいいなあという気持ちで毎回宝くじを買っているに過ぎない。できれば、ローンなしで家を買えるくらいはほしいよなあってね。それ以上は望まない。

私が目指していることはただ平穏に平凡に暮らしていくことだけだもの。

それにしても、お金よりも自由を選ぶかどうかって。それはちょっとおかしな質問だなあと思った。確かにお金があれば自由は手に入る。けれど、人によってはお金があっても自由だとは思わない人もいるし、自由が本当にいいことなのかというのも人それぞれで、自由なんかいい、私は何かに縛られていたいという人間もいるはずだから。やっぱすべては心しだい。自分が何が必要か、自分はどうあれば幸せかによって違ってくる。というか、たぶん、ガクトさんなら「両方」って答えるだろうなあなんて思ったよ。というか、「お金」「自由」ではなく、他の何かを選ぶかも。たとえば「家族」とか「友達」とか「仕事」とか。金の斧か銀の斧かどちらを選ぶと聞かれて「お前がほしい」と、その両方の斧を持った美女に答えるガクトさんだからねえ。(笑)

選択肢は限りなくある。「お金」も「自由」もその一つに過ぎない。

たーしゃん?あなたはそれだけしかないの?他に選ぶものはない?それだと「淋しい人だね」なんて言われかねないよ?

なーんて、いじわるなことを久々に言うてみるわたくしなのでした。ちゃんちゃん。(W
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読みたいって思ってくれる?

2009年12月22日 08:12

私のブログ、ノイズなツブヤキはアンテナ登録が7だ。私自身も登録しているので、登録してくれている他人は6人。そのうちの一人はアンテナを公開してくれている。まあ、そのアンテナから飛んできているわけではないみたいだけどね。はてなのRSSリーダーにも私は自分のブログを入れている。そちらは非公開の数字はわからない。こちらも一人公開してくれている人がいる。もちろん、そこから飛んできている形跡はなし。ただ、今回下書きにしていた記事を公開してしばらく経つも、RSSリーダーはまったく反応していない。他の人たちの記事は反応しているのに私のだけは反応していないので、何かブログに問題があるのかもしれないなあと思っていた。そこで、私はライブドアのRSSリーダーにも登録していたので、最近はまったくログインしていなかったリーダーにログインしてみたら、こちらはちゃんと反応していた。で、気が付いたのだけど、ライブドアリーダーは登録している人の数がわかるようになっていた。登録人数は7人。こっちも7人なのかー。そのうち一人は私で一人は公開してくれていた。つまり、5人が非公開でライブドアリーダー経由で私のブログを読んでくれているということだ。それが誰であるかは一人はご本人さんが以前教えてくれていたんで、まだその人が登録してくれているとしたら三人目はその人だし、あと、RSSを全文配信にしてくれとご自分の記事内で書いていた人も、どのRSSリーダーで読んでいるかはわからないのでライブドアじゃないかもしれないけれど、知りようがないのでその人も仮にライブドアリーダーに登録してくれているとして(まだ読んでくれているかどうかはそれも自信はないけどね)その人が四人目。あと一人は…ああ、もしかしたらという人があと一人いたな。そんな感じで、ほんと定期的か不定期的か、それでも私が書いているということで読んでくれているようだと思える人が6人くらいはいるということだ。もっとも、アクセス解析を見る限りでは私が満足できるような結果は見えてはこないのだけど。多いことが満足というわけじゃない。読んでもらいたい人に読まれていないようだということが私を苦しめているのだ。これはもうどうしようもない。私は私が読んでほしいと思っている人に読んでもらいたいからだ。しかも、それは私からお願いして、ではなく、相手が自発的に読んでくれることが望みなのだから、その人に「読んでください」とは言えない。ほんとわがままだよな、私って奴はね。それもあって書くことのモチベーションは下がる一方。私はわがままな人間だ。私以上にわがままな奴はいないと思うほどに。

とはいえ、最近のモチベーションが下がっている理由はそれだけじゃないんだけど。というか、それは理由にはならないんじゃないかとまで思い始めている。書いている最中に、その書くという行為があまり楽しいとは思えなくなっているのだ。それが原因かなとも思うようになった。楽しい基本は「書きたい」と思えるものを好き勝手に書いていること。そして、書いたものを自分で読み返すこと。それが楽しい。書くことの楽しさと読み返す楽しさは同じ気持ちだ。ただ、どんな書かれ方をしたとしても、読み返すことは楽しい。楽しく飛ばして書いて書き上がったものも、苦しんで苦しんで書き上がったものも、そのどちらも私は読み返すことは楽しい。でも、今は書く行為が楽しめていない。それもあって、なかなか書く行為ができていない。それができないということは書きたいことがないということなのかなとも思ったのだけど、それは違うと思う。書きたいことが今はないわけじゃない。書きたいことはある。ただ、それを文字として書き出す気力が出ない。突き上げる何かが足りない。それはまあ感情の迸りであるから、怒りであったり、嬉しさであったり、悲しさであったりするんだけど、そういった強い感情が今はないから、ともいえる。その感情が芽生えるのは、やはり他者との関わりから出てくるものだ。それが今の私には足りないんだろう。でも、こんなふうにしてしまったのは自分自身。それこそ自業自得。かつて私は、誰が読んでなかろうが、誰が読んでいようが、私は書きたいんだと豪語していた。だけど、気づいてしまった。私には誰かが必要なんだって。そして、その誰かは私の考える「その人(達)」じゃないとダメなんだって。けれど、感じられない。どうしても感じることはできない。

今でも誰かは強く強く私の書くものを「読みたい」と思ってくれているだろうか。それがどうしても感じられない。

そんなふうなネガティヴな気持ちに囚われるとき、どうしてもあの時代を思い出してしまう。ライコス時代を。あの頃は本当に憑かれたように書き続けていた。一日中書き続けていたように思う。よくあれだけのものを書いたと自分でも思う。まあ、今よりは書く時間がたくさんあったからではあったんだけど、それでも時間が足りないと思っていたな。「私にもっと書く時間を!」と心で叫びつつ書き続けていた。もっと時間を。もっと書きたい。もっともっと。あんなに文字を繰り出したことは生まれて初めてだったかもしれない。そして、書けば書くほど読んでくれる人がいた。いろいろな人とも知り合った。もちろんトラブルも増えたけどね。それでも楽しかった。悲しいこともあったけれど、それを上回るほどの楽しさだった。まあ、それもやっぱりリアルで考えたくないことがあったから、でもあるんだけど。やっぱり私はリアルが不幸だと書いて発散するのが定番なんだな。今はほんとリアルが充実しているからなあ。なんつーかほんとわかりやすい性格だ。(笑)

そんなこんなで話はズレていくわけだけど。

RSS全文配信にしてくれと言われてそうしていたのだけど、また一部配信に戻した。読んでくれるのなら何かの確信がほしいから。そうすることで少しは荒れそうな心を保てるのかもしれないと思うから。RSSリーダーだけでアクセスせずに読まれるのがいやだというわけじゃない。公開してくれて「そっか、この人読んでくれてるんだ」と思えるのなら全文配信にしてもいいと思うんだけど、やっぱりね、非公開で登録している人のことまでは考えられない。登録してくれてるということは読みたいと思ってくれているからでしょ。読みたいと思うのならアクセスしてほしいって思うよ。私はね。わがままだからね。登録している人が全員公開してくれているのなら、それなら全文配信にしてわざわざアクセスしなくても読めるようにしたいとは思うけどさ。

と、言いつつ、私も非公開にしてサブアカで他の人のブログを読んでたりするんで、人には言うくせに自分はどうなんだって、えっけんさんあたりに突っ込まれそうではあるんだけど。そこはそれ。私はわがままですから。わがまま人間に何を言っても無駄。私はそんな人間だよ。まだここは公開された場所だから、これでもまだマシなもの書いてると自分では思うんだけど、はてなグループではサブアカでもっと好き放題書いてるんだから。以前、納骨堂の中の人に言われたようにね。ノイズの前身であるぐれあむぺんぎんで書いてたようなことや、ノイズの初期の頃のツブヤキみたいなことをね。そっちは一度だったか二度ほど公開はしたこともあったけど、今ではもう公開にするつもりはないし。二度くらいグループに入ってきた人がいたけれど、グループの人間にも読めないようにしてたからか、明らかに誰かのサブアカみたいなその二人は二度と接触してくることはなかった。一人はIDを消したし、一人は完全にID放置してしまっている。それくらいしてでも私の書いたものを読みたいと思ってくれたんだろうけれど、やり方が間違ってるよなあ。確かに二人ID登録して読めるようにしている人はいるのだけど、その人たちを選んだ理由がわからない限りは読めないよ。(とはいえ、読んだっておもしろくないようなものしか書いてないと思うんだけど)なんてこと言ってるけど、私もその二人を選んだ理由が自分でもよくわからない。なんでか全面的に信頼してしまってるんだよなあ。どうしてここまでその人なら信じられるって思うんだろう。まあ、考えれば何となく「これだからかな」っていうのはないわけじゃないんだけどね。漠然としたものだから説明しにくい。ただ、一つ言えるとしたら、私とまったく似ていないからとも言える。私のような人はやっぱり信頼できないんだろう。だから、私とまったく違うスタンスの人であれば、私はその人を信頼するんだろうな。と、言ってはみたけれど、私に似た人間でも何人かは信頼してるよなあ。ガクトさんとか、あの人その人とか。だから、やっぱ「こうだ!」とはなかなか断定して言えない。あとはもう、鷹の目さんが前に言ってたように「タイミング」でしかないんだろうな。


ほんと、誰が私の書いたものを読みたいって思ってくれるんだろうね。どうすれば私は誰かの「読みたい」という気持ちを信じることができるんだろうね。私にはわからない。ほんとわかんないよ。

服のことなんて考えたくない

2009年12月14日 20:45

名前は出さないけれど、とある人が「男の私が何故レディスウェアが好きなんだろう、それを着用する事が何故好きなんだろう」と書いているのを見て思い出したこと。

私も一時期は女であるのに男の格好ばかりしていた頃があった。でも、私の場合は好きかどうかは自分ではわからなかった。ただ着たかった。それだけで着ていた。たぶん、目立ちたいという気持ちで着ていたんだろうとも思う。私はそういう目立ちたがり屋だったから。あと、これは推測だけど、小学六年の頃に男子高校生に襲われた時に着ていた服がミニスカートだったこともあり、それ以来高校卒業するまで普段はズボンをはくようになった。

あの頃は女として見られることを嫌悪していたように思う。ことさらに女らしさから遠ざかろうとしてたから。それもやはり強姦未遂事件のせいだと私は思っている。私が女じゃないければ襲われることもなかったかもしれないと思って。でも襲われるのは女だけじゃないと理解するようになってからは、女だろうが男だろうが関係ないんだよなあと思えるようになっていった。

そんな事件とは無関係なところで考えてみる。

最初に書いたように私の性格が「目立ちたがり」だからというのは有力な原因だと思う。女で男の格好をすることは目立つ。それに、当時は男性的な女子っていうのも何人かいて(別に性同一性とは関係なく)そういった人を見ているとすごくかっこよく見えて、いいなあと憧れてもいたから。で、自分はというと、ほんと見た目は女女してたんだよね。そんな自分をかっこよく見せたくて、それで男の格好をしてたとも言える。男の服が好きというわけじゃなかったんだよな。どちらかというと、私はフリフリな洋服が好きでもあったから。ただ、自分には似合わなかったから。私の顔立ちというのが大人っぽい感じだったこともあり、少女趣味な格好は似合わなかったんだよなあ。たぶん、大人な女性の格好はバッチリ似合ってたんだろう。けれど、いかんせん、私は大人な女性の着るような服装は好きじゃなかった。今でも好きじゃない。それくらいなら男の人が着るようなもののほうがまだマシかなあと思ってた節がある。

さて、今の私は服に全く興味がない。とくにカッチリした服装なんて絶対着たくないとも思っている。まあ、カッチリしたものを着ていく場所にも行かないんでそれでもいいんだろうけれど、姪っ子の結婚式の時は苦労したなあ。あんな場所に着ていくものなんて一番居心地の悪いことこの上ない感じだったもの。もう服のことなんて考えたくもないというのが本音だな。

短文は誤解されやすい

2009年12月14日 11:18

ついったーで見かけた次の発言がまず発端。

私昔から自分が好きなミュージシャンとかに、相談事とかメッセージ送る人の気持ちが理解できない。。。


この発言だけ見ちゃったら、自分がそういった相談事とかメッセージとか送る人であったら、くりりん発動してむきーってなるのは必須。まあ、発言相手が自分にとってどうでもいい人であれば、誰かなんか言ってるけど、むかつくことなんてないわけではあるんだけど、発言相手が好きな人であったとしたら、むかつくより「嫌われた」となってしまうことはあると思うんだよね。私なんかはそういう傾向があるんで、そんな感じで今までにネガティヴな思いに囚われてしまったことは何度となく経験してるわけで。だけど、これはついったーのマイナスな点でもあるんだけど。(ついったーだけじゃない。はてブとか文字制限のあるものはすべて)言葉が足りずに誤解されてしまう要因になってしまうということで。だから、今回も、ついったーのこの言葉だけだったら、わーん、「理解できない」って言われたーとなってしまうところなんだけど、ららさん、ちゃんと補足記事を書いてくれた。

「相談ねぇ。◇姫日記◇」

昔からそういうのが理解できない人なのです、私。

非難したいわけじゃなくって。うん。

(中略)


お悩み相談したくなるのも、全然変じゃないし、自然な流れなのかなーとも思うのよ。

だから、別に他人がしてるの見て、おかしい、とかは思わないけど、
私はそんなのしたいとも思わないなーと。

夢見る乙女のようで、夢見きれてない、損なタイプなんですかね(笑)


相談事については確かに私も、たとえばガクトさんに対しては相談事はできない、というか、したくない人でもあるんで、ららさんの気持ちは理解できる。でも、メッセージは送りたい時もあって、メールとか送ったりすることもあるんで、やっぱり自分のことを否定されたような気持ちにもなった。だけど、こんなふうに補足記事ではららさんも他人がやってる分を否定してるわけじゃないっていうのがわかるし、自分はそんなことはしたくないという人だってだけを書いてるんで、そりゃもう「理解できない」となってしまうのはしかたないよなあって。ただ、相談してしまう気持ちは、私はやらないけれど、してしまう人の気持ちは理解できないわけじゃないんだよね。聞いてもらいたいってだけで相談してる人もいるしねえ。その気持ちは私もわかるもの。

あと、夢見る乙女っていうのは私もそういうところがあるよ。たとえばガクトさんとリアルで逢ったとしたら、それでドリーム小説なんて書けなくなるよなあという気持ちも持ってたりするんで、私もある程度の距離は取らないと夢が壊れるよなあとは思っている。夢見るために距離を取っているってことなんじゃないかと思うんだけど。ららさんのは違うのかな。同じことなんじゃないかと思ったんだけどな。

私が心から感謝する時

2009年12月09日 20:08

海燕さんの記事「自分から話しかけるなんてできない。 - Something Orange」を読んで思ったことなんだけど。

前半のぼやき(失礼)部分は非常に共感を呼ぶ。私だけじゃないだろう。みんなが海燕さんと似たような気持ちを持ってコミュニケーションしてるだろうからだ。ただ、私と海燕さん他とで違う点がいくつかあって、海燕さんが、ブクマつけるのに気楽に書いて相手に不快感を与えたら、とか、人の心の神聖な花園に踏み込んでしまったらどうしようとか思って考え込んでしまうというのだけは私にはないなあって。確かにブクマするのにためらいを生じることは私にもあるし、コメントも以前よりはためらってしまって気楽につけることはなくなったけれど、ブクマしたり書き込んだりしたことで相手が不快に思ってしまったとしても、私自身はそれほど凹んでしまうということはなくなったんだよね。相手がどういった言葉で傷つくか、それは私の想像を超えたところにあったりするからだ。私は人の気持ちがわからぬ人間らしいので。だからなんだろうな、海燕さん他の人たちには信奉者が多く、私にはそういった人がほとんどいないというのも、私がそんなふうに他人の気持ちなどどうでもいいと思っている節のあるような態度を取っているからなんだろう。

『しかし、それを思うと、ぼくに話しかけてくれるひとたちは本当にありがたいです。こんな取っ付きづらい、性格悪そうな、オタクの負の側面を煮詰めたようなブログ主にお声をかけてくださるだけでも感謝感激です。

 ネットを始めてからそろそろ十年くらいは経つと思うんですけど、そのあいだにたくさん友人や知人ができました。ネット人見知りのぼくがそこまでたどり着くことができたのも、あたたかい人柄の方がたくさんいらっしゃるからだと思います。』


私にはほとんど話しかけてくれる人はいない。そりゃ、まったくいないわけじゃない。一人二人はいる。一人もいないよりはマシだろう。マシ…か。マシだという言葉は便利だな。マシ、ではダメなんだと思い込んだ人間にとってその言葉は慰めにも何もならないというのに。そう。この心こそが己を不幸にしているのだ。

海燕さんのように話しかけてくれる人に対して、たとえ一人であったとしても心から感謝できる人間であれば、私ももうちょっといい関係を他人と紡げるんだろうな。けれど、私はどこまでいっても「私」でしかない。あきらめてしまってはいないけれど、それでも私はこの「私」のままでこれからも生きていくしかないのだ。結局は、私はこの「私」を受け入れてくれる人を求めて生きているわけだから、「私」として生きていき、その上で私の手を取ってくれる人でなければ、私には真の心の平穏なんて訪れはしないのだから。それを今までに何度も何度も思い返しては嘆いて、そしてまた立ち直りを繰り返す。その繰り返しを人に非難されようとも。それが正しいとは言えない行為だったとしても。

海燕さんがネット人見知りと自分をそう言っているが、私のほうがネット人見知りだと思うんだけどねえ。

それにしても、海燕さんの次の言葉。

『 あとね、mixiのマイミク申請ができない。たしかぼくは面識のないひとにマイミク申請したことはないはず。マイミクになりたいにゃー、と思うひとはいても、向こうから申請してくれるのを、こう、蜘蛛が巣を張るようにしてじーっと待っているんですね。

 だって、申請して断られたら傷つくじゃん。「まさか、こいつ、わたしのこと友達だと思っていたの? 正直キモいんですけどー」とか思われていたらどうしようとか思うじゃん!』


こう想像してみた。蜘蛛が巣を張るようにしてじーっと待つというの、これも何もせずにそういうことしても相手は気づかないと思うんで、足跡つけては向こうから「あれ、海燕さんだ」と気づかせる作戦かなあなんて。(笑)いやまあ、私はそういった作戦をするからなんで、海燕さんがそうであるとは限らないけどね。

私の場合、どっちかっていうとこっちからマイミク申請しまくるほうなんで、そのたびに断られたり無視されたりして痛い目には遭っている。そこらへんが海燕さんと私の違いなんだろう。というか、私のほうがもっと根性が悪い。こっちからマイミク申請しておいて、こっちから勝手にマイミクを切るという馬鹿げたことばかりしてきたから。それはやはりひとえにそうまでしても私についてこれるのかと世界に問うているのだ。と、そんなこと言って聞こえはいいんだけど、ただたんに困ったチャンというだけに過ぎない。誰がこん奴についてくるものか。もしいたとしたら本当に酔狂な人だよね。でも、そんな人がいたら、私はきっその人に心から感謝するんだろうな。

こんな日をずっと待っていたのに…

2009年12月06日 22:52

昨日、一本の電話が入った。若い男の声。Eと名乗る。誰だろう。すると、うちの息子の小学校の時の同級生だと言う。E君…ねえ?思い出せない。すると「同窓会のことでお話が…」と言うので、息子に代わった。それからしばらく考え込んでいたら、思い出した。ああ、Tちゃんだ。顔も思い出した。けれど、聞いた声は小学生の声じゃない。あたりまえだ。卒業してから来年で6年だもの。卒業式の日のことを思い出すなあ。ついこの間のように。みんなまだ幼い顔をした小さな子供たちだった。他の子たちのその後はよく知らないが、自分の子供を見ていれば、他の子たちもみんなこんなふうにでかくなったんだろうなあと思う。電話では同窓会の話だと言っていたのだけど、あとで息子に聞いたら、2年後に同窓会は開くそうな。あら、そんな先の話だったんだ?まあ、来年の春に高校を卒業してしまえば、大半の子達は県外に出てしまうんだろうから、卒業前に連絡先をお互いに把握しておこうということだったんだろう。2年後か。みんな20歳になるよな。そういえば、卒業式の当日、子供たちと保護者で学校の玄関前の庭にタイムカプセルを埋めた。20歳になったら掘り起こす約束をして。そっか、それにあわせて同窓会を開くのか。

あの卒業式の日。まだ小さな息子を見て、20歳だなんて、なんて遠い未来の話なんだろうと思っていた。これから中学に進学し、高校受験が待っていて、高校に無事にちゃんと入れるだろうか、成績はどうなるんだろうか、大学には行くのかな、それとも就職するんだろうか、と、息子の未来を楽しみにしつつ、まだもうちょっと親として踏ん張らなくちゃならないんだなあと思ったものだった。母親業をちゃんとこなしているという自覚があまりない親失格な私ではあったけれど、それでも自分なりにできることはしなくてはと思いつめてもいた。何とかここまでやってこれたのも、時には逃げるような行為もしたからこそだった。恐らく、いや、きっと、息子の同級生の親たちには不評をかっていたことだろう。それくらいのことはしてきた。ただ、言い訳だとしても、私はそこまでしないと自分でも何をするかわからないところがあるという自覚があったから、だから、どんなふうに思われようとも逃げきった。自分を守るために。ひいては息子を守るためにも。私は他の子まで抱擁できる器は持ってなかったから。自分と息子のことだけしか考えられない自分勝手な人間だったんだから。

でも、だからこそ、ここまでやってこれたと思っている。

息子が生まれて間もない頃、泣き止まぬ我が子を抱きかかえ、ベランダから真っ暗な空を見上げたものだった。私に母親が務まるのだろうか。こんなにつらいのに。人は言う。3歳になれば少し楽になるよ。小学生になればだいぶ楽なるよって。嘘ばっかり。そんなの嘘だ。どこまでいっても子供を育てていくことはつらいことばかりだった。私にとっては。でも人は言う。確かに大変だが、それを上回る幸せももたらしてくれるよって。それはそうだったかもしれない。私も人並みに、息子の寝顔に幸せを感じたり、抱きついてくる息子に愛情も感じたものだったけれど、それよりもつらいことのほうが強く印象に残ってしまった。だから、たぶん私は子供を持つ親としては失格だろうと思う。本当ならば、私のような人間は子供を持つべきではないんだろうなと。けれど、持ってしまった。これは私のエゴだ。そんなエゴから持ってしまった子供なんだから、何としてもこの子を幸せにしなくてはという気持ちもないわけじゃなかった。ただ、私が壊れてしまったらそれもおしまいだ。それもあって、私は全力で自分をも守らなければならなかったんだ。もちろん、これはただのいい訳だ。否定しない。

あの頃、いつになったら解放されるんだろうと思った。でも、もうすぐそこまできている。子供が旅立つ時が。こんな日をずっとずっと待っていた。そんな私だから、友人にも子供が出て行くことに対して、あっさりとしてるんじゃないかと言われ、そして、自分もそうなんだろうなと思いつつも、来年の春になるのが少し淋しい。来年の春になったら、ここに息子はいないんだと思うと。それをずっと願っていたのに。それなのに、淋しい。けれど、たぶん、それにも慣れていくんだろうな。

それはいつでもふいにやってくる

2009年12月06日 11:06

12月5日。忘れたわけじゃなかったのに。でも忘れてた。でも結局こうやって呟いてしまうんだな。最低だ。いつか、こんなことも書かなく日が来るんだろうか。来てしまうほうがいいんだろうな。でも、私のしでかしたことはなしになるわけじゃない。決して。私が生きてる限り。そして、その人たちが生きている限り。たぶん、私たちが死んでしまっても。ずっと消え去ることはない。

絶望しか残らない問題

2009年12月05日 07:48

一連のやり取りを見てきて思った私の思い。

7年前に私も巻き込まれた(自ら巻き込まれたんじゃないかとも言われるだろうけれど)拉致問題と、今回の性被害問題はたぶん話し合っても話し合っても絶対に解決の糸口は見えてこない問題なんじゃないかと思った。それは、被害者以外の人間たちがそれについて議論しているからなんじゃないかって。というか、加害者でも被害者でもない人間が被害者に対して質問しているという時点でなんかそれって違うような気が私はするんだよね。誰が被害者かわからないから、だなんてそれは言い訳でしかない。だったら、まず「あなたは被害者なのですか」って聞けばいいでしょ。もちろん、その質問もセカンドレイプにもなりうるだろうから、叩かれることは覚悟で。それが嫌なら、質問する前に相手の書いたものをよく見てすればいいんじゃないかと。前から相手を知っていたら被害者かどうかはわかったことだろうしねえ。

被害者に対して質問だの何だのするのっていうのは、確かに、裁判はそういった類のものであって、裁判まで否定する発言にもなりかねないかもしれないけれど、日々行われている裁判だって双方が絶対に納得できるような結果が出るなんてことは一度もないと言っても過言ではないんじゃないかと思う。裁判は必要ないとまでは言わないけれど、犯罪なんてものは減らせることはできてもなくすことはできないことも確かだから、どうしても無駄なことをしているようにしか見えない。もっとも、犯罪なんてものを自分はしないと思ってたって、冤罪として監獄に送られてしまうこともあるだろうから、全力で裁判なんてものはなくせとは言わないけれど。

一連のやりとり、まるで7年前の自分を見ているようで胸が痛い。どんなに言葉を繰り出したって、質問者はわかってくれなかった。それは文章能力のなさだと言われてしまうんだろうし、私もそう思う。質問者に納得させられるだけの文章能力があったのなら、私も文章で成功してるだろうと思うからね。だから、私はもう何も言わない。質問されても答えない。スルーすることにした。言葉だけの対人関係に絶望してしまった私は、答えないよ。ついでに言っとくけれど、一応私も未遂とはいえ被害者ですから。そこのところお忘れなく。でも、ひとつだけ言わせてもらえれば、被害者でもなく加害者でもない人が、これから起こるかもしれない犯罪を未然に防ぐためにはどうしたらいいかと議論することは無駄なこと。それよりも、他の被害者はどうあれ、一被害者としての私が望むのは「自分だけはたとえ裸の女が目の前にいたとしても襲わない」と誓ってくれその通りに行動してくれれば、それでいい。「自分だけはやらないから」って、それだけ言ってくれれば。どうせ、どんなに未然に防ぐ方法を考え出したって、犯罪に走ってしまう奴は聞く耳持たずなんだから。そんな人間には議論は通用しない。世界ってもんはそういうもんだと心底そう思う。だから、そんな議論の通用しない人間に時間を割くよりも、私は、ただ黙って「つらかったね」と抱きしめてくれる人だけと付き合っていきたい。気持ちわかってくれない人なんてもういらない。

みんなわからないんだ。絶対に議論では解決しないこともあるってことを。

リアルだけじゃないよ、ウェブでだって抱きしめることはできるよ。それさえもわからないのなら、いくら相手に質問して答えてもらったって、その人は絶対に誰のことも理解できないし救えないんだ。そう私は思うよ。


《2009/12/6追記》

「服飾の自由」を読んで思ったことなど。


扇情的なものが追放っていうの、あれも程度によると私は思う。あまりにも酷いものはアングラであるべきだけど、程度によっては、たとえば芸術的なものとかは排除されるべきじゃないとか。ただ、どの程度はオーケーっていうのは人それぞれだったりするんで、なかなか線引きができないっていうのが難しいよなあ。だから、どうしても解決策なんて出てこない問題なんじゃないかと思う。そこには絶望しか残らない。


《2009/12/7追記》

さらに、ナツさんの「★ 電脳ポトラッチ それはあなたの「当然の権利」じゃない。~曽野綾子ミニスカ論争関連」を読んで思ったこと。


性欲が悪いわけじゃない。私だって性欲はある。だから性欲まで否定はしない。性犯罪が起きるのは性欲のせいじゃない。あくまで性欲を抑えなくてはならない時に抑えられない人間が悪いということを忘れないでほしい。じゃあどうすれば出してはいけない時の性欲を抑えることができるのかって?そんなもん他人に聞くべきことじゃないでしょ。そんなことは自分で考えるべきことだ。だって、抑えるためにどうするかなんて人によって違うから。自分にあった抑え方っていうものがあるはず。つまり健康的な人だったら、そういうことを自分で考える事ができるはずなんだ。そうやって、ほとんどの男の人が自分で抑えてるはずでしょ。それが普通だと思うんだけどね。その普通ができない抑えられない人は、それはもう病気だ。自分は病気であると自覚したほうがいい。治したいと思うのなら、病院に行って治せばいいんじゃないかと思う。心の問題だから、心療内科とかそういった類の機関に頼るとかね。だから、性犯罪をなくすたったひとつの方法は「病気だから病気治療をする」だけなんじゃないかなあ。もっとも、個人的に私は、性犯罪を犯してしまう人間のその病気は不治の病だと思っている。絶対に治らない病気だって。だから、性犯罪者は隔離するか死刑が相当なんじゃないかって。そうすれば、少しは性犯罪は減るんじゃないかってね。


《2009/12/8追記》

別エントリ立てたほうがいいとまで思ってしまう追記のしかたをしているけれど、こういう書き方が一番いいかもしれない。まあ、これも非公開にして書いているからできることではあるんだけど。ただ、これだといつまで経っても公開ができない感じではある。こういった話題は結論が出ない話でもあるんで、一定期間は続くだろうしねえ。とりあえず次の公開まではまだ少し時間があるので、他人の記事読んで書きたくなる限りは追記という形で書いていこうと思う。私の考えも短期間の間に変わってくることもあるし、語りきっていない自分語りもまだあるみたいだから、今回のように。


「昔、『ひとつ屋根の下』ってテレビドラマがあってね、 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は」「日本が治安が良いってのは、幻想なのか。「性差別を無くせば(減らせば)性犯罪が無くなる(減る)」というのは「大風吹けば桶屋が儲かる」という話なのか。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は」を読んだことで、私の体験も語った上で思ったことなどを書いてみようかと思って。

事件は私が12歳の時、今から35年前に起きた。朝、いったん学校に行って、忘れ物があるのに気づき、授業が始まるまでに忘れ物を取ってこようとして学校を出て走って5分の自宅に戻る途中の小道でのことだった。雨は降っていたがまだ明るい。小学生だからスカートはミニスカート。それはその頃の子供にとっては当たり前ではないだろうか。犯人はすれ違っただけの高校生だった。すれ違いざまに後ろから襲われた。そんな私に自衛しろと他人は言うのだろうか。言うのだろうな。今の小学校では忘れ物は原則取りに行かないことになっているようだが、あの頃の私たちはみんな取りに戻っていたと思う。変質者は昔から当たり前のように出没していたけれど、一見普通の高校生が小学生に襲い掛かるなんてことはどうだったんだろうか。私は子供だったためにそんなことまでは覚えていない。そういった話は他人とはなかなかできない年頃でもあったから。そんな子供にさえも自衛をと他人は言うのだろうか。言うのだろうな。

ただ、私の被害は実際に強姦されたというわけではない。未遂で終わったから、微妙な立場でもある。被害者の気持ちはわかるつもりではあるけれど、実際に被害に遭ってしまった人からすれば「自分たちとは違う」言われるだろうし、私自身も、そう言われてしまったら何も言い返せないことはわかっているつもりだ。でも、小学生の女の子にとって、強姦未遂であっても強姦と等しくショッキングなことには間違いなく、私の心に何らかの傷がついてしまったことは確かだ。ただ、私の場合は、そんな子供の頃から自分自身をネタにして注目を浴びることにためらいのないところがあったようで、すべての人には話せないにしても、まずは母親には守ってもらいたくて、それから好きだった友達には憐れんでもらいたくて、それで話したんじゃないかと今なら思う。さすがに日記には詳しいことは書けなかった。だから、日記では当時の自分の様子はわからないのだけど、記憶だけはしっかりと残っているので当時の出来事はアリアリと思い出せる。ただ、子供の頃の日記を読むと、自分の記憶との食い違いとかもあったりして、この記憶も細部は本当にそうだったのかはわからない。一時期、強姦未遂という記憶になってはいるけど、もしかしたら本当は未遂じゃなくて強姦されてしまってたんじゃないか、記憶が書き換えられてしまってるんじゃないかと本気で信じてしまいそうになったこともある。というのも、私は性経験は旦那が初めてだったのだけど、いわゆる初体験で経験する出血がなかったからだ。今なら、処女であっても必ずしも出血するわけではないと知っているけど、当時の私はそれを知らず、記憶にない経験が私にはあるんだろうかと自身を疑ったからだ。付き合った人は旦那以外いない。それは確かだから、考えられるとしたら小6の時の強姦未遂事件しかない。自分の記憶には絶対的な自信をそれまで持っていた私だったけど、過去の日記を読み返していくうちに、記憶との齟齬が出てくるのでその自信はことごとく崩れていった。だけど、どう思い返してみても、同じシーンしか浮かんでこない。さすがにここでは書かないけれど。とはいえ、どこかで書いたとは思うけれど。

まあ、未遂かそうじゃないかはこの際どうでもいい。どちらにせよ、恐怖心は植え付けられたわけだから。その恐怖心が問題。当時の恐怖心は今でも覚えている。母に話したのは次の日くらいだったか。その時の気持ちはとにかく話して楽になりたかったから。母に話せば母が何とかしてくれる。それだけの気持ちで話した。話したらどうなるかは当時の私はわからなかったけど、何かしてほしいと思って話したわけじゃない。ただ秘密を一人で持つには幼すぎただけだったんだろう。話せば楽になる。それだけだったと思う。別に母は何かしてくれたわけじゃない。警察に届けるとか、そういうことはなかったし。ただ、これからは一人で夜に出るなとか、昼間でも一人で行動しないようにしなさいと言われた。それもあって、近所の友達二人には一緒に行動してもらいなさいと私に言った。その二人とは険悪になりかけていたということは母は知らなかったんで。私も他に頼れる友達がいなかったんで、その二人に正直に起きたことを話して、一緒に行動をともにさせてもらった。そういうことを話さなければ一緒にいさせてもらえないと思ったからだ。でも、それだけじゃない。私は彼女らに憐れんでもらいたかったんだ。その気持ちがあったことも確かだ。普通なら、大好きな友達にそんな汚点を話せるはずがない。でも、私は普通じゃなかったんだろうな。それともそれが普通だったのかも。私は普通の人とは違うのよって、そういう気持ちがないわけじゃなかったから。私は特別でいたかったから。汚点でさえも特別であるためのアイテムでしかなかったんだな、きっと。これはたぶん、私の中では「差別さえも特異性」というのがあったためなんじゃないかと思う。私はそれほど特別な存在になりたかったんだろう。これは一般的に見て、ほんとにろくでもない考えなんだろう。でも、私の中では、目立ちたい、注目を浴びたいという気持ちがあまりにも強すぎて、それでそんな考えになっていったんだろうと推測する。いわゆる、ケガをして包帯を巻いていると、人に「どうしたの?」と注目されて大切にされるという気持ちが根底にあったからなんじゃないかなあって。実にくだらないことなんだろうと客観的に見ればわかることなんだろうけど、注目されたい人間からしたら、どんなことでも注目されるためならやってしまう当たり前のことなんだろうな。

ただ、今の私にはそこまでして戦うことはできない。ナツさんとか23mmさんみたいな公正な目で見てくれる人との議論もあるから、議論は無駄だとは今は思わなくなっているけれど、どうも二人のような人たちばかりじゃない声がネットでの議論では多くて、やっぱり私はこういったナイーブな話で議論することに絶望感を抱いている。だからもう、それぞれが言いたいことだけを自分のテリトリーで言い合って、議論なんかやめてしまえばいいのにと思うようになってきた。だから、私も言いたいことだけ言って、他人と議論するつもりはない。議論なんてもうたくさんだ。


《2009/12/09追記》

ついったーでフォローとしている人がRTしていたある人の発言がこちら

『昔、あんまし好きでない女から「変な人がつけてきてるから迎えに来て!」と電話されて、好きじゃないけど大変、と思って迎えに行ったことをふと思い出した。「襲われたくないならミニスカートを履くな」と言う人がいるけど、「襲われないように俺が守る!」が正解なのをご存知ないとみえる。』


そういう男性ばかりであったなら、性犯罪の餌食になる女性もいなくなるのにね。


《2009/12/13追記》

「世の中が(俺が主観的に思う)マシな状態になったとき、「弱者にさらに皺寄せが行くのではないか」ということが問われている。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は」で取り上げられていたmasudamiさんの日記では、刑事告発がしやすい社会を望んでいない人のことが書かれてあり、ご本人さんもその考えの人だ。この人も被害者の一人であるので、その声の意味は重い。ただ、これも推測なんで私も叱られるんだろうけど、23mmさんの気持ちは迷惑だとは思いつつ、確信的かそうでないかに関わらずに性差別してしまっている人たちよりはマシだという気持ちは持っているんじゃないかと思う。

私は自分のどんな体験までも小説のネタにしてしまうところがあるので、自分の身に起きた出来事をそっとしておいてほしいという人たちの気持ちはわからない…いや、わかってないわけじゃない。ただ私はどうしても隠せない性質であり、隠さないで公開して傷つくこともいとわない稀有な人間だ。むしろ、傷つきたいと思っている節もある。私はきっと精神的マゾヒストなんだろう。それか心が他人とは違う構造をしているのかもしれない。肉体的な苦痛にはめっぽう弱いが、心の苦痛は…そうだな、それを解消できる技を私は持っているから、なのかもしれないな。それだけでも、私は本当に性被害者側の人間とも言えないのかもしれない。こんな時、私も未遂じゃなかったらこんな私になっただろうかと思ってしまう。その人たちの気持ちを理解するために、私もまた未遂じゃなかったというのが事実だったほうがよかったのかもしれない、とか、くだらないことまで考えてしまう。それこそ被害者を冒涜する言葉なんだろう。世間一般では一人でも被害が少なくなるほうがいいと思っているだろうから、そんなこと考えるだけでも、それは二次被害だと言われてもしかたないよな。

ただ、私が言いたいのは、一人でも多くの人間が異性に対して乱暴なことをしないでほしいということ、そして、一人でも多くの被害者の「望み」が叶えばいいということだけだ。その「望み」はすべて同じではない。masudamiさんの言う望みは、訴えたいので訴えやすい社会を望んでいる被害者の望みを断つものでもあるので、どちらの望みも何とかギリギリなところで両立できる世界になればいい。とはいえ、それは難しい。それを何とか両立させるためには、両者が少しづつ傷つくことを覚悟しなきゃいけないだろう。それができない限りは、どちらの望みも叶うことはない。私はそう思うよ。

でも、masudamiさんに忘れてほしくないのは、23mmさんだけじゃなく確実に何人かの男性は、被害者だけにリスクを負ってしまっているこの世界は間違ってると思ってくれてるということ。その気持ちに僅かでもいいから感謝してあげてほしいって思う。少なくとも私は、傷ついてもいいと思う気持ちになれるひとつの要因に、そういった23mmさんみたいな人がいるからだと思っているから。痛みを一緒に感じてくれる人が私にはいるって思えることはすばらしいことだなあと今は思えるようになったから。それは忘れてほしくないなと思っている。


《2009/12/17追記》

これで追記追記も終わればいいなあと思いつつ、ナツさんの記事で自分語りをしてみる。

「★ 電脳ポトラッチ 「男は女を欲望する」という抑圧」

前半部分を読んでいてやっぱり議論なんて絶望しかないよなあと思った。互いが自分自身の意見しかないと固執していたとしたら確かに絶望的なものではあるんだけど、少なくともナツさんは固執しているわけではないとは私には思えたわけで、そうであれば少しは歩み寄りっていうのもあると思うんだけど、でもナツさんとNaokiTakahashiさんとのやり取りを見てると、片方が相手を議論してでも理解したいと思っていたとしてももう片方が頑なに自分の意見にしがみついていたとしたらやっぱり絶望しか残らない典型的な議論の形をしているという印象を持ったんだよね。

ただ、ナツさんがラスト近くで出したNaokiTakahashiさんの心理状態を考えたら、NaokiTakahashiさんの頑なさっていうのは私にも理解できる感じはした。状況は違っても私もまた自分は「こんな人間だから他人は好きになってくれない」と他人を「こうである」と断定してしまいがちな人間だから。けれど、最近では、こんな私でも付いてきてくれる人はいると思えるようになった。それにNaokiTakahashiさんの言うような「デブキモオタ」という外観だけでは女が彼を拒絶する理由の要素としては弱い。確か以前、彼の記事はいくつか読んだことがあったと記憶するんだけど、考え方とか確かに頑ななところはあるみたいだったけど、そんなに嫌われる要素は見出せなかったように覚えてる。キモイっていうのもどんなのがキモイと感じるかは人それぞれだし、それはオタクでも同じ、唯一デブというのは嫌われる傾向はあるにしても、少なくとも私はデブで相手を嫌うっていうのはない。まあ、私も若い娘とは違ってある程度年を食った年増だからそう言えるとも言えるんで、若い娘だとしたらデブはいやだっていうのもあるかもしれないけれど。

あと、ポルノ屋っていうのにしてもね、エロゲ好きな女だっているし、私なんかもエロ物大好き女の一人でもある。18禁の小説なんかも趣味で書いてるしねえ。つまり、男は獣かもしれないけど、女だって獣というのが私の持論でもあるし。だから、女がポルノ屋を嫌うっていうのも信憑性はない。

私が性被害の被害者だからといってポルノを否定しているかといったら違う。それはまあそのものの被害じゃないからと言われてしまったら私も全力で「そうじゃない」とは言えないんだけど、それでも当時はしばらく男性恐怖症気味になったことは確かだ。自分なりに自分の格好がダメだったんだろうかと思って女のような格好をせずに男のような格好をしたものだったし、夜は一人で行動しないようにしたりとか、いろいろ自衛はした。誰も助けてくれるわけじゃないから自衛はしなくてはと思っていたからだ。でも、そうしていてもその後に何度か痴漢には遭ったことはある。自衛なんかあてにならないよなあと思ったものだった。子供の頃は「男なんて」と思ってたことは確かだし、会社に入る頃には上司でさえも信用してなかった。飲みに連れて行かれたら何かされるんだと思い込んでもいた。まあ、そういうのはそれこそエロ物コンテンツで仕入れた偏った知識ではあったんだけどね。そのままいってれば、私も全霊をこめて「男はすべて獣」とすべての男を拒絶したことだろう。でも私は結婚した。すべての男がそうじゃないとわかったからだ。

真夜中男二人に女一人でどこまでもドライブした経験は、私に男の人だって信用できる人はいるんだという気持ちを芽生えさせてくれたんだよね。

その当時に弟にも言われたもの。「男と女が真夜中一緒にいて何もないなんて信じられない」って。でも、いるんだよ。そういう人は。絶対に獣にならない男がね。私はその時の男性二人のおかげで、男だって信頼できる人はいると信じられた。そして、そのうちの一人と私は結婚したわけだ。けれど、女を襲う男だって確実にいる。恐らくそういう男をすべて排除することは無理だ。ただ、軽減させることはできる。女も男も親になるだろうから、その親になって子供を教育することはできるよね。男の子には「女の子を大切にしてあげて」女の子には「男の子も大変なんだから理解して信用してあげて」と。もし、親になれなくても、自分だけは獣になんかならないと行動するだけでもいい。一人一人が「自分だけは」と思うようにしてくれれば、少しは軽減されるように私は思っている。

問題は方法じゃない。一人一人の意識の改革、気持ちの問題なんだよ。私はそう思うよ。



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