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慣れないものは慣れない

2010年02月26日 09:34

ナツさんの記事「★ 電脳ポトラッチ: もう猫は飼わない」を今朝は読んだのですが、その前に「猫を失うということ」というナツさんの記事を読んだ少し前に、旦那と少し意見の相違があったんですよ。そのあとにナツさんの記事を読んで、ナツさんはどうなのかなあと思ったのでした。でも、ナツさんが「もう猫は飼わない」というタイトルで記事を書いたので、ナツさんも私と同じ気持ちなんだろうなあと勝手に推測。

旦那と意見の相違となったのが、ペットを飼うということで。この間、テレビでかわいい動物が出てきたんですよね。それはカワウソで、ほんっとかわいかったのです。カワウソだけじゃなく、わんこもにゃんこもハムも、とにかくかわいい動物が出てくると旦那なんかは「いいなあ、かわいいなあ、飼いたいなあ」と言うんですけど、そりゃ、私も「そばに置きたい」とは思うんだけど、本当に飼うということになったら、私の本音は飼いたくない、なんです。

ハムスターのジャンを飼った時も、旦那が勝手に買ってきて飼い出したのですが、私はたぶんそれを知ったら反対したはずです。かわいいと思う気持ちはあっても、私には世話する気質はないんですよ。かわいがるだけはかわいがるけれど、世話するのは本当に私は好きじゃない。酷いめんどくさがりやなんで、生き物を飼うことは私には無理なんです。だから、本当いうと子供の世話だって私にとっては本当はしちゃいけないことなんだろうと思います。ただ、自分で決めて産んだんですから、追い詰められない程度の世話はしてきたつもりですけれど。けれど、一人だけでもう充分。まあ、子供の出来にくい身体だったということもあり、一人で何とか許してもらえたかなあといった感じです。

話がそれましたが、そういうことで、この間も旦那が「いいなあ、飼いたいなあ」と言い出したのを聞いて、私は「でも私は飼いたくないなあ」と言ったわけです。それは動物は私より先に死んでしまうから。

子供の頃から、私だって人並みにいろいろ動物は飼ってきました。物心ついた時には浜辺で拾ってきたわんこ。その頃には三毛猫のにゃんこも飼ってましたし、それからも何度かわんこはいろいろ飼いました。にゃんこも何匹も飼った。それだけじゃなく、ウサギも飼ってたし、一時的にツバメも世話したことがあります。結婚してからは、犬猫は飼えないということもあり、金魚やハムスターを飼いました。けれど、そのすべては今はもういない。死んでしまったわけです。私はそれらすべての死を看取ってきたわけです。そのたびにどんなに私が嘆いたことか。しばらく立ち直れないくらい。そして、何年か前に最後にハムスターのジャンが死んでからは(厳密にいうと、その後に金魚が死んでますけど)もう生き物は飼いたくないと思ったものでした。
でまあ、そういうことを旦那に言ったら、そんなこと言ってたら何も飼えない。それでも自分は飼いたいんだって言うんです。死んで悲しい思いをしても飼うって。そのわけを旦那ははっきりとは言いませんでしたが、たぶん、その悲しみがあるからこそ、次の生き物にはもっと良くしてやろう、愛情注いでやろうとなるのかなあって。
でも、私にはそれはできない。ずっと引き摺ったままなんですよ。私は初めて死んだわんこの死に姿が今でもどうしても脳裏から消えないんです。私が小学校低学年の時です。あれから、何度も飼っていた動物の死に姿を見ていくたびに、どんどん堪えられなくなってきています。そして、ジャンが死んだ時、もうだめだ、これ以上かわいがっていたものが死んでいくのは見たくないとなったんですよね。

死は慣れるんでしょうか。私には慣れることはできない。むしろ、遭遇する経験が増えていくほど辛くなっていく。

特に最近では自分自身の死が近づいてきているということもあり(病気というわけじゃなく、年齢が近づいているってことです)かなり死に対してナーバスになっています。旦那の父親は亡くなっていますが、まだ母親は健在で、私の両親も父親は障害者ではあってもまだ生きているし、母にいたってはかなりの元気さで、まだまだ死を感じさせるということはないのですけれど、それでも、彼らもいずれは死にます。旦那だって死ぬだろうし、息子だってわかりません。いつかは死んでいくのです。私だってもちろん例外じゃない。ただ、自分の死は自分で惜しむことはできないんで、やっぱりこれは自分以外のものの死で引き摺られてしまうということになる。それを私は体験したくない。

これがどんなに我が儘なことであるかはわかっています。

旦那には「だったら亀でも飼うか?」と言われました。けれど「自分が死んだ後に残された亀のことを考えてみろ。悲惨だぞ」とも言われました。そうなんですよね。それはわかってるつもりです。私は愛するものたちの死を看取るよりも彼らよりも先に死んでしまいたいと思っているのですが、それは愛するものに対して酷いことをすることにもなるんだってことは、頭ではわかってるんですよね。でも、わかっていても、私はいやだ。自分のほうが先に死にたい。大切なものが死んでしまって辛い思いをしたくない。どうせ私もいつか死ぬんだ。だとしたら、なるべく辛い思いをしないようにしたいんだ。たとえそれが傲慢なことだったとしても。旦那は残されたものの気持ちを考えろというけれど、私のことだって考えてほしいよ。私だって残されるものになりうる。

もし、私が死なない存在であったなら。そうであれば、私は他人の死を受け入れることができるかもしれない。受け入れざるを得ないでしょう。生き続けなければならないわけですからね。いちいち他人の死で引き摺られていても、苦しみはずっと続くんですから。だから、いずれ死んでしまう存在である私は、少しでも他人の死で辛い思いをすることを軽減させたいのです。それを我が儘だ、傲慢だ、他人のことを考えろとは言われたくないです。言われたわけじゃないけれど。でも、たぶん、そう言う人は必ずどこかにいるはずですから。もっとも、言われないためには、出来るだけ大切な存在を少なくすることかなあとも思います。そうすれば、私自身も大切な存在を失う辛さを少しでも減らせるし、もし私のほうが先に消えてしまったとしても、私を失う喪失感を感じる人も出来るだけ最小限でおさえることもできますよねえ。って、あれ?これってなんだかガクトさんの若い頃の考えだったかもしれない。そんなようなことを言っていた気がします。でも、彼は今はそれと逆の考えをしているんですよね。私はそんな彼より強くないです。やっぱり自分のことしか考えられない。

私は出来た人間じゃないですから。自分のことしか考えていない最低な人間ですから。でもね、それでちゃんと生きていけるのなら、私は私を守るためにはこのままで生きていきたいです。それを誰にも否定はさせない。まあ、否定してもいいですけど。否定されても嫌われても、私は生きますよ。私に生きていてほしいと言ってくれる人のために。

…って、やっぱり話がだいぶずれてきた。こんなの言及とは言えないですよねえ。やっぱトラバは私は送れない。(苦笑)
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