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認めてくれなくていいけど存在はさせてほしい

2008年03月24日 10:51

Fragments 子供は見ちゃダメ!


まりねこさんのこの記事に全面同意しています。それは間違いないです。


そりゃ私の書いてきたものを穿り返してみれば「どんな表現だってすればいい」だの言ってきた私だし、私も18禁の過激な性描写シーンを書いてきたものだし、BLだって近親相姦だって幼児対象のエロ物だって肯定してきて規制されたくないと確かに私も思っているわけなんで、ダブルスタンダードだとか偽善だとか言われるだろうけれど、昔の考えと今の私はちょっと違ってきているんですよね。つーことで、それをちょっとつらつらと書いてみようかなあ。


まあ、結局はまりねこさんがが書いていることと同じことではあるんですけれど。つまり以下の文章。


そういう「大人が妄想するお楽しみの世界」は、あってもいいんですが、今のようにおおっぴらに、子育て中の堅気な家族や、通学途中の子供の目や手が届くところにあってはいけないんですよ。ネットの規制はシステム上難しいと思いますが、現物があるゲーム本体や漫画などは、「子供の目や手の届かないところに」隠そうと思えばすぐ隠せますね。表にしゃしゃり出てきて、さも「そこにあってもいい」ような顔をしているから、「この日陰者が。分をわきまえろ」と小突かれる。そういうことじゃないんでしょうか。



昔の私は虐げられたもの、たとえば過激な性描写等表現を規制されることについて、そういったものも認めてほしいだの、差別しないでだの声高に言ってきたもので、明らかにそういったものを嫌悪する人たちに対して敵意みたいな気持ちも持ってました。だから、仲良くなった人なんかで、BLは嫌いだと言う人がいたら、自分自身を全否定された気持ちになって、かなりネガティヴな気持ちを相手に持ったこともあります。何でも受け入れることのできない人にはクリエイティヴなことなんかできないとか、小説書くんなら何であろうとも受け入れて芸の肥やしにしなくちゃとか暴言を吐きまくってたんですよね。


でも、今の私は、それはちょっと違うなあと思うようになりました。禁忌なものを書いてしまうことや、読んでしまうことはどうしようもない自分の性癖なんだから、それを本当に嫌で直したいと思うなら直せばいいんだけど、私は別に直したいとも思わないし、自分の信念はやはり何でも受け入れられる人間がいいものを書くんじゃないかという想いが捨て去れないので、私はこのまま書きたいと思うものを書いていくだけです。それを認めてほしいとも今は思わないし、後ろ指差されることも辛いとは思っても、それは当たり前のことだと覚悟を決めて書いていくつもりです。というか、栗本さんが言ってたように、認められたらおしまいだという気持ちも今は出てきています。迫害を受ければ受けるほど、その迫害されるものは力を持つ気が何となくするんですよね。それが真の表現者たるものだろう、と。


4年前に日記で書いたけれど、自殺した芸能人の妻が子供たちに父親の死んだときの気持ちをよく覚えておくようにと言ったのも、表現者はそういった経験が役立つときがくるからという気持ちがあったからそのように気丈にも言ったのだろうと誰かが言っていたということだったのですが、こういったことは表現しない人にはやはり受け入れられない心情なんじゃないかなあとも思います。それが表現者と表現者じゃない人の違いであり、当時も書いたんですが、表現しない人に表現する人の気持ちはわからないだろうし、このふたつは相容れないもの。そして、また簡単に相容れられるものであってもならないんじゃないか。だから、非難するなら非難しろ、と。それくらいの気概がないと表現していくことはできないんだと、そんなふうに今でも思いますね。


で、話を戻しますが。


アングラ的なものっていうのは、日の光の下に曝け出すものじゃないです。それこそ「この日陰者が。分をわきまえろ」と小突かれるのが当たり前であって、それが正しい扱われ方なんです。アングラの魅力っていうのは、それなんじゃないかとアングラ側の私は思うんですよね。だから、差別されることを、ヘンな言い方すると誇りにも思ってしまうという。実際、アングラ的なものって日の光の下では醜くて汚らわしくてとても見られたものじゃないです。そんなものを、まだ幼い心しか持ってない子供が見たら、耐性がない分、メタメタに心は壊れてしまうでしょうよ。私は、温室で子供を育てるべきではないとは思っていますけれど、いきなり酷いものを見せて強くしろなんていうことは言いませんよ。徐々に徐々に、年齢に応じて試練を与えていくのが、子供へのちゃんとした教育だと思っていますから。
私もそれなりにエロ関係では他人の経験していないことを幼い頃から経験してますけれど、私の場合はまだマシでした。世の中には、もっともっと酷い経験を幼い頃から経験してきている人たちがいます。そういった人たちに比べて、私は年齢に応じた経験の仕方だったんでしょうね。たぶん。だから、そういう経験を踏まえて、何とか酷いものを子供には見せないようにしていかなくちゃならないとは思っています。そのための規制ならばしかたないことかなあとも。


そこらへんのことを6年前に日記で「青少年有害社会環境対策基本法」について表現者でもある私の立場からちょろっと語ったことがあるんですが、あの頃も表現者側としてはやはり規制はされたくない、どんな表現でもさせてくれという気持ちがあるとは書いたけれど、子供には年齢に応じた体験は必要というようなことも書きましたねえ。あの頃と違うのは「規制はするなー」と声高には言わないという点かな。正直な気持ちは規制されたくないんだけど、規制というものもなければ、酷すぎるものも当たり前のように子供たちの目に晒されてしまうことになるんで、それは私もヤバイよなあとは思うし。つまりは、都合のいいことではあるんだけど、こっそりやってる分には多少目をつぶってほしいよなあという気持ちも持ってたりするんですよね。ほんとはそういうのもよくないんだろうけれど。でもなあ、表現する側としては、なんもかんも十派一絡げで見てほしくないわなあなんて思ってしまうんだよね。表現していくための言い訳でしかないとしても。それでも大きな声では言うつもりはないけれど、そういった小さな声もあるんだよということで。ええ、もちろん、無理強いして子供たちに見せるような真似はしたくないという気持ちもある。それはわかってほしいとは思う。


それにまあ、規制されても、私はやはりこっそり書いたり読んだりしちゃうんですけど。どうあっても、私はアングラ側の人間だと思うんで。だからね、棲み分けは大事なことなんだよってことを私は強く言いたいです。だって、どうしても特殊な趣味を持ってしまう人は現実にいるわけですから、そういったものを完璧に削除してしまうには、洗脳するか、殺してしまうしかないと思うんですよ。それはさすがにできないでしょ。だとしたら、規制はするけれど、特殊な趣味の人は自分たちのテリトリーから出ていかないようにする、つまりは棲み分けをすることが一番無難な解決策だと思うんですけどねえ。


それと、蛇足ながら、6年前に書いた日記で私は「もっと過激なことを考えている」と書いたんですが、いい機会ですから書いておくと。確かに幼い子供に酷いものを見せてしまって成長に著しい障害を与えてしまうのは言語道断という思いもあるんですが、ただ、100人が100人、すべての子供がちゃんとした成長ができないというわけじゃないんじゃないかと思うんですよ。ほら、酷い環境で育ったから全ての子供が悪人な大人になるけじゃないし、親失格な親に育てられたからといって、すべての子供が性格に問題のある大人になるわけでもない。中には最悪な親に育てられたのにいい子に育つこともある。つまりは、劣悪な環境で育たない生物は生き残るだけの生命力がないということで、好き残る力のあるものだけが生きていくのが本来の生物の姿じゃないかと、そんなふうに思うんですよ。だから、私たち生物は世界に試されて生きているんじゃないかって。ここでどんな状況に晒されても生きていくことが大事であって、自滅してしまうようなら生きてく意味はないんじゃないか、それが生きる意味なんじゃないかって。だから、俗悪なものに染まってしまう者は、極端な言い方ををすれば生きていく価値はない、最悪な世界でも生きていく強さが価値のあることなんじゃないか、そのために子供たちは試されたほうがいいのかもしれない。これが当時思っていたことであり、今でもそんな風に思っていることでもあります。でもまあ、私も人の親となりました。だから、やはり我が子を谷間へと突き落として這い上がって来いとはとても言えないこともわかってます。私には突き落としてちゃんと生きる能力があるか試すというのも正しいという気持ちもあるんですが、そこまでの親としての強さはないんですよね。だから、結局は、試した方がいいという気持ちを持つと同時に、守れるだけ守ってやりたいという気持ちも持ってはいるのです。矛盾してはいるんですが、でもたぶん、この矛盾を抱えているのが人間っていうものなんでしょうねえ。




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