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否定についての嫌悪感

2008年03月30日 09:08

はてなブックマーク - Little Painter Ragtime Blues - 2008年03月30日


否定的な問いをする場合には相手に対する非難がことば(文章)の端々に込められているように思う(戦略的に込めることもあるみたい)id:suVeneさんは人の内面に関知しないので質問を受けても否定的には感じないのです。



すーさんが本当に相手の内面に関知しないのかどうかは私にはわからないけれど、でも確かにすーさんの「なぜ?」という質問には否定的なものが感じられない。もっとも、私に対してそんなに多くの「なぜ?」を投げかけられたことはないんだけど。でも、すーさんが他人に対して質問を投げかけているところは何度も目撃していて、まあ、他人事だからと思われてしまうんだろうけれど、それでも、私の目には悪意とか意地悪とかそういったものは感じたことはなかったよなあ。だってさ、似たような雰囲気の人は他に何人か知っているけれど、その人たちは見てて不快に思うことがあるんだよね。でも、すーさんの質問には不快感は抱かなかった。


はてなブックマーク - Little Painter Ragtime Blues - 2008年03月30日


意見が違えば否定されるのは当たり前ですが、正されるのには拒否感がある。



なんつーか、否定している相手はそういうつもりじゃなくても、たまに「正されている」と感じる否定の仕方をしている人がいる。それはまあ、こっちが勝手にそう感じるだけであって、他の人も私と同じように感じてるわけじゃない。けれど、自分がどうしてもそう感じてしまうのはどうしようもない。昔は、それを正直に表明していたけれど、今は公では嫌悪感を出さないようにした。なるべく相手が見ない場所で吐き捨てるっていう形を取ってる。


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新たに記事上げするのもなんなので、追記という形で書く。


心への介入 - メモ


非難するのは必ずしも悪意や意地悪をしてやろうというような真意があるからでもないと思います。
なにかの都合でその人を困らせようとかそういう他意がない場合、否定的なコメントを書き込むのはけっこうハードルが高いとおもう。
だから、はじめから否定しようと意気込んで(笑)いるわけじゃなく、どちらかといえば自分の正しさを主張したいのではないでしょうか。



たとえば私が書いたものに対して今までに何度か非難されたことはあるけれど、別に私はその人たちが私に対して悪意があるとか意地悪しようとして非難したとは思っていないんだよね。そういう悪意を持って何か言ってくるような人はほとんどいなかったと思う。それに覚えている限りで一人くらいしか「明確な悪意を持って非難してきた」という人はいなかった。それに、その悪意を持って私を非難してきた人にしても、本当に悪意があったのかどうかも自信がなくなってきている。なんて言ったら、その人は私に対してむかつくって思うかもしれないけれど。「そーゆーところが嫌いなんだよ」って。まあわかんないけど。ただの想像だけど。(くりりんされるかもしれないんで書いておくけど、明確な悪意を持って非難した人ははしごたんではないですよー、別の人だからねー^^;)


確かに、ゆっけさんの言うとおりで、否定的なコメントを相手に投げかけるのはハードルが高いと思う。いい人じゃないって公言している私でさえも、書かれていることに対して否定的な気持ちを持ったとしても、それを相手に投げかけるってことはほとんどしないし。それはいい人だと思われたいわけじゃなく、否定的なコメントをしたために議論しなくちゃならなくなるから。延々と続く議論は、昔、拉致問題の議論でうんざりするくらいに質問されたことがあって、もうたくさんだと思ってるんだよね。
それと同時に肯定的な気持ちを持ったとしても、今はなかなか書き込みはしなくなったな。「私もそう思う、それはね…」とその理由を書いたとしても、相手にとっては「だからなに?」になりそうな気がするからというのもある。それなら、否定的な意見も肯定的な意見も自分のテリトリーで自分語りと銘打って書き捨てればいいかなあと今は思っている。それを相手が読んで、何か書きたいって思ったら何か書いてくれるだろうし、その書かれたものを読む機会があればこっちも読むしという、そんな感じでやってけたらいいかなあって思ってる。それがいい意味での距離感だと信じてるわけ。


それから、自分の正しさを誰かが主張しても、それが押し付けに感じられない時もあるよ。私だって主張するような文章書くしね。だから、主張する人がいてもいいし、その主張に私が不快感感じたとしても、それはこっちの勝手だと思ってるし。それは相手がどうだっていうことじゃなく、あくまで私のほうの気持ちの問題で不快に感じるんだろうなあと思ってる。


けれども、質問するという形態を取りながら感じ方への非難やマイナス評価が入り込む場合、先に否定(拒否感)があると考えるのは当たり前じゃないでしょうか。
そこで、自分の意見を否定されるのはそれほど嫌なことなのか?という問いかけが生まれてくるわけですが、そもそもが、「感じ方」にいいも悪いもなく、そこに介入してくることそのものに警戒心や拒否感を持ちますね…。



質問するという形は、大抵はわからないから質問するわけですよね。確かに非難やマイナス評価が入り込んでいる質問の場合は、否定があるからそうなるのは当たり前のことなんですけれど、でも、だからといって、全部が全部、嫌だなあと思うわけじゃないですよ。他の人はどうか知らないけれど、私に限りは別に相手がどう感じようがいいも悪いも思わないし。ただ、いいとか悪いとかは思わなくても、不快に感じる時もあるということ。そして、その不快に思ったり不快に思わなかったりというのも、たぶん、人によるのかなあって。言ってきた人にもよるんじゃないかってね。私には、この人には「そんなこと言われたくない」と思うことがあるし、また逆に、その人にはどんなに罵倒されても平気ということもあるから。
本当は、言葉だけで判断すべきなんだろうし、今までの私なら、気に食わない人が書いているものがいいものだったら、書いているもので評価すると言ってきたものだけど、どうもね、結局は私も書いている人で不快感を感じてしまうところがあるみたいだって気がついた。でもまあ、それは自分の言っていることを気に食わない人に否定された時に激しい嫌悪感を感じるってことであり、気に食わない人が書いていることがいいことを書いてた場合は、それは評価するよ。気に食わないヤツだけどいいこと言ってるよなあって。あくまで、嫌悪感は自分を否定された時ってことで。気に食わない人だからって、なにもかもに嫌悪感を感じるわけじゃないよなあ。




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