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私のとっての幸せは

2008年10月17日 09:22



私は感受性が強いと自分で思っている。その感受性は幸せをより一層他人より強く感じると同時に辛いことや痛いことも他人と比べてかなり敷居が低いとなるわけで、感受性が強いことが本当にいいことかどうか、普通に考えたらあまりいいとは言えないのだろうな、と思う。誰かを好きになったら猪突猛進一直線に他にはまったく目もくれずっていう感じでもあるんで、相手が私を好きになってくれなくても自分の好きという気持ちはなくならないわけだ。それは辛い。私の辛いという気持ちは他人の辛いよりとんでもなく辛いことになるわけで。本当いうと、感受性というものを投げ出してしまいたいと思うこともある。ただ、私は一応曲りなりにも小説を書く創作サイドの人間なんで、その感受性が創作の手助けをしてくれることも多々あるんだよね。絶望に繋がる経験がいい経験になるのかという疑問を投げかけている人がいたけれど、間違いなく創作サイドの人間は、どんな感情を抱く経験もいい経験になるだろうということ。もちろん、そのいい経験っていうのは、すべての人間に言えるものじゃない。少なくとも創作なんてしようとも思わない、平凡に静かに生きていきたいという人にとってはあったら邪魔で不幸なだけのものだと思うし。

感情起伏があまりない人を、私は確かにうらやましいと思っているところがある。こんなこと大したことじゃないと飄々としている人を見ると、嫉妬と羨望でその人のことをどす黒い思いで見ていたりもする。まあ、だからといって、その人が悪いわけじゃないとはもちろんわかってるし、その人に攻撃的に何かをけしかけるということはしない。抱いてしまう気持ちはどうしようもないんで、どうしても嫉妬と羨望は抱いてしまうけれど、昔はそういった気持ちを持つだけでも罪悪感に苛まれもしたけれど、今は別にそれが悪いとも思ってないしね。というか、私なんてあれだよね、すごく自分の都合のいいことしか考えてないところがあるかも。だって、感受性も手放したくないけれど、痛いことや辛いことには鈍感になりたいという、とにかく二兎を追って二兎を得たいという気持ちしか持ってなかったから。それは出来れば今でもその二兎を手に入れたいと業突く張りなことを思ってたりもする。でも、両方を得ることのできる人ってまったくいないわけじゃないとは思うけど、それこそ選ばれた特別な人だと思うんで、私にはたぶん与えられるものじゃないと思うしねえ。

以前、病気したとき、病院の待合室で「今からカメラ飲むのよー」なんていうふうに明るく笑ってたおばさんを見たことがあったり、「そりゃちょっとやだなあとは思うけど、そんなに大したことじゃないわよ」と胃カメラのことを話してた人もいたりして、そういったことを思える人が本当に心からうらやましいと思ったものだった。そりゃ、カメラなんかよりもっともっと痛くて辛いものはあるんだけど、それでも、とりあえずカメラが大したことないと思えるようになれば、だいぶ生きていくのもそんなに大変じゃないかもなあと思ったことは確かだし。子供の頃は嫌で嫌でしかたなかった注射が、ある時ふっと「なんだ大したことないじゃん」って思えるようになって、一つ嫌だったことを克服したことで少し生きやすくなったなあと感じたことがあったんだけど、それってたぶん、注射に慣れてしまったからとも言えるし、実際に慣れっていうものもあるんだろうなあと気づいた瞬間でもあったんだよね。それに、感受性も少し鈍ったんだろうとも思うし。子供って感受性は大人より強いと思うから、大人になっていくって、少しづつ感受性が鈍くなっていくことなんだろうと私は思っているしね。だから、感受性とかそういうものが鈍くなれば、たぶん胃カメラとかも「大したことない」と思えるようになりはしないかと思ったこともあったんで、そういった部分での鈍さのある人間にはなりたいと思ったものだった。

たぶん、私にとっての幸せって、感情が安定して平坦な暮らしができるってことに尽きるのかもしれない。たとえば大金が手に入るとかといった素晴らしい状況になることも、ものすごく不幸な状況になることもどっちも同じという気持ちがあって、そこそこ慎ましく暮らしていくこと、ほんの些細なことが幸せと感じたり、ちょっとした諍いでちょっとだけ胸を痛めたりする、よくも悪くもない、そんな平凡な暮らしを、心の底から望んでいるんだろうなあって。それが素直な私の本当の気持ちなんだろうな。

そんな今日、結婚19年目の記念日です。(笑)




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