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一番作者を無視した存在

2009年10月13日 07:11

ちょっと前になるんですけど、ついったーで23mmさんが呟いていたことに反応したんですが、その呟きがこちら

『現代詩の詩集なんてまず買わないしな。そんな我が家にも谷川氏の詩集はあるんだよね。』


それに対して私はリルケの詩集とネットで知り合った人が出版した詩集を持っていると答えたのですが、考えてみたら私って詩集ってそれ以外は持っていなかったなあと思ったんですね。詩を読むのはそんなに嫌いじゃないし、自分でも詩はけっこう書いてはいるんですけど、本としては持ってないんだなあって。それに、リルケの詩集にしても、もともと母のもので、リルケの書いたものに興味があったから貰い受けたということもあり、自分で買った詩集って友人の詩集だけなのかもしれない。まあ、ほかに詩集っぽいものを買ったことはあったけれど、そういったものはあまり詩集というふうには私は捉えてなかったからなあ。でまあ、リルケにしたって、竹宮恵子がマンガで引用していなかったら存在さえも知らなかっただろうし。

私も子供の頃に日記とかで詩などを書き綴ったりして詩自体に接してきたことは確かなんですが、教科書で習った詩人などもほとんど覚えてないんですよね。誰かこの詩人がすごく好きというものがなかったという。私の場合は好みの語句が詩の中で出てくれば、これいいなあとなってその詩に執着持ったりすることはあっても(それは短歌とか俳句でもそうだった)書いた人に対しては興味を持つってことはほとんどなかったんです。だから、リルケにしたって、リルケが好きというよりも、リルケの書いたこの詩だけが私にとっては特別な詩だったわけです。竹宮恵子の「ジルベスターの星から」に書かれたこの一文。

『だれがわたしにいえるだろう
  わたしのいのちが
    どこへまで届くかを?』


これがひとつの詩なのか、ひとつの詩の中の一文なのかはわかりません。なので、これを読んでみたいと思って、ちょうど母が持っていたリルケの詩集から探してみたのですが、見つかりませんでした。ただ、「ジルベスターの星から」には、もうひとつリルケの詩が出てきます。「わたしは生きる しだいに大きく…」という詩です。それはちゃんとその詩集には掲載されていました。でまあ、今でもあきらめきれない私は、検索でちょっと調べてはみたんですが、やっぱり見つからないですね。タイトルでもわかればいいんですが。すると、検索のトップに出ていたある方の書いたものに興味を持って読んでみたんです。

『今日、実は大きな書店に寄ったので、このリルケの詩を読みたくて探しましたが見当たらず・・岩波文庫ならあるかと思ったんだけどなあ。「ドイツ名詩集」にはリルケが採られてたんですが、この詩はなくて。学生のときは「リルケ詩集」を持っていました。これは旺文社文庫だったかなぁ??もう無くなってしまったので残念です。また別の書店で探してみよう。

「だれがわたしにいえるだろう わたしのいのちがどこまで届くかを?」・・・この詞を目にしたころは、作品世界と相まって、物理的に遠くに行くことばかりに思いを馳せていました。どこまでも、どこまでも遠くに行ってみたかった。だから、英語もまるでダメだというのにヨーロッパを1人で放浪してみたりといった無茶もできたのでしょう。

今、この詞を胸に折りたたんで、そしてそっととりだしてみた時、違う感慨がありました。いのち、という限られた時間の中で、どこまでその心で高きをめざせるものか、というような。人生を広く、広くと夢見ていた思いが、今厚く、厚くと考えているということは、精神的に老いたというべきなのか、それとも視点が変わったのか、計りかねますが。』(「わたしのいのちがどこまで届くかを? 空音な日々のつれづれ」より引用)


この方も見つけていらっしゃらないようですね。ほんとどこにあの詩は綴られているのだろう。

私がこの一文と出会ったのは中学生の頃。引用させてもらった方のようにまた私も「どこか遠くに行きたい」と思っていたんですよね。今もその気持ちは変わりはないですけれど、なんと言うか、「どこか遠くに…」と思う時のその気持ちを感じることのほうが好きなのかなあと思うようになりました。
子供の頃のようにどうしても今の私には自分に対しての可能性というものを信じることはできなくなってしまった。それはやっぱり自分がもう若くはないのだということ。ただ、まだまだこの年でも可能性はあるということは頭ではわかってはいるんですけど、やっぱりね、どうしても身体の衰えとかをしょっちゅう感じるようになってしまうと、可能性を信じるよりも残りの人生を無難に過ごしていきたいと思うようになってしまったんですよ。そうなると、実際に「どこか遠くへ…」を実現させるよりも、その気持ちだけを楽しみたいとなっていく。それはもう私のような性格のものにはしょうがないことかなあとも思います。ほら、なんてったって私にはお得意の妄想がありますから。(笑)
そこで生まれる妄想が小説になるわけですからねえ。これはもう可能性を信じられる子供の頃からやってきたことでもあるんで、なかなか変われない性質だと思います。まあいいんです。私はそれで幸せなんですから。


で、本題。またしても前置きが長くなってしまったんですが。(笑)

23mmさんのレスで思ったことなんだけど。

『詩のリズムが翻訳で崩れてしまうだろうというのが気になっちゃうんですよね。かと言って、原語で読める程の語学力もないし。』


リルケの詩集も原語ではなく翻訳です。私は外国語がまったくチンプンカンプンなんで、翻訳されたものしか読めないわけで、だから作者の真の言葉というものは理解はできないだろうなあとは思ってはいても、それは別にどうでもいいことで、読んだ自分がどう思うかだけが大事だと思っているんですよね。翻訳されたものであっても、自分が「いいなあこれ」と思えることだけが大事だって。まあ、そうなると、翻訳する人の感性が重要な鍵になってしまうんでしょうから、いかに自分の好みに合致する翻訳家にめぐり合えるかどうかになっていくわけなんですが。

で、23mmさんの言っている詩のリズムというものって、原版と翻訳版ではやっぱり違ってきてしまうのはしょうがないかなあと思ったんですよね。それで、それがイヤなら頑張って原版を自分の力で理解していくしかないと。私も詩の持つリズムって大切だなあと思っているほうなんですけど、それは翻訳で感じられたらいいやと思ってもいるんで、23mmさんみたいに崩れることを気にするってことは私にはありません。そこに書かれたものだけが私のすべてですから。まあ、ある意味、一番作者を無視している読者とも言えるわけですけどね、私ってヤツは。

ところで、リルケの詩集を本棚から探している時にこんな本を見つけてきました。それは「人生の知恵 リルケの言葉」というもので、初版が1969年に出ている書籍です。リルケの詩を取り上げて、それについて解説というか論じているといった内容のもののようなんですが、おそらく古本屋でゲットしたものだと思います。もしかしたらあの詩が見つかるかもしれないと思って購入したんでしょうね。どうやら、載ってなかったようです。で、興味をなくして本棚に突っ込んだままだったという。つまり読んでない。せっかくだから、ちょっと読んでみようかなあと思っています。




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