スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

適度に無関心、適度に関心

2009年11月19日 09:44

『なんの事件だったか忘れたけど、最高裁判事が「被告は死刑、反社会的で更正の余地無し」みたいなこと言ってたのを見て、ぼくは、ぼくも反社会的で更正の余地無しなんだけどなぁ、と思っていた。反社会的といっても、社会に対し積極的な破壊活動をするわけではなく、もっと消極的なものだ。ひとことで言えば、社会への非協力的な姿勢("反"社会的ってか"非"社会的、か)。件の被告との差は、法に反するようなことはしていないという、ただそれだけ。』どうでもいい人 - 「で、みちアキはどうするの?」より引用


みっちーは自分のことを犯罪者と同じようなもんだと言っている。そのものの言葉ではないけれど、自分も「反社会的で更正の余地無し」「社会への非協力的な姿勢」であって、ただ犯罪者と違うのは法に反することはしていないということだけだと。法を犯した犯罪者は隔離されたり(刑務所)、排除されたり(死刑)されるわけだけど、積極的に犯罪に手を染めてしまう人間はそりゃもう等価交換でなんらかの罰を与えられるのはまあしょうがないとしても、頭の中でどんなに犯罪の妄想を巡らせていたとしても、そして、法は犯してないけれど、ギリギリなところでまだ一線を越えていないというのには罰を与えられることはない。もっとも、別の形での罰を与えられているという可能性はあるんだけど、それを知るすべは私たちにはない。

私はどんな人間でも排除されるべきではないという考えを持っているけれど、それが絶対だとも思っていなくて、場合によっては「こいつは死ぬべきだな」という考えも持ってたりする。それはまあ、単純に、ある犯罪者に対して「こいつは生きることに執着している。そういった人間は死刑に臨む時に恐怖を抱いて己のしたことを反省するんじゃないか」といった感じで、その人間によってどんな罰が一番こたえるのかということを考えて刑罰を突きつけることが望ましいと思っているからだ。だから、私は、積極的に排除されるべしという考えの下で行動を起こすことはしない。どんなにその犯罪者が凶悪な犯罪を犯したとしても。排除されたくて犯罪を犯す人間もいるはずだから。刑罰っていうのは、その犯罪者がどんな刑だと一番苦痛に思うのかを決めることであってほしいと私は思っているから。そうじゃないと犯罪なんてなくならないと思っているから。もっとも、私の考えの刑罰の決め方であっても、絶対に犯罪はなくならないことは確かだ。中には等価交換を覚悟で犯罪を犯さなければならないという考えで犯罪を犯す者もいるはずだから。そういった人間にはどんな罰も抑制にはならないからね。

『基本、世の中どうなってもいいや、と思っている。ぼくが死ぬまで(それは5年先か10年か、最長でも20年内のことだろう←そのくらいで自ら死んでやろうと思っているので)保ってくれればいい、と思う。あとのことはしらない(悪くなれとも良くなれとも思わず、ただ関心がない)。このあと誰かと暮らす気もないし子供を作る気もない。ひとりで出かけひとりで遊び、くだらないニュースに笑い、自殺者増加のニュースに胸をときめかす。』どうでもいい人 - 「で、みちアキはどうするの?」より引用


無関心が一番悪いということも聞く。それだから犯罪が増えるとも。それはそうかもしれない。無関心だから誰かが何かの悪いことをしていても自分には関係ないねと見過ごすことによって、犯罪が増大してしまうこともありうるだろう。そして、実際に無関心な人間が増えてきているとは私も感じる。まあそれだけでなく、自分にまで被害が及ぶことを恐れて、どうしても無関心を装わなければならないっていうのもあるだろう。それは電車内で痴漢されている女性を知っていてとめられない人がいたということからも思ったことなんだけど。昔は近所の怖いおじさんおばさんが悪いことをしている子供を叱ったり、悪いことをしようとしている人をとがめたりして未然に防ぐっていうことがよくあったと聞くけれど、それって今でもまったくないというわけじゃないとも思う。ただ、そういったうるさいおばさんやおじさんよりももっと増えてしまったのが無関心な人、あるいは保身のために行動を起こせなくなった人ってことなんじゃないかと。というか、無関心って犯罪を犯す側も無関心だから問題なのかなあとも思った。つまり、人が見ているのを知っていても悪いことを堂々としてしまうっていうのも無関心が関係してるとも言えるから。たぶん、昔の犯罪者って自分が悪いことをしているのを何とか人に知られまいとして隠して犯罪を犯す犯罪者がほとんどで、今の犯罪者は誰が見ていようとも周囲に無関心でいられればどんなことでもやってのける犯罪者が今は増えてるような気がするんだよね。それもまた無関心のなせることなんじゃないかと思うわけ。こう考えると無関心って罪なことだよなあと思える。なんか今思い出したけど、生前、梓さんが更新日記でこういった世間の無関心さについて書いていたような気がする。それはよくないというようなことを。もう彼女の日記で確認取ることはできないんだけどね。無関心は時として罪になる。けれど、人々は無関心で自らを守ってもいる。それは私も感じていることだから。私にも無関心から一歩を踏み出すのにはなかなかに勇気がいることだよなあとは思ってもいたりする。

『そしてぼくは、美味しいコーヒーやお酒を飲んだり、美味しいものを食べつつ本を読むという、それだけのことがほんとうに楽しくて幸福で、自分のことと世界のことが大好きで、生まれてきてよかったなーといつも思う。ありがとう、と言う。で、他の人ってどうなんだろうなー、とちょっとだけ思うんだった。(この人はまぁだいじょうぶそうだな!って人もいっぱいいるけれど)』どうでもいい人 - 「で、みちアキはどうするの?」より引用


私もどちらかというと、みっちーのように反社会的なところがないこともない。たとえば地域の自治会、学校のPTA、会社での人間関係などといったものの重要性を頭ではわかってはいても、自分は積極的にそれらをやっていこうという気持ちはない。自分のやりたいことを邪魔されたくないと思っているから。そのやりたいことっていうのは私にとっての生きがいであるから、それを脅かすものから逃れたいと思っているからだ。それは身勝手なことだとわかってはいても、そうじゃないと自分は何をしでかすかわかからない、へたすりゃ犯罪者になってしまう可能性だってあると思うからだ。もっとも、そう思うだけで、きっと犯罪なんて犯さないという気持ちも持ってたりする。すべてはその時になってみないとわからないからねえ。断定はできないよ。ただ、犯罪さえ犯さなければ、自分が楽しく生きるために少しばかりの無関心を装っても悪いことじゃないと思う。無関心自体は悪ではない。それを行使する人間によって悪にもなるし良いものになるとしたら、良いものとして無関心を使いたいと思うのが道理。ただ、私の正直な気持ちとしては、無関心にはあまりいい印象は持っていないようだ。だって、無関心とは程遠いガクトさんのような人に魅力を感じるから。でも、考えようによっては、無関心な生き方ではないけれど、ガクトさんもまた将来のことよりも「今現在」を一生懸命生きるという人でもあるだよなあ。これって「今」以外は無関心とも取れるよねえ。

つまり、あれかな。やっぱ両極端はダメってことかな。適度に無関心、適度に関心を持つ。それが一番上手な生き方なのかなあって。ただ、これって適当に生きるってことじゃなく、考え方や生き方を臨機応変にするってことだよね。まあ、グダグダとなんかいろいろ書いたけど、一番言いたいのは、私も自分が好きで、世界が好きで、ガクトさんが好きで、みっちーも好きで、だから、今は楽しく生きてるよ、たとえまたあのつらい日々がきたとしても、自分が好きなこと世界が好きなことを、楽しいことをまたやりたいと思えれば、きっと生きていけるし(でも、正直な気持ち、やっぱつらいのはもうイヤだ)、ほんと生まれてきてよかったなーと、この世に生み出してくれた母に感謝できるなーってこと。私だって一時は母に対して「なんで産んだんだよ」って、つらい思いにとらわれていたときに思ってたけど、ちょっとだけ意識を変えることで、楽しく生きられるんだと思えるようになった。それは私が変わろうとして変わったというものでもないけれど、数少ない経験と人々の想いに触れたことで獲得した変化だったんだよね。それは少しの関心だけで手にできるものなんだ。だから、私は今幸せだよ。少し前まで不幸だったけど、今は幸せ。他の人もそうなれればいいなあと、本当に心からそう思った。




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。