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様々な意見が並ぶことは大事

2009年11月27日 17:36

『人に理解されたり、よろこばれようなんて思うな。

むしろ認められないことを前提として、

自分を猛烈につき出すんだ。』


という、岡本太郎の言葉をすべての表現者に送るということが書かれた記事を見た。これってちょっとデジャヴ。似たようことを生前、梓さんが書いてたなあって。梓さんの場合は「認められたらおしまいだ。むしろ認められないからこそ力を持つんだ」みたいなことを言っていたと記憶する。でもねえ、確かにそうなんだけど、それはなかなかに難しいことなんだよね。私なんかもけっこう昔よりは神経は図太くなったとは思うけれど、最近は酷い誹謗中傷を受けたことがないこともあり、今また昔よりもっと酷い目に遭ったとしても「私は好きなものは好きなんだ」と堂々と表現していられるかどうか自信はない。たぶん、ほとんどの人がそういった強さは持ってないと思うよ。だから、簡単に他人に対して「強くあれ」とは言えないんじゃないかなあ。

一連の記事は読んだ。あえてここでは詳しくは取り上げないけれど、その二つの記事を読んだことでちょっと思ったことを備忘録。てか、またしても前に書いたことの繰り返しを語るわけなんだけどね。私がガクトさんを好きだということを否定されたときのことを。私もまた、自分の好きを否定されて傷付いたわけだ。でも、本当に好きであればその気持ちを否定されても「それがどうした」で負い目を感じることもないんだけど、不思議なんだよねえ、好きであるという気持ちを否定されたら、どうしても負い目を感じてしまう。それはなんでなんだと考えてみたんだけど。これはもうそういった条件反射の持ち主ってだけなんじゃないかなあ。負い目を感じない人も確かにいたりするんだけど、私からすればそういった負い目を感じない人っていうのも困りもんな人種だなあと思ってるんだよね。これもまた偏見ではあるんだろうけど。ただ、それこそ、梓さんが言ってたような感じで、負い目を持たないことで堂々と表現するよりも、負い目を持って隠れて鬱々と表現することで、その作品になんかこうものすごい凝縮されたパワーみたいなものが宿るといったそんなふうになりはしないかなあと。でもまあ、負い目なんかまったくなくて明るく清々しく気持ちいいパワーっていうのもあるんだろうから、私はどっちも否定はしたくないんだけど。BLなんかで甘甘な男女の恋愛みたいなものだって私は嫌いじゃないし、痛過ぎる内容とか耽美や退廃な内容の同性愛文学だって大好きではあるし。ようは好みの問題ではあるんだけどね。

私がガクトさんを好きだということ、そのことを「それは本当の好きじゃない」と否定されたり、「ガクトが好き?あんな気持ち悪いののどこがいいの?」と言われたり、私だってそりゃあもう何度となく自分の趣味を否定されてきたものだ。ガクトさんだけに限らない。他にもいろいろ理解されない趣味とか好みとか私にはいっぱいある。そして、それを誰からも「そうだよね」と肯定されることはほとんどないのだけど、その都度やっぱり私はしょぼんとなって自分を否定されたような気になる。これはもうそういった性格だからとしか言いようがない。子供じゃない大人である私でもそうなんだから、心が幼い子供であれば、大人や他人が理解できない傷付き方もする。「こうであればいいんだよ」「気にするな」「何も悪いことしてないんだから負い目なんてかんじる必要ないんだよ」と言ったとしても、それを「そうですね」となって好きを貫くことってなかなか難しい。それにはやっぱり時間が必要だし、あと経験も必要だ。何度も傷付くことで辿り着ける境地であるんだから、今すぐ結果を求めることはそりゃもう無茶なことだよなあと私は思う。

ただ、いつかは子供たちも気づくだろう。だんだんと傷付いてもそれほどのダメージを感じなくなったみたいだなあって。そして、「気にすることない」「負い目なんか感じるな」と言ってくれた人がいたなあってね。だから、「好きなら好きを貫けばいいよ」と言っておくことも大事だと思う。いずれ気づく人のためにも。様々な意見がウェブ上にあることが望ましいと私が思うのは、そういうことなんだよ。




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