スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

どんなことでも書いていいよと言われたい

2014年08月29日 11:12

「人生を切り売りするってのは周囲の人を切り売りしていることに等しい - novtanの日常」

あんまりこういう界隈にいる人達に会いたくないなって思うのはそういうところもあって、会うとなんだか「隣人」になってしまう気がするんだよね。オフレコ感がないというか。

例えば所属が割れている人がさ、「最近面白かった同僚の行動」みたいなのを書いちゃうわけじゃん。いやそれ誰のことだかバレバレですからみたいになるじゃん。

だから人生切り売り芸の人が周りの人たちに大きな影響のあるようなネタを書き始めるとイライラする。お前がお前の人生を切り売りするだけなら良いんだがそれは他人の人生の一部だ。みたいなね。

もっとも、日本の伝統的な売文業においては他人の人生を切り売りすることがよく行われていたわけで、伝統芸能とも言える。ただ、歴史に残る芸術としてではなく、ネットの片隅でゴミのように漂着してしまうような売られ方は売られる相手が可哀想だ。


久々に引用というより転載的な感じになってしまったんだけども。つか、出勤前のわずかな時間に書いちまう暴挙なわけで、脊髄反射的な書き方になってしまいそうなんだけども。と、言い訳しておいて。(笑)

まあ、わたしも似たようなもんだよね。日記なんて自分だけのことじゃなくて自分の見知った人たち、あるいは知らない通りがかりの人たちのことを書いてしまうこともある。こともある、どころか、そういう何かしらネタになりそうなことをやったり言ったりしてる人たちがいるからこそ書いちゃうわけで、なーんもなけりゃ書かないわけだ。今、わたしが↑の人が書いたものでこんなふうに「こんなこと書いてる人がいてさー」って感じで、ね。それはもうしかたない。書かれたくないのならまったく人と接触しないという生活しかできないわけだ。まあ、だから書かれることを受け入れろっていうつもりはもちろん毛頭ない。ほんとは書く側が配慮しなくちゃならんのだろう。でも、書いてしまう、それがわたしのようなタイプの人間だ。

わたしの本当の願いは「どんなこと書いてもいいよ」と言ってくれる人ばかりになってくれること。でもそれは無理なこともわかっている。書かれたくない人だっているだろうし、いることが正しい。わたしのことも否定されたくないというのなら、書かれたくない人のことも否定しちゃダメだろうから。だから、わたしは「書いてもいいよ、どんなことでも」と言ってくれる人としか付き合えない。それもしかたない。

わたしの母が「どんなことでも書いていいよ」と言ってくれたことが、だから本当に嬉しかったし、自分の母を誇りにも思った。本家ブログで母の病気のことをチラッと書いてはいるけど、これが昔だったら、もっともっと詳しく書いていただろうなあと思う。今はその時間が取れないので書かないけれど、それでも、普通なら書かずに伏せておく母の病気のこと、公開された場所にわたしは書いた。母は書かれても平気な人だから。なんというか、ああいった人もいないよなあ。それが自分の母であることに不思議な縁を感じる。ああ、やはり、わたしはこの人の娘なんだな、って。

「人生を切り売り」か。切り売りするっていう言い方は、確かにあまりいい意味には取れない。切り売りした先には、いつか切り売りするものがなくなるという未来しかないようにも思えるから、なのかな。まあ、実際は生き続けていくうえでさらに切り売りするものが増えていくという人もいるだろうから、あとからあとから温泉の湯のように尽きないという場合もあるだろう。うちの母みたいに、まるでネタがつきないという人生を歩んでいる人もいるからねえ。とはいえ、わたしの力のなさでなかなか彼女の自伝を代わりに執筆するということもできない。だって、わたしはああいったものを読みたいって思わないんだもの。それを書くことは、だからない。

……あああ、時間切れ。なんかもっと書きたかったんだけど、もう出勤準備に取り掛からねば。


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)



    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。