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理解できなくても

2012年09月22日 10:42

ついったーのタイムラインに流れてきたこのツイート。




あらー便利だわー。今までだったら、手書きで引用したんだけど、ついったーに「このツイートをサイトに埋め込む」をクリックしたらタグがちゃんと用意されてた。へー。(笑)

とと…脱線脱線。(爆)

うるるんさんの言う通りで、人、というか、ネットで何かしらこうやってブログなどを書いてる人ってーのは主張したいから、だからこそこんなふうに書いてるわけだ。どんなに「主張したいからじゃない」なんて言っても。本当に主張したいなんて思ってないという人は、そもそもネットに自分の考えや意見なんぞ書かない。私だって、主張したくない時は書かないもん。まあ、その主張を誰かにどうしても読んでもらいたいかどうかっていうと話は別だけどね。伝えたい相手に読ませたいというのもあるだろうけど、そんなに相手に伝えたいとは思ってない場合もあるだろうし。あと、私みたいに、自分自身に読ませたい、つまりは、後に読み物として読み返したいから書いてるっていうのもあるしねえ。で、私の場合は、せっかく書いたんだから、誰か読んでくれたらいいかなーという軽い気持ちで誰でもが読める場所に置いてるということ。

さて、うるるんさんのツイートに反応したのは、まず孫引用となる『わたしたちはどうしたってわかりあえないし,わかりあえない相手の思考を理解することはおそらくできない』っていう言葉。これ、いつだったか梓さんも何かで書いてたなあと思ったわけ。まあ、そんなに目新しい言葉ってわけじゃなく、わかりあえないことは当たり前のことで、だけども、それを絶望と取ることはない、わかりあえないことを前提としていれば、そんなに対人で衝突するということもないだろうなあ、みたいなことをどこかで誰かが言ってたように思う。なんつーか、私なんかも誰かに理解されない人間であり、昔はそれがどうしても許せなくて、どうしても理解してもらいたかった。もちろん、理解してほしい相手は自分にとって好きな人だ。でも、私は、好きじゃないどうでもいい誰かの理解も得たいと傲慢にも思っていたんだ。それが、後にやっと、好きでもないどうでもいい誰かの理解なんてどうでもいいじゃないかと思えるようになった。そして、好きな誰かの理解も、理解されない事はちょっと悲しいなと思っても、それでも理解されないことはしかたない、理解されなくてもいいや、となんとか思えるようになった。ただ、好きな誰かに「理解はできないけど、理解したいという気持ちはあるよ」と言われることは願った。理解できないから離れていく人の中で、そういった人も必ず一人はいるから。それが「幸せ」なんだなあって。

と、理解云々はここまでで。

うるるんさんのリンク先のはてなハイクの会話は、初音ミクにまつわる理解についての記事を書いた人が、その自分の記事に一人の人がスターを何個もつけてて、それが不愉快だから一個に減らしてくれと言っていて、それへのコメントをスターつけていた人が「その不愉快の理由を教えてほしい」と言っているもの。不愉快さっていうのは人それぞれで、万人のわかる不愉快さだけじゃなく、その人だけの琴線っていうものがあったりするのは、私もとんでもないことで不愉快さを感じてしまうこともあるから、理解しがたい不愉快さを持つ人の気持ちはわからないではない。でも、相手の「なんで?」という気持ちもわかるから、相手に聞くことも悪いことじゃないだろう。何も聞かずに「そうですか、じゃあ、減らしてきます」と言ってくれる人もいないわけじゃないしね。私の場合だったら、「なにそれ、変な奴」って言われたくないから、たぶん言わない。何が原因で不愉快になったか、なんて。昔、一度、そういうことがあった。その時は相手に聞かれなかったから、わざわざ聞かせることもしなかったけど、それでも、私の気持ちを誰かにわかってもらいたいから、後にどこかで「これこれこういうことで不愉快になったのよ」と書いた覚えはある。今は理解されたいとは別に思わないから、他人が「なにそれ」と思うようなことが理由の場合は書かないけど。私として、は。別のキャラではどこかで呟いてるかもね。(笑)

それにしても、その問題の記事。

初音ミクについては、確かに新しいものだよなあという気持ちはあれど、でも、小説書きでキャラ作りしている自分としては、技術的なことは新しいんだろうけど、そもそも作り上げられた架空のキャラに歌を歌わせているっていうの、小説書いたり、マンガ描いたりするのとまったく違いはないよなあって思っている。表現のひとつの方法ってことで。初音ミク、アニメのキャラみたいなもんじゃないのって。なんでそれを「気持ち悪い」と思えるのか、その気持ち悪いと思う人はアニメとかも気持ち悪いって思ってんだろうか。アニメと初音ミクは違うとでも言うんだろうか。私にはどっちも違うようには思えない。だから、気持ち悪いっていう人のほうが理解できない。私は、初音ミクに熱狂してなんかいないけどね。それでも、気持ち悪い、理解できない、なんて言う人を理解できないなあ。

まだ、初音ミクは、ちゃんとした映像として具現化されてるよね。私の場合は、具現化といってもせいぜいイスラトで描いた自分の生み出したキャラで「ごっこ遊び」をしてる妄想女。どうにかすると、明確な画像もないのに、ひとつの作り出されたキャラで遊ぶこともある。つまり、ネット上で作り上げたキャラでいろいろ発信して、会話などを楽しむとか。やっぱ、そういうほうが理解され難いと思うんだけどなあ。でも、けっこうそういう人って多いと思う。妄想を楽しむ人って。まあ、確かに、以前は私も「気持ち悪い妄想女」って言われたこともあるしねえ。つまり、やっぱりわかりあえないもんはわかりあえない。わかってくれない人にわからせようとしたって無駄なこと。互いのテリトリーには踏み込まないのがいいんじゃないかな、なんて思う。とはいえ、自分の主張はしてもいいと私は思うんで。自分のテリトリーで引用して書くことは悪いことじゃないよねって。相手のテリトリーまで行って主張はNGだろうけど。

健康でいたいから

2012年09月09日 22:12

『海燕@萌え豚‏@kaien
ぼくには「辛いこと、苦しいことをそれでも目的のためにやり抜く」みたいな力が決定的に欠けていると思う。好きなことならいくらでもできるのだが、好きじゃないことは全くできない。つまり、根本的に社会人に向いていない。』


かいえんさんのこのツイート見て、プチシンクロしちゃったんでレッツラリンク。今夜はちょっとユウウツになってしまうような電話があって、自分を本当に反社会的な存在だと認識していたところに、かいえんさんの↑のツイート見ちゃったんだよね。で、すんごく頷いてるわけ。来年はもう50になるというのにね、わたしゃいったいいくつだよって自分でも思うんだけど、それでもやっぱり私は好きじゃないこと、やりたくないことはできないし、やりたくもない。ただ、それを公では堂々と言えない。言い訳ばかりしてスタコラと逃げ出すしか。で、開き直ってしまえば、それはそれで別にかまわないと思うんだ。この間テレビでも言ってたしね、長生きしたきゃいい人やめればいいって。自分勝手でいいんだ、自分のせいじゃなく他のせいにすればいいんだ、とにかくいい人じゃなきゃって。憎まれっ子世に憚るって言うけれど、それと似たようなもんでしょ。本来は、「人から憎まれるような者ほど、逆に世間では幅をきかせるものである」なんだけど、人から嫌われるような好き勝手な生き方をする人間ほど病知らずの長生きっていうのに通じるよなあって。

リンク先では、かいえんさんが宝くじ当てたら仕事辞めるタイプって言ってるんだけど、日頃から私は宝くじ当てても仕事は辞めないと言っていたのだけど、それは今の仕事が好きだからっていうのもあるし、あと、多少身体を動かす仕事してないと、てきめん私は体調に出てきてしまうっていうのもあったりするんで、それもあって仕事は続けるとなってたわけ。ただ、最近では、好きな仕事でもさすがの私も飽きてくるっていうのもあって、最近では惰性で仕事してるとも言えなくもない。少しでも稼がなきゃ生活していけないから仕事は続けているんだけど、今、宝くじ当てたら、しかるべき期間を置いてから仕事辞めちゃうかもって思ってたりする。身体のことは仕事しなくても何とかなりそうだしね、お金さえあれば。

それにしても、ほんっと学校って機関はクソだなと思う。(謎)(笑)もちろん、これは私の勝手な言い分ではあるんで、完全な誹謗中傷ではあると自覚はしてんだけど。それでも、私は学校ってやつが心底嫌いだ。どうしてあんなとこに通わなきゃいけないのかわからない。まあ、だからこそ私は社会性がゼロになってしまったんだろうけどねえ。ただ、その社会性ゼロでもヘッチャラポンと泰然としていられるくらいの図太い神経の持ち主になれれば、私ももっと健康に生きられるんだろうなあ。最低最悪な人間だと日頃から自分を言ってはいるけれど、図太くないという点で、私は最悪になりきれない。でも、あとちょっとでその境地に立てれるかな、なんて思ってたりもする。だって、私は死にたくないもん。元気に生きてたいもん。

息もできない夏(笑)

2012年08月28日 22:38

「酸素不足の金魚」!!そう、それだ、それだよ、ああ、すごいな。ちゃんと的確に表現ができる人ってすごい。なんて…「それくらいできんでどうする」なんて言われるかも。(笑)

今年の夏はほんと異常なくらい暑い夏だ。以前なら30度くらいでも「暑い暑い」と大騒ぎしていたはずなんだけど、35度以上がこう続くと、時たま30度くらいになると、ものごっつ涼しく思えてしまう。それくらい今年の夏の暑さは異常。で、私は炎天下、日中でも一番暑い時間に自転車に乗って出勤するわけだ。で、外に出るとなんだか息苦しいわけ。暑さのせいなんだよなあとなるんだけど、それを言葉でどう表現していいか思いつかなかった。そうなんだよ、南無さんの言う通りなんだよなあ、自分がほんとにアップアップしている魚みたいだよなあって。

それにしても、命日かあ…あの人の命日はいつなんだろうな。詳しい日付がわからないから勝手に「この日」って決めちゃってるんだけど。さて、その「あの人」って誰でしょー。ご想像にお任せします。(って、誰に言うとる誰にwww)

嫌いとかそんな話

2012年08月27日 21:28

「いや、断定されても困るんですけど。私は嫌いな誰かであっても苦しめーとは思わないけどなあ。関係ない誰かのことでも心を痛めると同じで、嫌いな誰かのこともそんなふうには思えない。」っていうのは私がついったーで呟いたことなんだけど、あれはかいえんさんの発言を見ての発言だったんだよね。

『ふと思ったのだが、「戦争の悲惨さ」をいくら訴えたところで戦争抑止には繋がらないのではないか。なぜなら人間は自分の嫌いな奴がどんな悲惨な目にあっても一切痛痒を感じない生き物だからだ。』


まあ、書いてないだけで、全ての人間が、とは言ってないんじゃないかとも思う。たぶん「なぜなら」と「人間」の間に「ほとんどの」という語句があるんだろう、と。だから、かいえんさんをどうのこうの言うつもりはない。ただ、少なくも私は、嫌いな人間が悲惨な目に遭ったとしても心を痛めると思う。私も人並みに「こいつ嫌いだなあ」という人物はいる。でも、その人がとても悲惨な目に遭っているとかを想像してみても、どうしても「ざまあみろ」とかそんなふうには思えないんだよね。それはなんでかと考えてみて、私が誰かを嫌うっていうのは、その人が私より何らかの形で上に立っているからなんだろうと思う。もちろん、性格も生理的に受け付けないからっていうのもあるんだろうけど、それだけで「不幸になれ」なんて思わないんだよね。変な話、もっとももっと幸せになってもっともっと私に嫌われてほしい、なんて思ってしまうみたい。まあ、ある意味、私の「嫌い」は、どこかの誰かにとっては「本当の嫌い」とは違うのかもしれないなあとも思わないでもない。

ここは不健康なブログです

2011年12月17日 16:46

あーまた広告出てきてるし。まあ、ここはほとんど更新されることはないから広告出てきてしまうのはしょうがないんだけどね。こっちで言及みたいなものを書くことはこれからもほとんどないはず。そういうの出てきたらはてなで書くし。ただ、今日は更新されたら読みに行ってるブログで気になる語句を見つけて、れっつらリンク。それがこれ。

ブログ界隈からバカが減った気がする : web-g.org

そんな健康的なブログがいくつかあるなら紹介しろよってな話になるかも知んないけど、またバカが舞い戻ってきてそのブログのコメント欄に長文クレームとか書かれて閉鎖とかされると寂しいので止めときます。つーか俺の言う健康的なブログってのは逆に不健康な思考ばっかりしてるブログなんです。


この人が私のブログを不健康って思ってくれるのかどうかはわからないけれど、普通の人は「あなたのブログは不健康」と言われれば不快に思うんじゃないかな。だからこそ、以前ノイズブログのことを「不健康」と断定して私にそれをわざわざメールしてきて「あなたになど取り上げられたくない」って言ってきたのも、私を傷つけようとして言ってきたんだろうし。まあ、確かに私はそのメールで傷ついた。厳密に言うと不健康だと言われたことで傷ついたわけじゃないんだけど、それでもメールで私に対してのネガティブな思いを、その人から告げられたことにより、私は確かに傷ついたわけ。それは本当のこと。今まで好きだった人にそんなネガティブなこと言われたら、そりゃ私だって傷つく。もっとも、私も過去に誰かを傷つけてきたわけだから、他人を責めることはできないよね。だから、それについてはもう過去のことと思えるようになった。今はもうその人のこと探そうとも思わないし。あと、その人とのトラブルの後に何人かの間で似たようなトラブルが起きて、というか起こして、どうしても関係を切らなくちゃならなかったり、切られちゃったりしたことがあって、しばらくは荒れるけど、今はほとんどもうその人たちのことはそんなに気にしてない。最初はもちろんストーカーみたいにこっそり何か書けば読みに行ったりしてたけど、今はしてないし。きっと私には読まれたくないって思ってるだろうから。やっと、その人たちの望み通りになったといえる。

私の場合の長続きのこつってないんだよなあ。たぶん他人は関係ないんだろうな。ただもう何か書きたいってなって、書く気力さえあれば書く。それだけ。まあ、基本は自分が読みたいものを書きたいとなって書くっていうのなんだけど、今はどっちかっていうと小説書きのほうにベクトルが向いちゃってるから、日記というか、ブログはほとんど書く気が起きない。とはいえ、ブログを削除しない限りは、こんなふうにたまーにポンッと書いちゃうこともあるんだけど。ただ、ブログを何個も持ってるから、ほんとはもう整理してしまっていらないブログは削除して、ひとつ、或いはふたつに絞ってしまったほうがいいんだろうけどなあ。今書いてるようなことはホントだったらはてなののなびーブログで書くようなことだし。執筆関連はサイトに表示させてるしもらーブログだし。ここの記事は日記サイトに移行済みだから、ほんとは削除してしまったほうがいいんだろうけどなあ。ただ、少ないながらもブクマつけてもらってる記事もあったりして、ちょっと消すにしのびない。だから、このまま放置にしようかと、そんなふうに思う。



【追記】←誰かさんの真似っこwww

人間のデフォルトは不健康なはず : web-g.org

なんか、私の記事を取り上げて記事を書いてくれたらしい。

うまく言えないんだけど、マイナス思考はマイナスを呼び、プラス思考はプラスを呼ぶとも言うよね。それは間違いじゃないし、頭ではわかっている、それは私も。けれど、自分の性格がどうしても悪いことばっかり考えてしまって、それでどんどんドツボにはまっていくわけで。だからこそ、何年か前に病気じゃないのに、ちょっとした体調の悪さがきっかけで、どんどん悪いことばかり考えるようになって、そのせいで悪くないところが本当に悪くなってしまったということもあった。そんな感じでガン細胞なんかも活性化されるっていうの、聞いたこともある。逆に、ガン細胞を消滅させてしまう力が精神力にはあるともいうし。だから、思い込みってプラスに働けばいいことに作用するから、プラス思考の思い込みを支持する人が出て来てもそれは至極健康的でいいことだって私も思うんだ。

けれど、私はそれができない気質。

私の母は私とは正反対の気質で、どんなことでもプラス思考の持ち主。それもあって70代の彼女なのに、どうかすると40代に見えないこともないくらいに元気なんだよね。病気なんてほとんと経験ないし。そんな母に今はすごく憧れる。私もそういうどんなことでも「なんとかなるさ」となりたいもんだって。で、私の母はマイナス思考を理解しない人だった。とはいえ、さすがに自分の娘のことをだいぶ理解してくれるようになったけれど。まあ、厳密にいうと理解はやっぱりできないけれど、それでも「そういう人もいるんだ」となってくれたようで、それだけでも私は救われる。思うに、理解する必要ないなって思う。理解してくれなくてもいいから、そういう人もいると認めてくれれば、それだけでいいなって。

形だけで中身がなくたっていい。心からの笑顔じゃなくても、作り笑いでも病気が治ると聞いた時から、そんなふうに思えるようになった。たとえ形だけでも、その人が私のために作ってくれた笑顔であれば、私はその気持ちを大切にしたい。

でまあ、こっちでも無理やりガクト話を挿入。(爆)

記事を読んでふっと頭に浮かんだのが、ガクトさんの「生きとし生けるすべてに告ぐ」だったんだよね。その歌の歌詞にこういう一節がある。

『完璧に満たされたとしたならそれこそ絶望のはじまり』


完璧ってどんなだろうね。完璧な人間、完璧な世界、どんななんだろうって。それってもう進化しようがないってことでもあるから、だから絶望なのかなあ。なんて。

慣れないものは慣れない

2010年02月26日 09:34

ナツさんの記事「★ 電脳ポトラッチ: もう猫は飼わない」を今朝は読んだのですが、その前に「猫を失うということ」というナツさんの記事を読んだ少し前に、旦那と少し意見の相違があったんですよ。そのあとにナツさんの記事を読んで、ナツさんはどうなのかなあと思ったのでした。でも、ナツさんが「もう猫は飼わない」というタイトルで記事を書いたので、ナツさんも私と同じ気持ちなんだろうなあと勝手に推測。

旦那と意見の相違となったのが、ペットを飼うということで。この間、テレビでかわいい動物が出てきたんですよね。それはカワウソで、ほんっとかわいかったのです。カワウソだけじゃなく、わんこもにゃんこもハムも、とにかくかわいい動物が出てくると旦那なんかは「いいなあ、かわいいなあ、飼いたいなあ」と言うんですけど、そりゃ、私も「そばに置きたい」とは思うんだけど、本当に飼うということになったら、私の本音は飼いたくない、なんです。

ハムスターのジャンを飼った時も、旦那が勝手に買ってきて飼い出したのですが、私はたぶんそれを知ったら反対したはずです。かわいいと思う気持ちはあっても、私には世話する気質はないんですよ。かわいがるだけはかわいがるけれど、世話するのは本当に私は好きじゃない。酷いめんどくさがりやなんで、生き物を飼うことは私には無理なんです。だから、本当いうと子供の世話だって私にとっては本当はしちゃいけないことなんだろうと思います。ただ、自分で決めて産んだんですから、追い詰められない程度の世話はしてきたつもりですけれど。けれど、一人だけでもう充分。まあ、子供の出来にくい身体だったということもあり、一人で何とか許してもらえたかなあといった感じです。

話がそれましたが、そういうことで、この間も旦那が「いいなあ、飼いたいなあ」と言い出したのを聞いて、私は「でも私は飼いたくないなあ」と言ったわけです。それは動物は私より先に死んでしまうから。

子供の頃から、私だって人並みにいろいろ動物は飼ってきました。物心ついた時には浜辺で拾ってきたわんこ。その頃には三毛猫のにゃんこも飼ってましたし、それからも何度かわんこはいろいろ飼いました。にゃんこも何匹も飼った。それだけじゃなく、ウサギも飼ってたし、一時的にツバメも世話したことがあります。結婚してからは、犬猫は飼えないということもあり、金魚やハムスターを飼いました。けれど、そのすべては今はもういない。死んでしまったわけです。私はそれらすべての死を看取ってきたわけです。そのたびにどんなに私が嘆いたことか。しばらく立ち直れないくらい。そして、何年か前に最後にハムスターのジャンが死んでからは(厳密にいうと、その後に金魚が死んでますけど)もう生き物は飼いたくないと思ったものでした。
でまあ、そういうことを旦那に言ったら、そんなこと言ってたら何も飼えない。それでも自分は飼いたいんだって言うんです。死んで悲しい思いをしても飼うって。そのわけを旦那ははっきりとは言いませんでしたが、たぶん、その悲しみがあるからこそ、次の生き物にはもっと良くしてやろう、愛情注いでやろうとなるのかなあって。
でも、私にはそれはできない。ずっと引き摺ったままなんですよ。私は初めて死んだわんこの死に姿が今でもどうしても脳裏から消えないんです。私が小学校低学年の時です。あれから、何度も飼っていた動物の死に姿を見ていくたびに、どんどん堪えられなくなってきています。そして、ジャンが死んだ時、もうだめだ、これ以上かわいがっていたものが死んでいくのは見たくないとなったんですよね。

死は慣れるんでしょうか。私には慣れることはできない。むしろ、遭遇する経験が増えていくほど辛くなっていく。

特に最近では自分自身の死が近づいてきているということもあり(病気というわけじゃなく、年齢が近づいているってことです)かなり死に対してナーバスになっています。旦那の父親は亡くなっていますが、まだ母親は健在で、私の両親も父親は障害者ではあってもまだ生きているし、母にいたってはかなりの元気さで、まだまだ死を感じさせるということはないのですけれど、それでも、彼らもいずれは死にます。旦那だって死ぬだろうし、息子だってわかりません。いつかは死んでいくのです。私だってもちろん例外じゃない。ただ、自分の死は自分で惜しむことはできないんで、やっぱりこれは自分以外のものの死で引き摺られてしまうということになる。それを私は体験したくない。

これがどんなに我が儘なことであるかはわかっています。

旦那には「だったら亀でも飼うか?」と言われました。けれど「自分が死んだ後に残された亀のことを考えてみろ。悲惨だぞ」とも言われました。そうなんですよね。それはわかってるつもりです。私は愛するものたちの死を看取るよりも彼らよりも先に死んでしまいたいと思っているのですが、それは愛するものに対して酷いことをすることにもなるんだってことは、頭ではわかってるんですよね。でも、わかっていても、私はいやだ。自分のほうが先に死にたい。大切なものが死んでしまって辛い思いをしたくない。どうせ私もいつか死ぬんだ。だとしたら、なるべく辛い思いをしないようにしたいんだ。たとえそれが傲慢なことだったとしても。旦那は残されたものの気持ちを考えろというけれど、私のことだって考えてほしいよ。私だって残されるものになりうる。

もし、私が死なない存在であったなら。そうであれば、私は他人の死を受け入れることができるかもしれない。受け入れざるを得ないでしょう。生き続けなければならないわけですからね。いちいち他人の死で引き摺られていても、苦しみはずっと続くんですから。だから、いずれ死んでしまう存在である私は、少しでも他人の死で辛い思いをすることを軽減させたいのです。それを我が儘だ、傲慢だ、他人のことを考えろとは言われたくないです。言われたわけじゃないけれど。でも、たぶん、そう言う人は必ずどこかにいるはずですから。もっとも、言われないためには、出来るだけ大切な存在を少なくすることかなあとも思います。そうすれば、私自身も大切な存在を失う辛さを少しでも減らせるし、もし私のほうが先に消えてしまったとしても、私を失う喪失感を感じる人も出来るだけ最小限でおさえることもできますよねえ。って、あれ?これってなんだかガクトさんの若い頃の考えだったかもしれない。そんなようなことを言っていた気がします。でも、彼は今はそれと逆の考えをしているんですよね。私はそんな彼より強くないです。やっぱり自分のことしか考えられない。

私は出来た人間じゃないですから。自分のことしか考えていない最低な人間ですから。でもね、それでちゃんと生きていけるのなら、私は私を守るためにはこのままで生きていきたいです。それを誰にも否定はさせない。まあ、否定してもいいですけど。否定されても嫌われても、私は生きますよ。私に生きていてほしいと言ってくれる人のために。

…って、やっぱり話がだいぶずれてきた。こんなの言及とは言えないですよねえ。やっぱトラバは私は送れない。(苦笑)

両方欲しいが正解かもね

2009年12月24日 10:39

『多くの人間は「金よりも自由を選ぶ」と答える・・・

本当にそうですか?


いくら自由があっても金がなければ何も始まらないですよ?

金があれば自由は手に入れること出来ますよ?



金を得る力の無いやつに限って「金より何某」って・・・良く言います・・・お前ら・・・生きていて楽しいか?』(「黒と白のブルース」より)


いつものごとく引用というより転載。でも、たーしゃんなら許してくれると確信犯的にやっちまうわたしくし。わはは。

ところで、彼は以前、私に「普通の生活で幸せを感じる?」と聞いてきたことがある。この時の話題、以前にも書いたかもしれないんで、また同じようなこと書くかもしれない。でも、なんかまた書きたいと思ったんで書いてみるね。

彼は私よりもお金を持っていてそれを自由に使える立場だ。お金で不自由をするということもないだろう。けれど、それで幸せを感じているかといったらそうじゃないみたい。でもね、たぶん普通の生活をしたって彼は幸せだとは感じないだろうし、結局はまた普通の暮らしではなくお金のある普通とは違った暮らしに戻っていった…ようだ。

いくら自由があっても金がなければ何も始まらない──

それは確かにそうだ。私だってお金がなければ不幸だと思っている。現に私はそのお金で一時期はかなりの窮地に追い込まれたことがあるから。今のこの平穏が手に入ったのも、私が仕事を始め、そして旦那が正社員になったことで少しお金にゆとりが出来たからに他ならない。もちろん、たーしゃんみたいにたくさんのお金を持っているわけじゃない。けれど、私や旦那は金はないに越したことはないが、ありすぎると不幸のもとだと思っているところがあるんで、3億を夢見て宝くじを買っていても、それが本当に当たるとは思っていない。ただ、老後の貯蓄が少しできるくらいの資金が当たればいいなあという気持ちで毎回宝くじを買っているに過ぎない。できれば、ローンなしで家を買えるくらいはほしいよなあってね。それ以上は望まない。

私が目指していることはただ平穏に平凡に暮らしていくことだけだもの。

それにしても、お金よりも自由を選ぶかどうかって。それはちょっとおかしな質問だなあと思った。確かにお金があれば自由は手に入る。けれど、人によってはお金があっても自由だとは思わない人もいるし、自由が本当にいいことなのかというのも人それぞれで、自由なんかいい、私は何かに縛られていたいという人間もいるはずだから。やっぱすべては心しだい。自分が何が必要か、自分はどうあれば幸せかによって違ってくる。というか、たぶん、ガクトさんなら「両方」って答えるだろうなあなんて思ったよ。というか、「お金」「自由」ではなく、他の何かを選ぶかも。たとえば「家族」とか「友達」とか「仕事」とか。金の斧か銀の斧かどちらを選ぶと聞かれて「お前がほしい」と、その両方の斧を持った美女に答えるガクトさんだからねえ。(笑)

選択肢は限りなくある。「お金」も「自由」もその一つに過ぎない。

たーしゃん?あなたはそれだけしかないの?他に選ぶものはない?それだと「淋しい人だね」なんて言われかねないよ?

なーんて、いじわるなことを久々に言うてみるわたくしなのでした。ちゃんちゃん。(W

短文は誤解されやすい

2009年12月14日 11:18

ついったーで見かけた次の発言がまず発端。

私昔から自分が好きなミュージシャンとかに、相談事とかメッセージ送る人の気持ちが理解できない。。。


この発言だけ見ちゃったら、自分がそういった相談事とかメッセージとか送る人であったら、くりりん発動してむきーってなるのは必須。まあ、発言相手が自分にとってどうでもいい人であれば、誰かなんか言ってるけど、むかつくことなんてないわけではあるんだけど、発言相手が好きな人であったとしたら、むかつくより「嫌われた」となってしまうことはあると思うんだよね。私なんかはそういう傾向があるんで、そんな感じで今までにネガティヴな思いに囚われてしまったことは何度となく経験してるわけで。だけど、これはついったーのマイナスな点でもあるんだけど。(ついったーだけじゃない。はてブとか文字制限のあるものはすべて)言葉が足りずに誤解されてしまう要因になってしまうということで。だから、今回も、ついったーのこの言葉だけだったら、わーん、「理解できない」って言われたーとなってしまうところなんだけど、ららさん、ちゃんと補足記事を書いてくれた。

「相談ねぇ。◇姫日記◇」

昔からそういうのが理解できない人なのです、私。

非難したいわけじゃなくって。うん。

(中略)


お悩み相談したくなるのも、全然変じゃないし、自然な流れなのかなーとも思うのよ。

だから、別に他人がしてるの見て、おかしい、とかは思わないけど、
私はそんなのしたいとも思わないなーと。

夢見る乙女のようで、夢見きれてない、損なタイプなんですかね(笑)


相談事については確かに私も、たとえばガクトさんに対しては相談事はできない、というか、したくない人でもあるんで、ららさんの気持ちは理解できる。でも、メッセージは送りたい時もあって、メールとか送ったりすることもあるんで、やっぱり自分のことを否定されたような気持ちにもなった。だけど、こんなふうに補足記事ではららさんも他人がやってる分を否定してるわけじゃないっていうのがわかるし、自分はそんなことはしたくないという人だってだけを書いてるんで、そりゃもう「理解できない」となってしまうのはしかたないよなあって。ただ、相談してしまう気持ちは、私はやらないけれど、してしまう人の気持ちは理解できないわけじゃないんだよね。聞いてもらいたいってだけで相談してる人もいるしねえ。その気持ちは私もわかるもの。

あと、夢見る乙女っていうのは私もそういうところがあるよ。たとえばガクトさんとリアルで逢ったとしたら、それでドリーム小説なんて書けなくなるよなあという気持ちも持ってたりするんで、私もある程度の距離は取らないと夢が壊れるよなあとは思っている。夢見るために距離を取っているってことなんじゃないかと思うんだけど。ららさんのは違うのかな。同じことなんじゃないかと思ったんだけどな。

私が心から感謝する時

2009年12月09日 20:08

海燕さんの記事「自分から話しかけるなんてできない。 - Something Orange」を読んで思ったことなんだけど。

前半のぼやき(失礼)部分は非常に共感を呼ぶ。私だけじゃないだろう。みんなが海燕さんと似たような気持ちを持ってコミュニケーションしてるだろうからだ。ただ、私と海燕さん他とで違う点がいくつかあって、海燕さんが、ブクマつけるのに気楽に書いて相手に不快感を与えたら、とか、人の心の神聖な花園に踏み込んでしまったらどうしようとか思って考え込んでしまうというのだけは私にはないなあって。確かにブクマするのにためらいを生じることは私にもあるし、コメントも以前よりはためらってしまって気楽につけることはなくなったけれど、ブクマしたり書き込んだりしたことで相手が不快に思ってしまったとしても、私自身はそれほど凹んでしまうということはなくなったんだよね。相手がどういった言葉で傷つくか、それは私の想像を超えたところにあったりするからだ。私は人の気持ちがわからぬ人間らしいので。だからなんだろうな、海燕さん他の人たちには信奉者が多く、私にはそういった人がほとんどいないというのも、私がそんなふうに他人の気持ちなどどうでもいいと思っている節のあるような態度を取っているからなんだろう。

『しかし、それを思うと、ぼくに話しかけてくれるひとたちは本当にありがたいです。こんな取っ付きづらい、性格悪そうな、オタクの負の側面を煮詰めたようなブログ主にお声をかけてくださるだけでも感謝感激です。

 ネットを始めてからそろそろ十年くらいは経つと思うんですけど、そのあいだにたくさん友人や知人ができました。ネット人見知りのぼくがそこまでたどり着くことができたのも、あたたかい人柄の方がたくさんいらっしゃるからだと思います。』


私にはほとんど話しかけてくれる人はいない。そりゃ、まったくいないわけじゃない。一人二人はいる。一人もいないよりはマシだろう。マシ…か。マシだという言葉は便利だな。マシ、ではダメなんだと思い込んだ人間にとってその言葉は慰めにも何もならないというのに。そう。この心こそが己を不幸にしているのだ。

海燕さんのように話しかけてくれる人に対して、たとえ一人であったとしても心から感謝できる人間であれば、私ももうちょっといい関係を他人と紡げるんだろうな。けれど、私はどこまでいっても「私」でしかない。あきらめてしまってはいないけれど、それでも私はこの「私」のままでこれからも生きていくしかないのだ。結局は、私はこの「私」を受け入れてくれる人を求めて生きているわけだから、「私」として生きていき、その上で私の手を取ってくれる人でなければ、私には真の心の平穏なんて訪れはしないのだから。それを今までに何度も何度も思い返しては嘆いて、そしてまた立ち直りを繰り返す。その繰り返しを人に非難されようとも。それが正しいとは言えない行為だったとしても。

海燕さんがネット人見知りと自分をそう言っているが、私のほうがネット人見知りだと思うんだけどねえ。

それにしても、海燕さんの次の言葉。

『 あとね、mixiのマイミク申請ができない。たしかぼくは面識のないひとにマイミク申請したことはないはず。マイミクになりたいにゃー、と思うひとはいても、向こうから申請してくれるのを、こう、蜘蛛が巣を張るようにしてじーっと待っているんですね。

 だって、申請して断られたら傷つくじゃん。「まさか、こいつ、わたしのこと友達だと思っていたの? 正直キモいんですけどー」とか思われていたらどうしようとか思うじゃん!』


こう想像してみた。蜘蛛が巣を張るようにしてじーっと待つというの、これも何もせずにそういうことしても相手は気づかないと思うんで、足跡つけては向こうから「あれ、海燕さんだ」と気づかせる作戦かなあなんて。(笑)いやまあ、私はそういった作戦をするからなんで、海燕さんがそうであるとは限らないけどね。

私の場合、どっちかっていうとこっちからマイミク申請しまくるほうなんで、そのたびに断られたり無視されたりして痛い目には遭っている。そこらへんが海燕さんと私の違いなんだろう。というか、私のほうがもっと根性が悪い。こっちからマイミク申請しておいて、こっちから勝手にマイミクを切るという馬鹿げたことばかりしてきたから。それはやはりひとえにそうまでしても私についてこれるのかと世界に問うているのだ。と、そんなこと言って聞こえはいいんだけど、ただたんに困ったチャンというだけに過ぎない。誰がこん奴についてくるものか。もしいたとしたら本当に酔狂な人だよね。でも、そんな人がいたら、私はきっその人に心から感謝するんだろうな。

絶望しか残らない問題

2009年12月05日 07:48

一連のやり取りを見てきて思った私の思い。

7年前に私も巻き込まれた(自ら巻き込まれたんじゃないかとも言われるだろうけれど)拉致問題と、今回の性被害問題はたぶん話し合っても話し合っても絶対に解決の糸口は見えてこない問題なんじゃないかと思った。それは、被害者以外の人間たちがそれについて議論しているからなんじゃないかって。というか、加害者でも被害者でもない人間が被害者に対して質問しているという時点でなんかそれって違うような気が私はするんだよね。誰が被害者かわからないから、だなんてそれは言い訳でしかない。だったら、まず「あなたは被害者なのですか」って聞けばいいでしょ。もちろん、その質問もセカンドレイプにもなりうるだろうから、叩かれることは覚悟で。それが嫌なら、質問する前に相手の書いたものをよく見てすればいいんじゃないかと。前から相手を知っていたら被害者かどうかはわかったことだろうしねえ。

被害者に対して質問だの何だのするのっていうのは、確かに、裁判はそういった類のものであって、裁判まで否定する発言にもなりかねないかもしれないけれど、日々行われている裁判だって双方が絶対に納得できるような結果が出るなんてことは一度もないと言っても過言ではないんじゃないかと思う。裁判は必要ないとまでは言わないけれど、犯罪なんてものは減らせることはできてもなくすことはできないことも確かだから、どうしても無駄なことをしているようにしか見えない。もっとも、犯罪なんてものを自分はしないと思ってたって、冤罪として監獄に送られてしまうこともあるだろうから、全力で裁判なんてものはなくせとは言わないけれど。

一連のやりとり、まるで7年前の自分を見ているようで胸が痛い。どんなに言葉を繰り出したって、質問者はわかってくれなかった。それは文章能力のなさだと言われてしまうんだろうし、私もそう思う。質問者に納得させられるだけの文章能力があったのなら、私も文章で成功してるだろうと思うからね。だから、私はもう何も言わない。質問されても答えない。スルーすることにした。言葉だけの対人関係に絶望してしまった私は、答えないよ。ついでに言っとくけれど、一応私も未遂とはいえ被害者ですから。そこのところお忘れなく。でも、ひとつだけ言わせてもらえれば、被害者でもなく加害者でもない人が、これから起こるかもしれない犯罪を未然に防ぐためにはどうしたらいいかと議論することは無駄なこと。それよりも、他の被害者はどうあれ、一被害者としての私が望むのは「自分だけはたとえ裸の女が目の前にいたとしても襲わない」と誓ってくれその通りに行動してくれれば、それでいい。「自分だけはやらないから」って、それだけ言ってくれれば。どうせ、どんなに未然に防ぐ方法を考え出したって、犯罪に走ってしまう奴は聞く耳持たずなんだから。そんな人間には議論は通用しない。世界ってもんはそういうもんだと心底そう思う。だから、そんな議論の通用しない人間に時間を割くよりも、私は、ただ黙って「つらかったね」と抱きしめてくれる人だけと付き合っていきたい。気持ちわかってくれない人なんてもういらない。

みんなわからないんだ。絶対に議論では解決しないこともあるってことを。

リアルだけじゃないよ、ウェブでだって抱きしめることはできるよ。それさえもわからないのなら、いくら相手に質問して答えてもらったって、その人は絶対に誰のことも理解できないし救えないんだ。そう私は思うよ。


《2009/12/6追記》

「服飾の自由」を読んで思ったことなど。


扇情的なものが追放っていうの、あれも程度によると私は思う。あまりにも酷いものはアングラであるべきだけど、程度によっては、たとえば芸術的なものとかは排除されるべきじゃないとか。ただ、どの程度はオーケーっていうのは人それぞれだったりするんで、なかなか線引きができないっていうのが難しいよなあ。だから、どうしても解決策なんて出てこない問題なんじゃないかと思う。そこには絶望しか残らない。


《2009/12/7追記》

さらに、ナツさんの「★ 電脳ポトラッチ それはあなたの「当然の権利」じゃない。~曽野綾子ミニスカ論争関連」を読んで思ったこと。


性欲が悪いわけじゃない。私だって性欲はある。だから性欲まで否定はしない。性犯罪が起きるのは性欲のせいじゃない。あくまで性欲を抑えなくてはならない時に抑えられない人間が悪いということを忘れないでほしい。じゃあどうすれば出してはいけない時の性欲を抑えることができるのかって?そんなもん他人に聞くべきことじゃないでしょ。そんなことは自分で考えるべきことだ。だって、抑えるためにどうするかなんて人によって違うから。自分にあった抑え方っていうものがあるはず。つまり健康的な人だったら、そういうことを自分で考える事ができるはずなんだ。そうやって、ほとんどの男の人が自分で抑えてるはずでしょ。それが普通だと思うんだけどね。その普通ができない抑えられない人は、それはもう病気だ。自分は病気であると自覚したほうがいい。治したいと思うのなら、病院に行って治せばいいんじゃないかと思う。心の問題だから、心療内科とかそういった類の機関に頼るとかね。だから、性犯罪をなくすたったひとつの方法は「病気だから病気治療をする」だけなんじゃないかなあ。もっとも、個人的に私は、性犯罪を犯してしまう人間のその病気は不治の病だと思っている。絶対に治らない病気だって。だから、性犯罪者は隔離するか死刑が相当なんじゃないかって。そうすれば、少しは性犯罪は減るんじゃないかってね。


《2009/12/8追記》

別エントリ立てたほうがいいとまで思ってしまう追記のしかたをしているけれど、こういう書き方が一番いいかもしれない。まあ、これも非公開にして書いているからできることではあるんだけど。ただ、これだといつまで経っても公開ができない感じではある。こういった話題は結論が出ない話でもあるんで、一定期間は続くだろうしねえ。とりあえず次の公開まではまだ少し時間があるので、他人の記事読んで書きたくなる限りは追記という形で書いていこうと思う。私の考えも短期間の間に変わってくることもあるし、語りきっていない自分語りもまだあるみたいだから、今回のように。


「昔、『ひとつ屋根の下』ってテレビドラマがあってね、 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は」「日本が治安が良いってのは、幻想なのか。「性差別を無くせば(減らせば)性犯罪が無くなる(減る)」というのは「大風吹けば桶屋が儲かる」という話なのか。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は」を読んだことで、私の体験も語った上で思ったことなどを書いてみようかと思って。

事件は私が12歳の時、今から35年前に起きた。朝、いったん学校に行って、忘れ物があるのに気づき、授業が始まるまでに忘れ物を取ってこようとして学校を出て走って5分の自宅に戻る途中の小道でのことだった。雨は降っていたがまだ明るい。小学生だからスカートはミニスカート。それはその頃の子供にとっては当たり前ではないだろうか。犯人はすれ違っただけの高校生だった。すれ違いざまに後ろから襲われた。そんな私に自衛しろと他人は言うのだろうか。言うのだろうな。今の小学校では忘れ物は原則取りに行かないことになっているようだが、あの頃の私たちはみんな取りに戻っていたと思う。変質者は昔から当たり前のように出没していたけれど、一見普通の高校生が小学生に襲い掛かるなんてことはどうだったんだろうか。私は子供だったためにそんなことまでは覚えていない。そういった話は他人とはなかなかできない年頃でもあったから。そんな子供にさえも自衛をと他人は言うのだろうか。言うのだろうな。

ただ、私の被害は実際に強姦されたというわけではない。未遂で終わったから、微妙な立場でもある。被害者の気持ちはわかるつもりではあるけれど、実際に被害に遭ってしまった人からすれば「自分たちとは違う」言われるだろうし、私自身も、そう言われてしまったら何も言い返せないことはわかっているつもりだ。でも、小学生の女の子にとって、強姦未遂であっても強姦と等しくショッキングなことには間違いなく、私の心に何らかの傷がついてしまったことは確かだ。ただ、私の場合は、そんな子供の頃から自分自身をネタにして注目を浴びることにためらいのないところがあったようで、すべての人には話せないにしても、まずは母親には守ってもらいたくて、それから好きだった友達には憐れんでもらいたくて、それで話したんじゃないかと今なら思う。さすがに日記には詳しいことは書けなかった。だから、日記では当時の自分の様子はわからないのだけど、記憶だけはしっかりと残っているので当時の出来事はアリアリと思い出せる。ただ、子供の頃の日記を読むと、自分の記憶との食い違いとかもあったりして、この記憶も細部は本当にそうだったのかはわからない。一時期、強姦未遂という記憶になってはいるけど、もしかしたら本当は未遂じゃなくて強姦されてしまってたんじゃないか、記憶が書き換えられてしまってるんじゃないかと本気で信じてしまいそうになったこともある。というのも、私は性経験は旦那が初めてだったのだけど、いわゆる初体験で経験する出血がなかったからだ。今なら、処女であっても必ずしも出血するわけではないと知っているけど、当時の私はそれを知らず、記憶にない経験が私にはあるんだろうかと自身を疑ったからだ。付き合った人は旦那以外いない。それは確かだから、考えられるとしたら小6の時の強姦未遂事件しかない。自分の記憶には絶対的な自信をそれまで持っていた私だったけど、過去の日記を読み返していくうちに、記憶との齟齬が出てくるのでその自信はことごとく崩れていった。だけど、どう思い返してみても、同じシーンしか浮かんでこない。さすがにここでは書かないけれど。とはいえ、どこかで書いたとは思うけれど。

まあ、未遂かそうじゃないかはこの際どうでもいい。どちらにせよ、恐怖心は植え付けられたわけだから。その恐怖心が問題。当時の恐怖心は今でも覚えている。母に話したのは次の日くらいだったか。その時の気持ちはとにかく話して楽になりたかったから。母に話せば母が何とかしてくれる。それだけの気持ちで話した。話したらどうなるかは当時の私はわからなかったけど、何かしてほしいと思って話したわけじゃない。ただ秘密を一人で持つには幼すぎただけだったんだろう。話せば楽になる。それだけだったと思う。別に母は何かしてくれたわけじゃない。警察に届けるとか、そういうことはなかったし。ただ、これからは一人で夜に出るなとか、昼間でも一人で行動しないようにしなさいと言われた。それもあって、近所の友達二人には一緒に行動してもらいなさいと私に言った。その二人とは険悪になりかけていたということは母は知らなかったんで。私も他に頼れる友達がいなかったんで、その二人に正直に起きたことを話して、一緒に行動をともにさせてもらった。そういうことを話さなければ一緒にいさせてもらえないと思ったからだ。でも、それだけじゃない。私は彼女らに憐れんでもらいたかったんだ。その気持ちがあったことも確かだ。普通なら、大好きな友達にそんな汚点を話せるはずがない。でも、私は普通じゃなかったんだろうな。それともそれが普通だったのかも。私は普通の人とは違うのよって、そういう気持ちがないわけじゃなかったから。私は特別でいたかったから。汚点でさえも特別であるためのアイテムでしかなかったんだな、きっと。これはたぶん、私の中では「差別さえも特異性」というのがあったためなんじゃないかと思う。私はそれほど特別な存在になりたかったんだろう。これは一般的に見て、ほんとにろくでもない考えなんだろう。でも、私の中では、目立ちたい、注目を浴びたいという気持ちがあまりにも強すぎて、それでそんな考えになっていったんだろうと推測する。いわゆる、ケガをして包帯を巻いていると、人に「どうしたの?」と注目されて大切にされるという気持ちが根底にあったからなんじゃないかなあって。実にくだらないことなんだろうと客観的に見ればわかることなんだろうけど、注目されたい人間からしたら、どんなことでも注目されるためならやってしまう当たり前のことなんだろうな。

ただ、今の私にはそこまでして戦うことはできない。ナツさんとか23mmさんみたいな公正な目で見てくれる人との議論もあるから、議論は無駄だとは今は思わなくなっているけれど、どうも二人のような人たちばかりじゃない声がネットでの議論では多くて、やっぱり私はこういったナイーブな話で議論することに絶望感を抱いている。だからもう、それぞれが言いたいことだけを自分のテリトリーで言い合って、議論なんかやめてしまえばいいのにと思うようになってきた。だから、私も言いたいことだけ言って、他人と議論するつもりはない。議論なんてもうたくさんだ。


《2009/12/09追記》

ついったーでフォローとしている人がRTしていたある人の発言がこちら

『昔、あんまし好きでない女から「変な人がつけてきてるから迎えに来て!」と電話されて、好きじゃないけど大変、と思って迎えに行ったことをふと思い出した。「襲われたくないならミニスカートを履くな」と言う人がいるけど、「襲われないように俺が守る!」が正解なのをご存知ないとみえる。』


そういう男性ばかりであったなら、性犯罪の餌食になる女性もいなくなるのにね。


《2009/12/13追記》

「世の中が(俺が主観的に思う)マシな状態になったとき、「弱者にさらに皺寄せが行くのではないか」ということが問われている。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は」で取り上げられていたmasudamiさんの日記では、刑事告発がしやすい社会を望んでいない人のことが書かれてあり、ご本人さんもその考えの人だ。この人も被害者の一人であるので、その声の意味は重い。ただ、これも推測なんで私も叱られるんだろうけど、23mmさんの気持ちは迷惑だとは思いつつ、確信的かそうでないかに関わらずに性差別してしまっている人たちよりはマシだという気持ちは持っているんじゃないかと思う。

私は自分のどんな体験までも小説のネタにしてしまうところがあるので、自分の身に起きた出来事をそっとしておいてほしいという人たちの気持ちはわからない…いや、わかってないわけじゃない。ただ私はどうしても隠せない性質であり、隠さないで公開して傷つくこともいとわない稀有な人間だ。むしろ、傷つきたいと思っている節もある。私はきっと精神的マゾヒストなんだろう。それか心が他人とは違う構造をしているのかもしれない。肉体的な苦痛にはめっぽう弱いが、心の苦痛は…そうだな、それを解消できる技を私は持っているから、なのかもしれないな。それだけでも、私は本当に性被害者側の人間とも言えないのかもしれない。こんな時、私も未遂じゃなかったらこんな私になっただろうかと思ってしまう。その人たちの気持ちを理解するために、私もまた未遂じゃなかったというのが事実だったほうがよかったのかもしれない、とか、くだらないことまで考えてしまう。それこそ被害者を冒涜する言葉なんだろう。世間一般では一人でも被害が少なくなるほうがいいと思っているだろうから、そんなこと考えるだけでも、それは二次被害だと言われてもしかたないよな。

ただ、私が言いたいのは、一人でも多くの人間が異性に対して乱暴なことをしないでほしいということ、そして、一人でも多くの被害者の「望み」が叶えばいいということだけだ。その「望み」はすべて同じではない。masudamiさんの言う望みは、訴えたいので訴えやすい社会を望んでいる被害者の望みを断つものでもあるので、どちらの望みも何とかギリギリなところで両立できる世界になればいい。とはいえ、それは難しい。それを何とか両立させるためには、両者が少しづつ傷つくことを覚悟しなきゃいけないだろう。それができない限りは、どちらの望みも叶うことはない。私はそう思うよ。

でも、masudamiさんに忘れてほしくないのは、23mmさんだけじゃなく確実に何人かの男性は、被害者だけにリスクを負ってしまっているこの世界は間違ってると思ってくれてるということ。その気持ちに僅かでもいいから感謝してあげてほしいって思う。少なくとも私は、傷ついてもいいと思う気持ちになれるひとつの要因に、そういった23mmさんみたいな人がいるからだと思っているから。痛みを一緒に感じてくれる人が私にはいるって思えることはすばらしいことだなあと今は思えるようになったから。それは忘れてほしくないなと思っている。


《2009/12/17追記》

これで追記追記も終わればいいなあと思いつつ、ナツさんの記事で自分語りをしてみる。

「★ 電脳ポトラッチ 「男は女を欲望する」という抑圧」

前半部分を読んでいてやっぱり議論なんて絶望しかないよなあと思った。互いが自分自身の意見しかないと固執していたとしたら確かに絶望的なものではあるんだけど、少なくともナツさんは固執しているわけではないとは私には思えたわけで、そうであれば少しは歩み寄りっていうのもあると思うんだけど、でもナツさんとNaokiTakahashiさんとのやり取りを見てると、片方が相手を議論してでも理解したいと思っていたとしてももう片方が頑なに自分の意見にしがみついていたとしたらやっぱり絶望しか残らない典型的な議論の形をしているという印象を持ったんだよね。

ただ、ナツさんがラスト近くで出したNaokiTakahashiさんの心理状態を考えたら、NaokiTakahashiさんの頑なさっていうのは私にも理解できる感じはした。状況は違っても私もまた自分は「こんな人間だから他人は好きになってくれない」と他人を「こうである」と断定してしまいがちな人間だから。けれど、最近では、こんな私でも付いてきてくれる人はいると思えるようになった。それにNaokiTakahashiさんの言うような「デブキモオタ」という外観だけでは女が彼を拒絶する理由の要素としては弱い。確か以前、彼の記事はいくつか読んだことがあったと記憶するんだけど、考え方とか確かに頑ななところはあるみたいだったけど、そんなに嫌われる要素は見出せなかったように覚えてる。キモイっていうのもどんなのがキモイと感じるかは人それぞれだし、それはオタクでも同じ、唯一デブというのは嫌われる傾向はあるにしても、少なくとも私はデブで相手を嫌うっていうのはない。まあ、私も若い娘とは違ってある程度年を食った年増だからそう言えるとも言えるんで、若い娘だとしたらデブはいやだっていうのもあるかもしれないけれど。

あと、ポルノ屋っていうのにしてもね、エロゲ好きな女だっているし、私なんかもエロ物大好き女の一人でもある。18禁の小説なんかも趣味で書いてるしねえ。つまり、男は獣かもしれないけど、女だって獣というのが私の持論でもあるし。だから、女がポルノ屋を嫌うっていうのも信憑性はない。

私が性被害の被害者だからといってポルノを否定しているかといったら違う。それはまあそのものの被害じゃないからと言われてしまったら私も全力で「そうじゃない」とは言えないんだけど、それでも当時はしばらく男性恐怖症気味になったことは確かだ。自分なりに自分の格好がダメだったんだろうかと思って女のような格好をせずに男のような格好をしたものだったし、夜は一人で行動しないようにしたりとか、いろいろ自衛はした。誰も助けてくれるわけじゃないから自衛はしなくてはと思っていたからだ。でも、そうしていてもその後に何度か痴漢には遭ったことはある。自衛なんかあてにならないよなあと思ったものだった。子供の頃は「男なんて」と思ってたことは確かだし、会社に入る頃には上司でさえも信用してなかった。飲みに連れて行かれたら何かされるんだと思い込んでもいた。まあ、そういうのはそれこそエロ物コンテンツで仕入れた偏った知識ではあったんだけどね。そのままいってれば、私も全霊をこめて「男はすべて獣」とすべての男を拒絶したことだろう。でも私は結婚した。すべての男がそうじゃないとわかったからだ。

真夜中男二人に女一人でどこまでもドライブした経験は、私に男の人だって信用できる人はいるんだという気持ちを芽生えさせてくれたんだよね。

その当時に弟にも言われたもの。「男と女が真夜中一緒にいて何もないなんて信じられない」って。でも、いるんだよ。そういう人は。絶対に獣にならない男がね。私はその時の男性二人のおかげで、男だって信頼できる人はいると信じられた。そして、そのうちの一人と私は結婚したわけだ。けれど、女を襲う男だって確実にいる。恐らくそういう男をすべて排除することは無理だ。ただ、軽減させることはできる。女も男も親になるだろうから、その親になって子供を教育することはできるよね。男の子には「女の子を大切にしてあげて」女の子には「男の子も大変なんだから理解して信用してあげて」と。もし、親になれなくても、自分だけは獣になんかならないと行動するだけでもいい。一人一人が「自分だけは」と思うようにしてくれれば、少しは軽減されるように私は思っている。

問題は方法じゃない。一人一人の意識の改革、気持ちの問題なんだよ。私はそう思うよ。



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