様々な意見が並ぶことは大事

2009年11月27日 17:36

『人に理解されたり、よろこばれようなんて思うな。

むしろ認められないことを前提として、

自分を猛烈につき出すんだ。』


という、岡本太郎の言葉をすべての表現者に送るということが書かれた記事を見た。これってちょっとデジャヴ。似たようことを生前、梓さんが書いてたなあって。梓さんの場合は「認められたらおしまいだ。むしろ認められないからこそ力を持つんだ」みたいなことを言っていたと記憶する。でもねえ、確かにそうなんだけど、それはなかなかに難しいことなんだよね。私なんかもけっこう昔よりは神経は図太くなったとは思うけれど、最近は酷い誹謗中傷を受けたことがないこともあり、今また昔よりもっと酷い目に遭ったとしても「私は好きなものは好きなんだ」と堂々と表現していられるかどうか自信はない。たぶん、ほとんどの人がそういった強さは持ってないと思うよ。だから、簡単に他人に対して「強くあれ」とは言えないんじゃないかなあ。

一連の記事は読んだ。あえてここでは詳しくは取り上げないけれど、その二つの記事を読んだことでちょっと思ったことを備忘録。てか、またしても前に書いたことの繰り返しを語るわけなんだけどね。私がガクトさんを好きだということを否定されたときのことを。私もまた、自分の好きを否定されて傷付いたわけだ。でも、本当に好きであればその気持ちを否定されても「それがどうした」で負い目を感じることもないんだけど、不思議なんだよねえ、好きであるという気持ちを否定されたら、どうしても負い目を感じてしまう。それはなんでなんだと考えてみたんだけど。これはもうそういった条件反射の持ち主ってだけなんじゃないかなあ。負い目を感じない人も確かにいたりするんだけど、私からすればそういった負い目を感じない人っていうのも困りもんな人種だなあと思ってるんだよね。これもまた偏見ではあるんだろうけど。ただ、それこそ、梓さんが言ってたような感じで、負い目を持たないことで堂々と表現するよりも、負い目を持って隠れて鬱々と表現することで、その作品になんかこうものすごい凝縮されたパワーみたいなものが宿るといったそんなふうになりはしないかなあと。でもまあ、負い目なんかまったくなくて明るく清々しく気持ちいいパワーっていうのもあるんだろうから、私はどっちも否定はしたくないんだけど。BLなんかで甘甘な男女の恋愛みたいなものだって私は嫌いじゃないし、痛過ぎる内容とか耽美や退廃な内容の同性愛文学だって大好きではあるし。ようは好みの問題ではあるんだけどね。

私がガクトさんを好きだということ、そのことを「それは本当の好きじゃない」と否定されたり、「ガクトが好き?あんな気持ち悪いののどこがいいの?」と言われたり、私だってそりゃあもう何度となく自分の趣味を否定されてきたものだ。ガクトさんだけに限らない。他にもいろいろ理解されない趣味とか好みとか私にはいっぱいある。そして、それを誰からも「そうだよね」と肯定されることはほとんどないのだけど、その都度やっぱり私はしょぼんとなって自分を否定されたような気になる。これはもうそういった性格だからとしか言いようがない。子供じゃない大人である私でもそうなんだから、心が幼い子供であれば、大人や他人が理解できない傷付き方もする。「こうであればいいんだよ」「気にするな」「何も悪いことしてないんだから負い目なんてかんじる必要ないんだよ」と言ったとしても、それを「そうですね」となって好きを貫くことってなかなか難しい。それにはやっぱり時間が必要だし、あと経験も必要だ。何度も傷付くことで辿り着ける境地であるんだから、今すぐ結果を求めることはそりゃもう無茶なことだよなあと私は思う。

ただ、いつかは子供たちも気づくだろう。だんだんと傷付いてもそれほどのダメージを感じなくなったみたいだなあって。そして、「気にすることない」「負い目なんか感じるな」と言ってくれた人がいたなあってね。だから、「好きなら好きを貫けばいいよ」と言っておくことも大事だと思う。いずれ気づく人のためにも。様々な意見がウェブ上にあることが望ましいと私が思うのは、そういうことなんだよ。

普通って何だろう?

2009年11月22日 07:14

『なんか、ネットでいろいろ書いていたら過去記事がたまっていって、自分では「え?それもう何年前の話?今は考え変わっちゃったし、全然キョーミないし、関わる気もないし」みたいな事柄についての記事も、削除しないでそのままおいてたりします。そういうのをたまたま検索やどこかのリンクでみつけて読んじゃうと、私が今でもそう考えてたり、そのことに興味があったり、関わりたいと思ってる、と受け取られても仕方ないのかなと。いや、仕方ないんですが。』「Fragments 潮時を知る人、知らない人」より引用


私などは見つけてきたおもしろそうな人の書いた日記などは過去ログから順番に読破していくほうなので、どうしても時系列で興味のあることに言及してしまうことになる。そんな感じで今までにも読んだ日記の過去ログを取り上げて「この人はこう言ってるけど、私はこう思う」的なことを書いてきたことも何度かあった。そうなるとやはり言及相手から「あれから何年も経っているので、あの頃の考え方とは違ってきているんですけど」と言われたこともある。まりねこさんのようにしかたないよなあと思ってくれる人ばかりならば私も気軽に「私はこう思うよ」と書けるのだけど、中には自分を誤解されたくないということで過去ログをあっさりと削除してしまう人もいるだろうから、私としては楽しみな日記読みを断念せざるをえないことで、残念だなあと思ってしまう。まあ、そう思うなら、書き手の嫌がることをするなよということなんだろうけれど、どうしても私は語りたいと思ってしまったら、相手の意向など確かめずに好きに書いてしまうんで、うーん、やっぱ私ってば誠意のない取り上げ方をしているということは確かなのかもなあと思ってしまうな。さすがに私も感情のある人間なので、自分のしていることを完全否定されたら腹も立つのだけど、それでも私は書きたいとなったら好きなように書いてしまうんだから、そりゃもう嫌われるのは覚悟の上で書いていくしかないわけだ。うん、でもまあ、覚悟っていっても覚悟だって本当は別に持たなくていいじゃん、とも思う。嫌われたら素直に「むきー」となって、そんなに私ってダメですか?どーして?私ってそんなに嫌われるようなことしてますか?なんて往生際の悪いことだって書けばいい。誠意がないって言うことだって素直な意見。そして、それを言われた側のやるせない気持ちを言うことだって素直な意見。まああれだ。素直対素直で泥沼的なことになってしまうのはしょうがない。結局はどっちもどっち、どちらにも思いやりが欠けているからこんなことになる。けれど、思いやりっていいことばかりじゃないと思うんだよね。思いやりがあったら、互いに相手に何も言わないでしょ、自分がいやだと思ってることなんてさ。けれど、言わないでいたら、相手はいつまで経っても、こっちが「そういう思い」を持っていたなんて気づかないわけで。いずれはそのことで他からバッシング受けてひどいダメージを受けてしまうことにもなる。だとしたら、はっきりと自分は「こう思ってる」と突きつけるのも思いやりってことにもならないかなあ。まあ、つまりはその時その時の相手次第で思いやりの形も変わってくるってことなんだろう。でも、私に対しての思いやりは「好きに言えばいい」ってことなんじゃないかと。人によっては、その人の悪いところを辛らつじゃなくてやんわりと指摘したとしても、その行為が思いやりにならない場合もあると思うんだ。その人には言わないことが思いやりっていうこともね。けれど、私に限りは言うことが思いやりになる、と思う。確かに、言われたことでこの私はかなり荒れるよ。もうね、思いっきり荒れる。過去にはあまりの荒れようで相手がびびってしまったことがある。私の荒れ方を見てめちゃくちゃ傷付いたって言われた。けど、あの頃のような荒れ方ももう今はする元気もない。だから、私を突付いたとしても、そんなに荒れることはないのでご安心ください。って、誰も私のことなんて怖いとも思ってないって?そりゃどうもすいませんでした。(って、別に言われてもないくせに。てか、相手もされてないだろうし)

ううむ、やっぱり話がズレてきたぞ。

ええと。ちょっと軌道修正。つまり、私の場合に限りなんだけど、私はその人が書いている考え方とか興味の対象とか、そういったものを書かれたものを読んで、その人が今でもそうなんだとはあまり思ってないんだと思う。そこに書かれていることが、私と考え方が違ってたりした場合、その考え方に対して、いや、私はこう思うと語るだけであって、その人が今でもそうであるかというのはどうでもいいと思ってるんじゃないかなあって。まあ、だからといって、その人に興味がないというわけじゃなく、興味があるからその人の書くものを読んでるんだけど。「考え方変わったよ」って言ってもらえれば「ああ、そうなんだ、変わったんだ」と、その人自身の情報として知れることは私にとっても嬉しいことだし。相手も私の自分に対する誤解を解消できるということで、私としても、「今は考え方変わったよ」と言ってもらえるのは助かる。時系列で読んでいってもなかなか考え方が変わったということはわからないかもしれないからねえ。やっぱりその時に書いた考え方のところで注釈とか入れてもらって「現在はこれこれこういうふうに変わってきてますが」と付け加えてもらえればわかりやすいと思うし。ただ、あまり自分の日記を何度も読み返すっていう人はいないだろう。私なんかは読み返すほうなんだけど。で、読み返していて自分の考えが明らかに違ってきているというところは追記として書くんで、過去ログを読まれることは嫌なことじゃない。ただ、それはけっこう大変な作業だと思うんで、私としては読めなくなるんで残念ではあるんだけど、自分をちょっとでも誤解されたくないという人であるなら、過去ログを削除しつつ日記を書いていくこともしかたないかなあとは思う。無理強いはできないからね。けど、今までにそんな感じで読破していこうと思ってた日記がいくつも削除されてしまって、別に私が取り上げたから削除されたわけじゃなくても、ちょっと後ろめたい気持ちにはなったものだった。それもあって、私もなるべくなら削除しない方向でこれからもやっていくつもり。サービス側が削除してしまうことはどうしようもないけれど。

『私の知っている人のブログもなくなってしまいました。
誰が何を言っているかもわからないネットのあれこれなんかより、リアルライフのほうが大切なのに決まっています。きっと潮時だと思ったんでしょうね。けど、そうやって飽きたりトラブルを起こして閉じては、別の名前で別のブログなどを再開する人も多いそうですが。
なんなんでしょうね。
露出癖?目立ちたがり?
そういうものが強くある人もいそうです。悪いことではないですが。いや、私もたいがい、「私を見て」な人だと思っていましたが、もちろん世の中、上には上が。私の欲など、小さい小さい(笑
痛い目に会ったり、ライフスタイルが変わって、これはもうネットから足を洗う潮時ってもんだろう、と周りが考えるような環境にある人でも、さらにさらにズブズブのめりこんで行く人もいますし。
私?そうですね、潮時を知る普通の人でありたいですね。』「Fragments 潮時を知る人、知らない人」より引用


潮時っていうのは私にはわからない。でも、私は普通の人だ。確かに、露出癖はあるし目立ちたがりではあるけれど。それでも私は普通の人間。こんな私なんてどこにでもゴロゴロしてる。どちらかというと、そういった露出する人とか目立ちたがりな人が私には普通の人に見える。というか、普通じゃない人ってそんなにいないような気もする。じゃあ普通じゃない人ってどんな人だろう。たとえば犯罪を犯してしまう人?それでも、誰某容疑者は普通の人でしたという声はよく聞くんで、犯罪を犯すから普通の人じゃないというものでもないんだろう。普通ってなんだろうな。どういうことが普通なんだろう。たぶん、誰一人として「普通とはこういうことだ」とは断定はできないんだ。昔の私は普通でありたくなかった。人とは違っていたいという気持ちが強かった。自分は特別な人間になりたいって。というか、自分は特別なんだって思いこんでいた。それは子供の頃のことなんだけど。大人になっていくにつれ、そんな理想の自分とかけ離れた普通の自分を見つけてしまい、絶望したものだけど、普通じゃない人は平穏な生活は望めないだろうなあと思ったら、今の私は平穏に暮らしていくことこそが最大限の目的でもあるんで、今はごく普通に生きていきたいと思っている。ただ、自分が考える普通が人とは違っていたら?それを思うと、やっぱり「普通」ってどんなことが「普通」なんだろうって思ってしまう。たぶん、私が他人の日記を読みたいと思うのも、他人の思う普通とは何だろうって知りたくて読むのかもしれない。それだけじゃなく「普通」以外のことでも、自分はこう思ってるけど他人はどう思ってるんだろうということを知りたいから、読みたいと思って読んでるかもしれないな。

消さないで

2009年11月15日 22:56

『 全部消してアカウントも削除して、カミングアウトではないけど、すっぱりやっちゃおうと思う。セッションハイジャックされて消された事にして、消えよう。そしてまた絡もう。酒と音楽ってのは絡むのにいいね。ああああああああああああ、あと淫欲に溺れれればさいこーだ』「さて、一周忌に伴って。 - _」より引用、というより転載?(笑)


私の別キャラを誰も気づいてくれないのと同様、私も他人の別キャラを気づくことはない。だから、彼がどんなに同じような文章で同じようなことを書いていたとしても、再び、この文章を書いていた人を見つけ出すことはないだろう。たとえ、そうとは知らず、この人が新しいアカウントで書いていたのを再び読み出したとしても、自分は誰某でしたとはっきりと書かない限りは私は気づかず読んでいるはず。ああ、彼は今頃どこで書いてるのだろうなあとその本人の書いたものを読みつつ懐かしむだろうな。

私が今それと同じようなことを誰かに思わせていることを私もまた同じように思う。それは罰なのか。罰なのだろう。

ノイズの場所を何度も削除して消してしまおうと思った。そして、去年の暮れにいよいよ私はここを二度と更新するものかと思ったものだった。でも、削除だけは決してしないと、ノイズの前身であるぐれあむペンギンブログをえっけんさん絡みで脊髄反射的に削除して後悔してからは、ノイズ以外でも私は削除はしてこなかった。まあ、例外的に一度だけドリコムを削除はしたけど(あ、それとのなびーアカウントのはてダもだ。でもあれはアカウントは削除してないし、ログは日記のほうに纏め上げたから、厳密に言うと削除したわけじゃないんだけど)、それも後悔したんで再びドリコムで新アカウントを取って同じような内容のものを書き始めたんだけど。だけど、そのドリコムももう終わる。私が残したいと思ってもそれは叶わない。もうドリコムで書くことはない。

更新停止してしまった他のブログでも、本当に二度と更新していない場所もあるけど、ここのようにたまに更新してしまう場所もいくつかある。その違いは何なのかと考えてみた。ガクトさんに「ブログはもう書かない」とメールで宣言したこともあるんだけど、ガクトさんが本当にそれを読んだかどうかもわかりゃしない。もし、本当に読んでくれてたとしても、結局は私は書きたいと思ったら書いてしまうろくでなしなんだから。だから私はまたしてもここでこんなふうに書いているわけで。たぶん、また更新してしまうっていうことは、まだノイズで書きたいことが終わってないってことなんだろうな。他のあの場所とか、その場所とか、といったところはもう書きたいと思うものがなくなったということなんだろう。それとも、ノイズで書くのが一番自然体で書きやすいのかもしれないし。やっぱ、なんだかんだいっても一番ログが多いのはここだもんなあ。一番自分らしい場所であるエッセイブログでさえも更新はなかなか難しい。自分らしいはずなのに。やっぱ書きやすい文章って偉大だよねえ。

だけど思ったんだけど。これはいろいろとキャラを使い分けて文章を書いてきた自分の正直な疑問として、前にも何度か書いたことはあったんだけど、私のこのキャラの文章を読んだ人が他のキャラで書いていたあの文章を読んで違和感というか、なんか違うという気持ちを抱くことが時々あって、それってどういうことなのかなあと思ったんだよね。私は何度も言うようにキャラがガラリと違っていても書いていることは同じことしか書いていない。それなのに、文章というのか文体というのかそういうのが違うだけで「なんか違う。違和感がある」と思うのってどうなんだろうって。ただ、だからといってその文章は嫌いだから読めない、読みたくないっていうのは言われたことはないんだけど、それでも言わないだけで、もしかしたら「もう読まない」となった人だってまったくいなかったわけじゃないと思う。それもあって、最近ではなかなかカミングアウトっていうのはできなくなってきている。あれを書いたのは私だと言えなくなってきている。わかる人にはわかるんだろう。けれど、わからない人は両方を購読していてもわからない人もいる。私もそうだし。てーゆーか、私の場合はもっとタチが悪い。まったくの別人なのに「この二人は同一だ」なんて思ってたりするんだから。二人が同一であるのにそれに気づかないよりも私の場合の勘違いはもっと罪なことだよなあと思う。でも、自分もそんなふうにキャラの違う一見別人としてブログを書き分けたりしてるんだから、そりゃもうそう思ってしまうのはしょうがないんじゃないかな。ひとつのキャラで書き続ける人とは違う思考回路になって疑心暗鬼になってしまうのはしかたないことかなあってね。つまり、似たような二人を「同一だ」という目で見てしまう人は、私のように二つ以上のキャラでいろいろ書いているということなんじゃないかと。もちろん、それが真実というものでもない。そんなことしてなくても、誰かと誰かは同一なんじゃないかと思ってしまうこともあるだろうし。まあ、いろいろグダグダと書いたわけだけど、結局は私は誰かと誰かが本当は同じ人であったとしても気づかないに違いないということ。そして、私は読みたいものを読む人ではあるけれど、それはやっぱり「その人が書いた」というのが一番重要だと思っていて、「その人が書いた」というものが読めなくなるのはひどく淋しく思ってしまう人なんだということ。て、あら、そうなると、私が別のキャラで書いていたものがもう更新されなくて、それが読めなくなると知った人が、たとえ、あれを書いた私はあのキャラで書くことはなくても、ここでノイズとして書いてるからこっちで読んでと言っても、それはイヤだ、あっちのあなたの書いたものがいいんだと言われてしまうことと同じことなのかな…いや、違うか。私の場合は、あれを書いていたのは自分だけど、こっちで書き出したのでこっちを読んでくださいと言われるのは嬉しい人だからなあ…つまり、書いている人で私はやっぱり読んでいるってことなんだな。うん。

ええと、何が言いたいのかというと、消えてほしくないってことなんだよね。そのアカウントでこれからも書いてほしいってことなんだよね。あれから書き込みしなかったけれど、ずっと見てた。更新されれば読みにいってた。ネットに繋いだら一度は必ずアクセスしてた。もし削除されたらそういったことももうできなくなるってことが淋しい。けれど、それを強制することはできないんで、できれば削除したとして、またどこかで書き出したとしたら、「あそこで書いていた誰某です。ここでまた書き出しました」と知らせてくれたらこの上なく嬉しいと思うだろう。けれど、それはほとんどの場合が無理なこと。削除したいと思うのは、だいたいがそこで繋がりを持った人との縁を切りたいと思うことが発端となることが多いと思うから、わざわざ新しい場所を教えてくれるっていうこともあまりないだろうしねえ。ということで、私はこれからも心に残ったものはこんなふうに引用だの転載だのして公開で残していこうと思う。相手がどんなにそれを嫌がったとしても。まあ、直接言ってくれば残しはしないけれど。今までにもそれで削除した記事はあったし。けど、ローカルでは残してるんだけどさ。

でも、それでも乞うしかない。消さないでって。

【2018/4/26追記】

お、まだ削除はされてないみたい。現在いっこだけ記事が残されている。

「 俺が次に日記を書くのはいつになるんだろうか?書いたとしても、多分今日書いたものは消されてるだろう、今日消したように。過去とはその瞬間から過ぎ去って消え行くもの。記憶と記録は違うもの。過去とはその時その瞬間どんなものであったであろうとも心、頭に記憶として残るとは限らない。記録とは、その時その瞬間だから心に響くものを刻み込むために記録するのか?その瞬間を過ぎ去ってでも心頭に刻まれたもの事を刻むためにあるのか?日記とかブログってなんなんだ?よくわからんよな。全然わからん。他人に読まれて自分に価値あるものなんて何一つないのにな。自分で自分が書いたものを読み返す事を拒むようになったらへんで、俺の俺が消えて久しいなぁ。

 いやしかし、はてなのアカウントが残ってた事自体に驚いた。偶然見つけ読んだ記事に星をつけ、星ってなんだっけ?とか思いながら、ログイン?ログインとかパスワード覚えてないし?ってもう前にログインしてから3年4年はたつのに(過去の日記が三年前だったので)。クッキーさんはちゃんと保存しとる。エライ!その記憶力たるや・・・・無限大か。さって、次はいつログインするんやろう。何年後かな。三日後?5年後?20年?それまではてなはある?はてなさん、ありがとう。あり続けてくれて。それだけでとんでもない価値がある。宝くじで1億あたったら1円あげるね(はぁと)」


↑の記事は2015年7月20日に更新されている。3年前。そろそろまた更新されるかも?なので、その時は記事も上書き削除されるだろうから転載しちゃいました。てへ。消してくれっていうなら消しますよ。その時はメッセージよろしくなのです。ブログ右上にメッセージ送れるようにしてありますから。

Missing~笑顔を見せて~

2009年11月11日 15:27

怒涛の更新をしている誰かさんに触発されたということでもないんだけど、でも、たぶん、その人の書いたものを読んだからこんなバカげたものを書こうとしているのも確かではある。とはいえ、その人のせいじゃない。これは自分がそうしようと思って残しておくログである。その人に責任はない。ただ、こんなふうに書くと、その人がもし自分のことかと知ればいい気はしないだろうし、たとえその人が何にも感じなかったとしても、第三者は私を非難するだろう。他人のせいにしている、と。あるいは、他人のせいにしないのであればそんな前書きなんぞ書かずにいきなり核心を書けよ、と。ということで、こんな前置きを書いている私に不快感を抱くだろう。けれど、毎回毎回うざがられるほどに言うけれど、これが私だ。そして、自分のために書いてる所以でもある。今から書くものはたとえ言及でもなんでもないとしても、「それ」を読んだから書こうという気になったということで。もっとも、それならばちゃんと「どれ」を読んでそうなったかのタイトルとリンクをはるべきなんだろうけど、それはちょっとしないほうがいいかなあという私の中での判断でその都度決める。だから、今回はリンクはらない。それに、かなり読んだものには関係ないことを書くから。

という、いつもの前置き。

今回ひとつのリンクをはる。相手にとってはたぶん不本意なリンクだろうし、なにするんだと思われてもしかたないリンク。ただ、引用というか、その人の発言を公開することで、その人が私に抱いている私のイメージというものが、私のことをよく知らない人にとっては知っておいてもらうにはいいかもなあということで、あえてリンクをはる。私はそれくらい最低な人間なんですよというひとつの判断材料として。まあ、いわばこれも不幸自慢になりますかね。私はこれくらいしょうもないどうしようもないろくでもない人間なんですよってことで。

『小町でこんなトピ発見
「嫁が心を開いてくれません」

今はもう遠い誰かを彷彿とさせられます…。
人間関係クラッシャー、本人には自覚無し…。
やっぱり発達障害とか、機能的な問題なんですかね?
こういう方ってどうしたって直らないんだろうなぁ。
周りも本人も不幸だ。』(ここより引用)


リンクした掲示板は恐らくいつか消えてしまうだろう。それもあって、引用しておくことにした。いつもならローカルに保存しておくのだけど、今回はこんなふうに公開の場所で保存。

「今はもう遠い誰か」は私だ。間違いなく彼女は私のことを言っている。名前を書いてなくてもわかっていることだ。だって、その発言がそこで出てくる意味がわからないから。私がそこを見ていると知っていて書いているとしか思えないからだ。彼女は知っているんだから。私がそこを見ていると。見ているから私も書かれていることを発見したんだから。

私は普通の人間だ。けれど、何度も言うけど困ったチャンなところがあることは認める。けれど、大多数の人は私までとは言わなくても、私のようなところはまったくないとは言えないんじゃないかとも思っている。もし私がそんな病気があるとしたら、リアルで普通に生活していくことはできないんじゃないかと思う。引用の中でもリンクされている小町でのその人だって、問題のある性格であるだろうけれど、普通の人だと思う。大なり小なりそういった困ったところはみんな持ってるはずだし、その問題なところも、気になる人だっているだろうけれど、気にならない人だっているはずで、付き合う相手が合わなかったことによる問題でしかないと思うんだよね。ただ、家族にそういう合わない相手がいる場合確かにどちらにとっても不幸ではあるけれど、これではいかんと思ったほうが離れるしかないんじゃないかなあって。離れられてしまう人にとっては不本意で、自分は悪くないんじゃないかと思ってたら、どうしたって誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたくなる、私もそんな聞いてもらいたいタイプの人間。場所が小町じゃなかったってだけで、私もまた似たようなこういった場所で今まで書いてきた。もちろん、私に同情的な反応をしてくれる人もいたけれど、ちゃんとたしなめる人もいた。私の気持ちとしては、やっぱりたしなめられる、叩かれるっていうのは確かにつらい。けれど、それはしかたないことでもあるよなあとも思った。

ただ、本当に反省しているのなら、こんなふうに自分の気持ちを公開された場所で書くべきではないというのは、言われたくない。いや、言われたわけじゃないけれど。けれど、自分のことを書けない人だっている、とか、書ける人は同情を集めやすいのだから私のように書く人はいいよねとか、そんなようなことは聞いたことがある。でもね、書ける人が同情を集めやすいって、別にそうでもないんだよね。書けば書いただけみっともないと思われることのほうが多いし、黙ってしまった人に同情が集まるってことだってあるんだよね。私は書かなくちゃ自分の気持ちを整理できない人だった、ただ、それだけのことだったんだよ。自分の気持ちを書けない人のことなんて考えてるヒマなんてなかった。自分のことだけで手一杯で。私は自分を守ることだけしか考えられない奴なんだよ。それがイヤなら離れてよ…そりゃそれもほんとはイヤだけど。離れられてしまったら、それはそれでまた吐き出すんだろうけれど。私に好きになられてしまったことは、その人にとって不幸だったということなのか。そうは思いたくなかった。思いたくなかったけれど、確かに不幸だったんだろうな。だから、結局はそんなふうに「どうしたって直らないんだろうなぁ」と言われてしまうんだ。

でも、それでも、私は今でも彼女が好きだし、彼女が心安らかに生きていってくれることを心から祈っている。

だから、最後にここで取り上げて言葉を綴ることで、本当に最後にしようと思う。しばらくは掲示板も覗くだろうけれど、その掲示板が消えてしまったら、もう私には彼女がどこでどうしているのか知りようもないんで探すこともしないし、もう関わらないようにしたい。彼女に贈りたいと思っていたものがあったんだけど、それも諦めることにする。

Missing~笑顔を見せて~

私に見せなくていいから
貴女に笑顔が戻りますように
心から祈ってる

本当の自信は数では獲得できない

2009年11月06日 09:56

「はてなスター好きだよ」でもリンクして引用した人がこんなことを書いていた。

ある人は「こんだけアンテナ登録も多いんだし少しは自信もってほしいな」といった。しかしあたたかい目線だと感じられるときと、ヲチとしてネタ扱いされてるだけなんじゃないかと感じられるときがある。昔は純粋に喜んだけど、今は純粋には喜べない。うれしいけど、すこしこわい。すこしこわいがふくらんでかなりこわいってなるときもある。被害妄想。


そのある人は私のことなんだろうなと思った。確かに書いてたしね。引用先の人はとある人が読んでいるブログだったということで、私も読破対象にしていたブログなんだけど、今はちょっとそれをお休みしている。だけど、更新されれば新しい記事は読んでいる。もちろん、私もこの人のブログはアンテナに登録している。プライベートにしているIDで、なんだけどね。ただ、あたたかい目線だと感じてもらえてるかどうかは微妙。私の言及の仕方は誠意がないと過去に言われたこともあって、すべての人が誠意がないと思っているわけじゃないとは思うけど、それでもこの人がどう思ってくれるかどうかはわからない。面と向かって言われたわけじゃないから。ええ、私は読解力のない人間ですからねえ。書かれていることで相手の気持ちを察するなんてことはできないもの。どちらかというと私もヲチしていると取られてもしかたない感じだし、それに間違いなくネタにさせてもらって何か書いてるわけだから。というか、私は人生すべてこれネタであるというスタンスであるから、どうしても他人のことまでもネタにしてしまうところが無きにしも非ず。小説のネタにも使ってしまうことだってあるしね。まあ、だから、確かに他人の書いたものに対しても、誠意がないと言われてしまってもそれは確かにそうですね、としか言いようがない。と、いう開き直り。

昔の私はそれなりに中傷されたりもして嫌な目に遭ったりもしたけれど、今はそれもそれだけのことをしてきたんだから当たり前だよなあという気持ちはあるし、無視されるよりはまだマシかと思えるようになったということで、多少は精神的にも強くなったんだなとは思うんだけど、どうなのかな、今はほとんど誰かに中傷されるということもなくなって、今もし酷い中傷を受けたとしても、それでも閉鎖せずに続けていられる、とは、やっぱそうなってみないと断定はできないなあとは思っている。でも、私は怖いとは言えない。というか、昔も怖いと思ったことはなかったかもしれない。すごくむかついて、不快感とか憤りとかは感じたことはあるけれど、怖いという感情だけはなかったかも。

とまあ、いつものごとく、前置きが長くなってしまったのだけど、記事を読んで思ったことはそういうことではなくて(いやまあ、そういうことも思ったわけではあるんだけど、一番言いたいことはそこじゃなくてってことなんだけど)、アンテナ登録がどんなに多くたって、それをどう思うかはその登録されている人であるんだよなあって気づいたってこと。たぶん、私のブログが何百何千と登録されたとしても、それが自信に繋がることはないなーって思ったから。数を気にするってことは、いくら数が増えたって満足に果てはない。本当の自信っていうものは、数なんて気にしないところにしかないんだって。自信持ってる人ははなから数なんて気にしないんじゃないかって思ったんだよね。だから、いくら多くの人に読まれたからって、たぶん私は満足しないんだろうな。ただ、そういった多くに登録されるとかブクマされるとかっていう経験がないから、そうなった時に自分はどう思うのか経験はしてみたいなあとは思う。無理だとは思うけど。本物の釣り師はアクセス数を稼ぐためにどんなものでも書くんだろうけれど、私は書きたいと思うものしか書きたくないし、ブクマ稼ぎのために自分が書きたいと思えないものは書きたくない、というか書けない。そんなことをしたら自己嫌悪に陥ってもう二度とネットで何か書くということはないだろうなあ。私はいつでも「書きたい」ということしか書かないから。キャラを演じて別人として書いていても、私は私だし、書きたくないものは書いたことはない。それは小説でも同じこと。読者が要求するものじゃなく、自分が読みたいものしか書いたことはない。たまにリクエストされて書いたこともあるけれど、それはたまたま相手の提示したテーマが私の書きたいという気持ちに火をつけただけなんだよね。だからプロ作家としてはやってけないんだろうな。梓さんはそういった書きたいものしか書かない作家だったけど、彼女の場合は驚異的な文章能力があったからこそやっていけたのであって、文章の才能のない私にはできないことだもの。

思ったんだけど、私は自分がどういった状況だと一番の幸せなんだろうかって。私は自分が書きたいと思うもの、それが日記でもエッセイでも詩でも散文でも小説でも何でもいい、そういった書きたいと思うものを思う存分書くことが幸せだと思っていたし、今でもそう思っている。けれど、そのためには、私は現実での自分が追い詰められて不幸でないと書けないんだと知ってしまった。それが本当の幸せなんだろうかって今は思っている。怒涛のように書きたい。書きたいと思うものを実際に文字で表現したい。そう思ってはいるけれど、現実でつらい思いをするのはもうごめんだとも。だから、私は願った。もう書けなくなってもいい。書けなくなってもいいから、現実で平穏に平凡に何の問題もなく静かに暮らしたい。病気になって痛い思いもせずに、人間関係とか仕事関係で辛い思いもせずに、残りの人生をポカポカあったかい陽だまりで、旦那さんと一緒に静かに暮らしていけるのなら、何も書けなくなってもいいって。それのせいじゃないとは思うんだけど、ほんと最近ではあまりいろいろと書けなくなった。小説に対するモチベーションもそんなになくなったし、日記とかブログとかで書くのも昔ほど多くは書いていない。それでもまったく書けないわけじゃなく、こんなふうに時々吐き出すように書くこともあるけれど。ただ、昔ほどのものは書いてないから、少し物足りなくはあるんだけど。けれど、今が本当は一番いい状態なのかもしれない。現実でも追い詰められることもなく、書き物でもまったく書けない状態じゃなく少しは書けているわけだし。こういったほどほどの状態が一番幸せってことなのかもしれないなあと、ちょっと暖かくなった晩秋の午前、仕事に出る前にそんなことを思ったよ。今日はいっぱい書いたね。書かせてくれた人に感謝。今「ネタに使ってごめんなさい」って付け加えようとしたけど、本当はそんなこと思ってないと気づいたから、やめといた。これだから、私の取り上げ方は誠意がないと言われるんだな。やっぱ私って最低だ。でも、これが私なんだよな。それでいいと思ってるんだよな。そして、そんな自分が私は好きなんだよな。

というか、ほんと私って一言多いんだよね。「そんなことを思ったよ」でやめとけばいいのにねえ。余計なことまで書いてるし。ま、それが私という人間の本質だってことだよ、うん。(笑)

聞いて聞いて私の話を聞いて

2009年10月27日 09:35

またまた言及とはいえないものを書く。それはみっちーが書いていた記事の中に出てくるこの記述から生まれた自分語り。

『ぼくは子供の頃、自分の行動範囲しか世界はないのではないか、というような妄想をしていたことがありました。なにかの理由があってここに連れてこられてきて、ずっと監視されていて、ぼくが行く可能性のあるところはしっかりと作られているけれど、例えば入る用事もないようなビルなんかは外側だけはちゃんと作ってるけど中身は張りぼて、更に、行く必要もないような遠いところなどは実際には存在しないのではないか?

そのような妄想を、どういった話の経緯でそこに辿りついたのかは忘れましたが、ある時、知人も同じように昔持っていたことがわかったのです。自分の周囲しか世界はないのではないか。自分は特別なのではないか。だいたい同じ内容です。お互い似たことを考えていた。その事実を共有した時はふたりでかなり興奮したものです(確か朝までチャットをしていました)。しかしやがて、インターネットなどを通じて、こういった(中二病的な)妄想は、それほど特別でもないのだ、ということを知ることになります。』(「我思う我書く、の2 - 「で、みちアキはどうするの?」より引用)


自分だけだろうかという考えや行動などが実は自分だけでなく、けっこう多くの人が同じようなことを思ってたりやってたりするんだっていうのは誰でも経験することではある。もちろん、なかには本当に特殊な考えや行動をしている人もいるんだけど、たいていの人はそれほど特別な考えや行動をしているわけじゃない。ただ、幼い頃はなかなかそういったことに考えが及ばず、そして、自分が特別なんじゃないかという思いをどうしても持ってしまいがち。まあ、それが子供の性質なんだろうとは思うんだけどね。で、ネットに限らず、大きくなって行動範囲が広がっていくにつれ、だんだんと周りの様子がわかっていくし、そこまでくると本人の想像力もだいぶついてくるもので、やっぱり自分はそんなに特別じゃないんだ、けっこう似たようなことみんな思ってたりするんだと気づいていくわけ。ただ、みっちーのこの文章の前半部分は、少なくとも私の子供の頃とはちょっと違ってたりするんで、そこらへんが私とみっちーとの違いなんだろうなあって思った。

私は物心ついた時には異世界とか宇宙とかに思いを馳せていたので、自分の行動範囲以外の遠くの場所には自分の知らない見たことのないすばらしい世界か、あるいは怖い世界が広がっていて、何かの拍子にその世界に迷いこんでしまうのではないかと恐ろしく思ったり、わくわくしたりしたものだったのだ。自分は実は超能力者で、あるいは別の世界の異世界人なんじゃないかと思っては、他の子供たちとは違う特別な存在なんだと思い込んだりして、いつか迎えが来て遠く宇宙の果てまで旅をしていくことになるんだと本気で信じていたものだった。世界は無限に広がる場所で、そこには限りなんてないんだって信じてたから。だから、自分の行動範囲にしか世界はないんだなんて、そんなことは一度も思ったことはなかったな。まあ、これも妄想の形態のひとつともいえる。

でまあ、ここまでがみっちーの文章で出てきた私の子供の頃の話ではあるんだけど、記事の最後にみっちーがこう言ってる。

『それにしてもなぜわたしたちは「思ったことを他人に伝えようとしたがる」のでしょうか。承認を得たいから? それとも、この世界に自分一人だけしかいないのでは淋しすぎるから、他人の存在を確かなものとせんがため、でしょうか?』


他の人はどうかわからない。でも、私の場合はただたんに「聞いて聞いて」につきる。理由なんてそこにはない。言えるとしたら、私の場合に限り、自己顕示欲だけなんだろうなって。誰かに聞かせるというよりも、どちらかというと自分のために書いてるって感じ。だったら、別に公開された場所じゃなくてノートに書いとけばいいんだけど、それは今までさんざやってたことなんだよね。ずっと私はノートに書き続けていた。ただ、また同じこと書くけど、ノートでは書くスピードが思考能力についていかないし、書く行為は手が疲れてたいした量が書けないけれど、でも、キーボードでの打ち込みだと疲れを知らないように書き続けることができるから、だから、こんなふうに書いている。で、だったら、別に公開された場所に書かずにローカルで書けばとなるんだけど、いったんネットで公開できると知ったからには、やっぱ公開で書きたくなるんだよね。たぶん、ネットに繋がらなければ公開せずに今まで通り、ノートに書いていたようなことを延々と書き続けてることだろうな。たまたま、ネットに接続できて、公開して、タイミングよく誰かが読んでくれたらそれはそれでいいなと。まあ、これもネットで書くようになって、少ないながらも反応してもらえたから、それが自分の自己顕示欲をくすぐっちゃったからとも言えるんだけど。それはもうしょうがないよね。まったく反応なかったというけじゃないからなあ。少しでもそういう楽しさを知ってしまったら、もう昔には戻れない。そういうもんだと私は思っている。

一番作者を無視した存在

2009年10月13日 07:11

ちょっと前になるんですけど、ついったーで23mmさんが呟いていたことに反応したんですが、その呟きがこちら

『現代詩の詩集なんてまず買わないしな。そんな我が家にも谷川氏の詩集はあるんだよね。』


それに対して私はリルケの詩集とネットで知り合った人が出版した詩集を持っていると答えたのですが、考えてみたら私って詩集ってそれ以外は持っていなかったなあと思ったんですね。詩を読むのはそんなに嫌いじゃないし、自分でも詩はけっこう書いてはいるんですけど、本としては持ってないんだなあって。それに、リルケの詩集にしても、もともと母のもので、リルケの書いたものに興味があったから貰い受けたということもあり、自分で買った詩集って友人の詩集だけなのかもしれない。まあ、ほかに詩集っぽいものを買ったことはあったけれど、そういったものはあまり詩集というふうには私は捉えてなかったからなあ。でまあ、リルケにしたって、竹宮恵子がマンガで引用していなかったら存在さえも知らなかっただろうし。

私も子供の頃に日記とかで詩などを書き綴ったりして詩自体に接してきたことは確かなんですが、教科書で習った詩人などもほとんど覚えてないんですよね。誰かこの詩人がすごく好きというものがなかったという。私の場合は好みの語句が詩の中で出てくれば、これいいなあとなってその詩に執着持ったりすることはあっても(それは短歌とか俳句でもそうだった)書いた人に対しては興味を持つってことはほとんどなかったんです。だから、リルケにしたって、リルケが好きというよりも、リルケの書いたこの詩だけが私にとっては特別な詩だったわけです。竹宮恵子の「ジルベスターの星から」に書かれたこの一文。

『だれがわたしにいえるだろう
  わたしのいのちが
    どこへまで届くかを?』


これがひとつの詩なのか、ひとつの詩の中の一文なのかはわかりません。なので、これを読んでみたいと思って、ちょうど母が持っていたリルケの詩集から探してみたのですが、見つかりませんでした。ただ、「ジルベスターの星から」には、もうひとつリルケの詩が出てきます。「わたしは生きる しだいに大きく…」という詩です。それはちゃんとその詩集には掲載されていました。でまあ、今でもあきらめきれない私は、検索でちょっと調べてはみたんですが、やっぱり見つからないですね。タイトルでもわかればいいんですが。すると、検索のトップに出ていたある方の書いたものに興味を持って読んでみたんです。

『今日、実は大きな書店に寄ったので、このリルケの詩を読みたくて探しましたが見当たらず・・岩波文庫ならあるかと思ったんだけどなあ。「ドイツ名詩集」にはリルケが採られてたんですが、この詩はなくて。学生のときは「リルケ詩集」を持っていました。これは旺文社文庫だったかなぁ??もう無くなってしまったので残念です。また別の書店で探してみよう。

「だれがわたしにいえるだろう わたしのいのちがどこまで届くかを?」・・・この詞を目にしたころは、作品世界と相まって、物理的に遠くに行くことばかりに思いを馳せていました。どこまでも、どこまでも遠くに行ってみたかった。だから、英語もまるでダメだというのにヨーロッパを1人で放浪してみたりといった無茶もできたのでしょう。

今、この詞を胸に折りたたんで、そしてそっととりだしてみた時、違う感慨がありました。いのち、という限られた時間の中で、どこまでその心で高きをめざせるものか、というような。人生を広く、広くと夢見ていた思いが、今厚く、厚くと考えているということは、精神的に老いたというべきなのか、それとも視点が変わったのか、計りかねますが。』(「わたしのいのちがどこまで届くかを? 空音な日々のつれづれ」より引用)


この方も見つけていらっしゃらないようですね。ほんとどこにあの詩は綴られているのだろう。

私がこの一文と出会ったのは中学生の頃。引用させてもらった方のようにまた私も「どこか遠くに行きたい」と思っていたんですよね。今もその気持ちは変わりはないですけれど、なんと言うか、「どこか遠くに…」と思う時のその気持ちを感じることのほうが好きなのかなあと思うようになりました。
子供の頃のようにどうしても今の私には自分に対しての可能性というものを信じることはできなくなってしまった。それはやっぱり自分がもう若くはないのだということ。ただ、まだまだこの年でも可能性はあるということは頭ではわかってはいるんですけど、やっぱりね、どうしても身体の衰えとかをしょっちゅう感じるようになってしまうと、可能性を信じるよりも残りの人生を無難に過ごしていきたいと思うようになってしまったんですよ。そうなると、実際に「どこか遠くへ…」を実現させるよりも、その気持ちだけを楽しみたいとなっていく。それはもう私のような性格のものにはしょうがないことかなあとも思います。ほら、なんてったって私にはお得意の妄想がありますから。(笑)
そこで生まれる妄想が小説になるわけですからねえ。これはもう可能性を信じられる子供の頃からやってきたことでもあるんで、なかなか変われない性質だと思います。まあいいんです。私はそれで幸せなんですから。


で、本題。またしても前置きが長くなってしまったんですが。(笑)

23mmさんのレスで思ったことなんだけど。

『詩のリズムが翻訳で崩れてしまうだろうというのが気になっちゃうんですよね。かと言って、原語で読める程の語学力もないし。』


リルケの詩集も原語ではなく翻訳です。私は外国語がまったくチンプンカンプンなんで、翻訳されたものしか読めないわけで、だから作者の真の言葉というものは理解はできないだろうなあとは思ってはいても、それは別にどうでもいいことで、読んだ自分がどう思うかだけが大事だと思っているんですよね。翻訳されたものであっても、自分が「いいなあこれ」と思えることだけが大事だって。まあ、そうなると、翻訳する人の感性が重要な鍵になってしまうんでしょうから、いかに自分の好みに合致する翻訳家にめぐり合えるかどうかになっていくわけなんですが。

で、23mmさんの言っている詩のリズムというものって、原版と翻訳版ではやっぱり違ってきてしまうのはしょうがないかなあと思ったんですよね。それで、それがイヤなら頑張って原版を自分の力で理解していくしかないと。私も詩の持つリズムって大切だなあと思っているほうなんですけど、それは翻訳で感じられたらいいやと思ってもいるんで、23mmさんみたいに崩れることを気にするってことは私にはありません。そこに書かれたものだけが私のすべてですから。まあ、ある意味、一番作者を無視している読者とも言えるわけですけどね、私ってヤツは。

ところで、リルケの詩集を本棚から探している時にこんな本を見つけてきました。それは「人生の知恵 リルケの言葉」というもので、初版が1969年に出ている書籍です。リルケの詩を取り上げて、それについて解説というか論じているといった内容のもののようなんですが、おそらく古本屋でゲットしたものだと思います。もしかしたらあの詩が見つかるかもしれないと思って購入したんでしょうね。どうやら、載ってなかったようです。で、興味をなくして本棚に突っ込んだままだったという。つまり読んでない。せっかくだから、ちょっと読んでみようかなあと思っています。

これもいわゆる不幸自慢

2009年10月12日 07:02

ついったーでは斬さんをフォローしている私ですが、彼はついったーを非公開(プロテクト)にしてるんです。私が彼の呟きを読む限りでは、プロテクトにする意味がわからないなあと思っていたのですが、本人は本人なりに他人への配慮からそうしているらしいというのが彼のブログで語られていることを読んで理解できました。その記事が「『斬(ZAN)』 Twitter で予約投稿をする理由」なんですが。

ただ、この記事についたブクマコメでこういうのがありましてね。

『リプライじゃないsouryuuseiさんの呟きは、挑発的なモノもけっこうあるよなぁという印象が。つか開き直ってどんどん斬ってしまえば。』(「はてなブックマーク - 『斬(ZAN)』 Twitter で予約投稿をする理由」より)


うーん。確かに「斬」というだけあって、彼はいろんなものを斬ってはいるようなんですが、そんなに挑発的なものってあったかなあと私なんかは思いました。まあ、その発言が自分にとって当てはまるものであれば、くりりんしてしまって「何だとこら」となってしまう場合もあるんでしょうし、心弱い人であったなら「えーん、いじめられたー」となって傷つくってことにもなるでしょう。そして、私が彼の記事を読んで感じたことは、彼は他人を傷つけることにかなり臆病になっているということ。臆病っていうのはちょっと違うかもしれないけれど、ちょとほかにいい言葉が浮かばなかった。でも、正直、私から見れば彼はどうしても「臆病になっている」としか思えないんですよね。その記事を読んだ限りでは。

『 この記事を考えていて、Twitter を非公開にしている理由がもう一つあったことに気が付きました。それは、自分のつぶやきを観る人を傷付けてしまうかもしれないから、というのが潜在的にあったのだいうことです。

・文章は、間違って捉えられやすい
・文字数が少ないことで、的確に伝えることが難しい

 これも多くは、リプライなどで相手がある場合に、キツイ発言をしてしまい、誤解を生むことを避けるためでもあります。』


傷つけてしまうっていうことで、あとでまた引用するつもりなんですが、彼は「何でそんなことで傷付くんだ?」ということで傷付かれることが怖いというようなことを書いています。それは私も経験ありますし、誰でもそれは経験してきていることだと思います。だから、はっきり言って、それを怖がっていたら何も書けなくなるということで、積極的に傷つける気持ちを持てというわけではないのですが、傷つけてもそれはもうしょうがないという強い気持ちを持たない限りは、これ以上ウェブで何かを書き続けることはしないほうがいいんじゃないかと私は言いたいですね。この私の言葉も誰かを傷つける言葉じゃないかと思います。だけど、私は誰かを傷つけるつもりはないし、この言葉で傷付かない人だって確実にいることはわかっている。だから、私は自分の正直な気持ちを書き綴るだけです。だって、私は傷つけるために書いているわけではなく、ただ書きたいから書いているだけなんですから。他人のために書いているわけじゃなく、自分のためだけに書いているし、誰かを救いたいから書いているわけじゃなく、自分を救うためだけに書いているわけですからね。誰も傷つけようなんて思ってないことだけは、私の言葉で傷付いたという人には知っていてもらいたいなあとは思っています。

もちろん、そんな私でも非公開で書いているものはありますよ。ただ、私が非公開(ついったーで言えばプロテクトをかけている状態)で書いているものは、彼のように傷つけるかもしれないというあいまいなものではなく、確実に誰かを傷つけるはずのものを書いているからです。つまり、昔のようにサイトが炎上してしまうようなものを脊髄反射で書いているようなものですから、私の正直な気持ちを読まされた誰かにとってはかなり不快になるだろうし、傷付くだろうし、それがもとで私を攻撃してくることも火を見るより明らか。でも、私は絶対に読まれたくないものはウェブでは書きません。だから、その非公開の場所に書いたものも、いずれは公開することになるでしょうね。私がそこで書くのに飽きたか、それか気まぐれでといった理由で。ただ、今現在は公開するつもりはないです。

『以前、ウェブではなくリアルで、親しくなった何人かに
 「以前言われたあなたの○○という言葉で凄く傷付いた。今でも思い出すと心が苦しくなる」
 といった内容のことを言われた経験があるのです。』


私にもありますよ。「自殺はいけないことだ」と日記で書いたら、その言葉に傷付いたと言われたことが。日記を書き出して初期のころだったので、私の言葉で大好きな友人が傷付いたと知った時にはショックを受け、私なんて日記を公開するべきじゃないんだと自分を責めたものでした。けれど、その友人は、傷付いたけれどそれでも自分はあなたに正直に書いてもらいたいということを言ってきたのです。つまり、自分も正直に傷付いたと言うから、あなたも正直に書き続けてくれと。後に、これが文字だけの交流における本当のコミュニケーションというものなのかなと思ったものでした。そして、その友人とは今でも交流しています。主にmixiで、ですが。

『 移転前の goo 時代のブログでも触れたことがありますが、このブログが『斬(ZAN)』というタイトルにしているのも、ブログの言葉で“斬る”ことを前提に、周囲に斬られる用心をするようにという意図で付けています。つまり、斬られたくなければ近づくなということです。』


まあ、それは私も同意ではあります。私の場合は書いているものに何度か「私に傷つけられたくないのなら私に近づくな」とメッセージを書きながらそれを訴えてはいますけれどね。ただ、私としては、読みたい人のものは相手が隠さない限りは積極的に読んではそれで自分語りをしてしまったりするんで、近づかないようにしていても、私から近づいてしまうんですよね。だから、私を手ひどく振るしか私から逃れるすべはないと思います、公開で何かを書いていて私を嫌いな人は。もっとも、手ひどく振ったら振ったで、私はそれについても憤った何かを書いてしまうので、始末に終えん相手ではあるとは思いますが。まあ、あれです、私に好かれしまった悲運と思ってもらいたいよなあ。私がどういったものを好むかわかっていれば対処のしようがあるんでしょうけれど、私を嫌いであればどんなものを好むかなんて気づけないでしょうからねえ。そりゃもうどうしようもないと思います。何人かは私が追えないように完全に私から姿を隠した人もいますし、とどめを刺してきた人もいますしね。斬さんがそういった経験をしているとはどうも思えないんで、やっぱり私よりは斬さんの書くものって、そんなに他人を傷つけるものじゃないと思うんですけどねえ。って、これもいわゆる「不幸自慢」とも取れる発言ですよね。(笑)

『 それは、自分ではなかなか気が付かないことなのです。何でそんなことで傷付くんだ?と思うようなことで傷付かれているので怖いのです。たぶん、元々そーゆーモノを持ってしまっているのだと思います。』


だから、「そーゆーモノ持ってしまった」という自分だとわかっているのなら、覚悟して書き続けるか、もう書くことはやめるしかないと思うんですよ。あとは、完全に姿をくらまして、自分一人相手に書き続けるか。けれど、私は斬さんの書くものは読みたい人です。すべてを読みたいわけじゃないけれど、時々すごく私の心にヒットする(自分語りを誘発させるとも言う)ものを書いたりするんで、斬さんの書くものは見続けたいと今のところは思っています。だから読ませてほしい。でも、私に読まれたくないとなって隠れてしまうのならそれはもうしょうがないかなあと思います。たとえばついったーでリムーブされてしまうこともありうるわけですけれど、もしそうなったとしても、多少不満は呟かせてくださいね。それを読んで傷付かないでくださいね。なんてね、私なんかに不満ぶつけられても傷付くかどうかは大いに疑問ではあるんですけれど。

はてなスター好きだよ

2009年09月28日 08:48

はてなスターが好きだったと書いている人がいた。


『でも今は。スターが明るくてまぶしすぎてこの人には近づけない。自分と同類なのかなって思える人のダイアリを見ても他の人がつけたスターが何個も連なっているのを見ると自分が入り込める隙なんてないんだと思い知らされる。なんというか、この人なんだかんだいって充実してるんじゃねぇの。実際がどうかは別として。mixiでマイミクの日記のコメントが連なってるのと自分を比べているような感覚だ。この人にとっておれは場外なんだろ。裏切られたような気分だ。勝手すぎるけどさ。勝手すぎるけど、おれは共感したかった。でもおれには共感する資格さえなかった。』



自分と同じ気持ちを持ってる人いるんだなあと思った。けどさ、この人の日記のアンテナの被登録数めちゃ多いんだよね。私の日記なんかこの人の足元にも及ばない。たとえ登録している読者すべてがこの人の日記を読んでいるとは限らないよって言われたとしても、わざわざ登録してくれることをもちっと自信に繋げてほしいよなあと思う。私なんてアンテナ被登録、私の確認できる範囲ではゼロだもんなあ。まったく読者がいないとは思わないけれど、私に確認できないものはゼロと同じことだもの。つまり、誰も私の日記読んでいないってことで。(しつこいようだけど読んでる人はまったくいないというわけじゃない)

残った方がいいのか、消えた方がいいのか

2009年09月28日 08:44


『私がパソ通時代に好きな文章を書いている人のサイトがあって、そこはもう更新が止まってしまっているんだけど、未だにサイト自体は存在している。今でもたまに見ては、「ああ、やっぱり更新してないなぁ」と思いつつ、無くなっていない事にほっとしたり。』 (「「一つのウェブサイトの閉鎖と、過ぎ去っていった時代。(via 情報屋さん。) - 明日は明日の風が吹く」 より)



私にもそんなサイトはいくつかある。で、その中でも梓さんのサイトは、本人が亡くなっているということがわかっているサイトだ。いまだに梓さんの神楽坂は最後に更新された時のまま。毎日じゃないけれど、時たまアクセスしてはまだ消えていないと確認する。時間がある時は残された更新日記を読んだりする。それはマイスペースの梓さんのプロフもだ。あそこもずっとそのままなんだろうな。削除されない限りは。神楽坂はどうだろう。いつまでサイトは存在できるんだろうか。
過去にたくさん梓さんの更新日記を取り上げて自分語りをした。だいたいは引用しての言及(とも言えない内容だったけど)したから、梓さんが何を書いたかどうかは何となくは思い出せるけど、引用せずにリンクだけしたものは元の記事が読めなくなった今は、梓さんの文章が読めなくて悲しい。過去ログはどうしてそのままにしてくれなかったんだろう。その過去ログを本にしてくれるっていうのならいいんだけど、そこらへん梓さんのご主人はどう思っているのだろうか。
梓さんなら、ご自分の入院生活のことまでも本してしまうほどの語りたがりの人だったから、更新日記もいずれは本にする気持ちはあったんじゃないかと思う。ログすべてを本にできるものなのかどうかはわからないけれど、すべてのログが本になるのが私にとっては望みだ。


『私のサイトを見た人の中で、一人ぐらいは影響を受けてサイトを始めてくれたら嬉しいな。そのサイトがあって、またそのサイトに影響を受けたサイトが出来て……そうやって、また何かが伝わっていき続けたらと思う。そうしたら時代が過ぎ去っていく中でも、何かが消えずに残っている……という事にならないだろうか。』 (「「一つのウェブサイトの閉鎖と、過ぎ去っていった時代。(via 情報屋さん。) - 明日は明日の風が吹く」 より)



ヤストロさんとか梓さんなら、影響受けた人がいるだろうとは思うけれど、私の場合はたぶん誰も私に影響受けた人はいないんじゃないかと思う。まあ、影響も悪い影響は受けた人はきっといるんだろうなあとは思うけれど。これは自虐からではなく、事実であるから。間違いなく、私から悪い影響を受けた人はいる。そんな人を何人か私は知ってるから。

私はいいものだけが伝わればいいという考えを持っていない。ヤストロさんが「いいものが伝わっていけばいい」と思っているかどうかはわからないけれど、一般的にはいいものが伝わって欲しいと思うものなんだろうから、たぶんヤストロさんもそうなんじゃないかと思う。私にとっては消えて欲しくない何かであっても、他人からすれば消えてしまって欲しい何かの場合もある。そんな時にその「何か」は残ったほうがいいのか、それとも消えた方がいいのか、それは誰にも決められないことだよね。どうあるべきか、私は時々わからなくなる。残った方がいいのか、消えた方がいいのかって。いまだに決めかねている。