そのまま夢の中で

2017年10月19日 22:15

そういや、やっとこさ、全3巻そろった「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」読んだのだけど、なんかもうね、こんな悲しい話は読みたくないって思った。昔はそんな悲しくて切ない話を欲していた時期もあったんだけど、たぶん、子供だから、若いから、そういった切ない系の話を求める傾向があったんだろうと思う。けど、今、自分の周りの親しかった人たちが次々とこの世を去っていき、そろそろ自分の番がくるなあという今頃は、とにかくハッピーエンドな話だけを読んでいたいんだ。それもね、自分が死ぬ間際に、そんな素敵なラブラブな夢を朦朧とした意識の中で見ながら死んでいきたい、そして、願わくは、そのまま夢の中で生き続けたいって、そう思うから。

ハーレクインでよくある話

2017年05月08日 08:22

「こうのとりのゆりかご」開設から10年ですか。当時話題になってたよなあ。ここから養子になった子も大きくなって、自分のルーツを知りたくなる子も出てくるだろうっていうことらしいけど、その中でも「捨てられた」という思いはどうしても持ってしまう場合もあるだろうね。そういうの見ててハーレクインでもそういうのよく見るけど、どうしても捨てる側の親の気持ちをわたしの場合は考えてしまう。確かに、いらないという簡単な気持で捨ててしまう親もいるだろうけど、すべてがそうじゃない場合もあるよね。いろんな事情でどうしても育てられないという場合とか。死なせたくなくてそういう生きる可能性のある場所に捨てることはまだマシな親だと思う。もっと非道な親は命を奪うだろうし。それに比べたら、生きれる可能性のある場所に捨てるほうがマシだよ。わたしはそう思うな。で、誰かがコメントにも書いてたけど、捨てた親より育ててくれた親とのことだけを考えたほうが幸せになれるって。捨てた親には産んでくれてありがとうくらいな気持で、それ以上のことは考えず、大事に育ててくれた今の親に対して、一生かけて親孝行していけばいいんじゃないかなあ。

ハーレクインといえば、フランスの大統領選決まったらしいんだけど、新大統領マクロン氏って39歳で、奥さん25歳も年上だそうな。しかも、マクロン氏の高校時代の英語教師だったっけ。さらに、奥さん、連れ子と孫がいっぱいいるらしい。で、マクロン氏が猛アタックしたそうな。すごいな。ハーレクインを地でいってるな。でまあマクロン氏、若いし、カッコイイし、マジでハーレクインばり。物語だわあ。

妄想万歳

2016年09月18日 08:34

結婚して子供のいる自分は物語の主人公になれない、とかいうのを書いてる人がいた。そりゃあ、その人があげてるよーなアニメの物語じゃあ主人公はその子供たちなんだろうけれど、物語という括りでいうなら、どんな物語の主人公だって子供がいようが年寄りになろうが主人公でしょ。もっとも、タイトルだけにケンカ腰になってるってだけのわたしだから、その人の気持ちはわからないではない。

わたしだって、かつて自分が好んで読んでた物語の主人公にゃもうなれないって思ってるし。赤毛のアンとかポーの一族とか他、恋愛漫画・小説などといった類の物語たち。50代になっちまったおばちゃん、いやもうすでにおばあちゃんの域に突入した自分はそんな物語の主人公にはなれない、間違いなく。まあ、なりたいとも思わないけどね。

まだ少女の頃、そうだなあ、高校生くらいまでなら、物語のような生き方をしたいと強く思っていたものだけど、社会に出て、生きていくことの難しさ、自分の社会性の無さを痛感するようになっていくと、物語のような生き方なんてとんでもないと思うようになっていった。物語のような生き方をする人も現実にいるわけで、そういった人たちの波乱万丈な人生は、本当に大変なものなんだってわかるようになっていくんだわ。だとしたら、そういうのは現実ではまっぴら、けど、退屈な人生だけもつまんない、というそういうワガママな欲求を満たしてくれるのが、物語であると思うようになるわけで。つまり、物語のような主人公に疑似体験ができるのが、読んで楽しむ物語たちとなる。

妄想万歳。

結婚して子供がいる主人公の物語も巷にあふれてるよ。わたしが最近好んで読んでるハーレクインの物語はそういうのが多い。そういうので疑似体験して楽しむのもある意味物語の主人公になったようなもの。そんなふうに楽しく生きていくことが、今のわたしの生きがいかな。

生きてさえいれば

2016年08月16日 08:49

とある人の書いた記事を読んで、その「騒動」は見守ってたわけじゃないけど、似たような物語をゲクトで書いたこともあって、今見てるこの人の書いた記事(リンクはしない)を読んでたら、ああ、あの話でもあったよなあ、告白しちゃダメな相手に告白しようとしたキャラの話。まあ、わたしの書いたものは告白することはなかったけれど、結局は愛する相手のことを守るために命を落としたという話にしたわけで、ああいった愛する人を守るために命を落とすことって現実にもあるはず。

で、記事を読み進めてたら、今度は別の作品のことを思い出した。ちょうど今読み返しをしてるJETさんがアマンダ・ブラウニング原作で描いた「罠に落ちた秘書」という作品。たとえとしてはまったく重なるところはないけれど、この作品に出てくるキャラが愛していた人に冷たく拒絶されて生きていけないとなって自殺してしまうんだけど、そのせいで、自殺した男の親友が拒絶した女性に復讐をするという物語。というのは表向きのこと。真相は違っていて、これも冷たく拒絶した女性は、愛する人を守りたいがために拒絶したわけで、自殺さえしなければ、いずれは真相がわかって幸せになれるはずだったんだよね。つまり、自殺した人は心が弱すぎた。これが別の誰かであったなら、たとえば、自殺した人の親友の男であったなら、裏切られたことで絶望して自殺なんかせずに、裏切った女性に復讐するために生き続け、いずれ真相を知って和解するということもできたはず。だから、酷なことを言うと、一連の騒動で誰に非があるかとしたら、わたしは自殺した人に非があると思う。自殺したことで、自分も不幸にする上、さらに自殺した人の親族、友人も不幸にし、そして、愛していたはずの相手をも地獄に突き落とす。人は拒絶して誰かに顛末を話した相手に非があるというだろうけれど、それはあるけれど、彼だけじゃない、非があるのは。自殺してしまう人はたとえ相手が誰かに顛末を話さなかったとしても、いずれは自殺してしまったんじゃないかと思うよ。自殺しそうになった過去のある自分が言うんだから間違いない。だから、話してしまった人にも非はあるだろうけれど、自殺してしまった人のほうが一番非があると思う。

生きてさえいれば、いつか自分を受け入れてくれる誰かが現れるはず。もしかしたら現れないかもしれないけれど、生きていればそれでも可能性はゼロじゃない。だから本当は死ぬべきじゃないんだ。そうは言ってもこう言っているわたしであっても、死にたいという気持ちから逃れられない。今はまだ大丈夫だけど、一線を越えてしまう危うさはいつも抱えている。だから必死になって現実逃避としてのハーレクインのマンガがあるわけで、それらは今のわたしを確実に救ってくれてるんだよ。強くあるために。

配慮配慮と言うけれど

2016年06月12日 08:34

シロクマさんの記事に書かれていた、末尾に書かれる「ありがとうございます」という蛇足的な言葉とは違うかもしれないけど、友人のブログで起きた諍いのことを思い出した。その友人のブログはここでリンクはしないけど、一部の人にはリンクはらない理由はわかるかと思う。(笑)

友人のブログでは書き手が書く末尾の言葉ではなく、書き込みをしてきた読者のコメントの末尾に書かれた言葉が諍いの原因となったわけだけど、それはつまり書き込みする上でのコメント者の配慮ともいうべき言葉で、はたからみれば確かに配慮としては当たり前の言葉で、それに対してブログ主が不愉快になるってことは意味がわからないと見る第三者は多いでしょうね。で、友人のブログで起きた諍いの原因となった書き込みは、そのコメントがそこに書かれることはそのブログに対してふさわしくないのではないか、もしそうならば削除してくれという内容だったんですよね。それに対して友人は、ふさわしいかふさわしくないかはこっちが決めることであり、わざわざそんな言葉は書かなくてもいい、そんなふうに思うのではあれば最初からコメントを書くな、不愉快だと言い切ったわけです。今思うと、友人のその言葉は言っていいことではないと思うんだけど、友人は思ってることをそのままズバリと言ってしまう傾向があり、そのせいで過去に何度もトラブルに遭ってるわけですね。だから、コメント書かれた人だけでなく、書き手である友人も末尾にそんな非難の言葉を書かなければ、書き込みされた人を怒らせて「もう二度と書き込みしません」とはならなかったんだろうと思う。

よかれと思って発した言葉が、相手を激昂させたことは多くの人が経験していると思う。それは、想像の範囲を超えた出来事ではあるんだろうけど、わたしのように「なんでこんなことで怒る」ということで怒ってしまうタイプの人間だから、どんな優しい配慮ある言葉であっても誰かを怒らせてしまうことはあるんだとわかっているわけ。だから、誰かがわたしの書いた物で理不尽に怒ったとしても、ま、しょうがないかと今は思えるようになってきた。お互い様だよね、って。そうでも思わなきゃ、何も書けなくなるしねえ。だからまあ、シロクマさんの書かれた当該の記事だって、誰かは、つまりは、ブログの末尾に「最後までお読みいただきありがとうございました」「気に入った方はお気に入り登録よろしくお願いします」とかいう言葉を書くブログの人を不愉快にさせることはある。でも、そういった誰かを傷つけるリスクをリスクとも思ってないのがシロクマさんなんだろうな。そうじゃなきゃそんな記事は書けないでしょ。どんなものを書いたとしてもどこかの誰かは傷つく。そんなことはわたしも何度も経験してきたし、逆にわたしも傷ついてきた。でも、傷つけても傷つけられてもわたしは書くことをやめられない。それは友人も同じだ。誰かに「もう二度とと書き込みしません」とか「もし私のブログを見つけてももう来ないで下さい」とか「私はあなたと再び言葉を交わすつもりはありません」とか、そんな非難をされて血の涙を流したとしても、それでも書くことをやめられない、なんとも業の深いことだなあと思わないではいられないですよね。

書く、ということはそれくらいの覚悟がないといけないよなあって思う。どんなに気楽に書いていたとしても、どんなに素晴らしいものを書いていたとしても、どんなに粗悪なものを言いたとしても、読んだ人がどんな人かわからない場所で書くのだもの、必ず傷つくことはある。そして自分も誰かを傷つけることもある。書き続けたいのなら、それをゆめゆめ忘れずにいなくちゃね。とはいえ、そうは言っても思わないではいられない。そりゃあ配慮は必要だと思う。けど、反面、本当なら配慮なんていらない世界であってほしいって、物書きであるわたしはそう思う。そうであってほしい。

ぐれあむぺんぎんはここで書いてます(笑)

2015年11月24日 11:09

とある人のブログ記事を見て思い出したことがある。昔、サイトで日記を書いていた時に、自分は器が大きくてよかったというようなことを書いた。それはつまり、自分はどんな創作物でも受け入れられるということ。その頃のわたしは同性愛物にはまっていた頃で、そんなふうにどんなものでもオーケーという表明が、そういったものに嫌悪感を持っている人を傷つけたことがあった。わたしは受け入れられない人のことを否定したつもりはないけれど、ただ、自分の書いたものをその人には読んでもらえないということに少なからず腹立たしくも思っていたこともあり、結果的には「創作する人がそんなことではいけないんじゃないか」と突きつけてしまったことで、わたしたちの友人関係は破綻した。今思うと、当時のわたしはほんと考えなしだったなあと思う。まあ、あの頃は、自分の書いた一般作品より、別名で書いていた同性愛物の創作物のほうがいいものを書いているという誇りがあったので、どうしてもその自信作を読んでもらえない、受け入れてもらえないことを理不尽に思ってしまったからしかたないことではあるんだけど。

だから、この記事を書くきっかけとなったとある人のブログ記事を読んでいて、その人も自分とは違う人のことを否定しているということを書いてはいないのだけれど、どうしてもその記事は、その人と違う考えの人のことを否定しているように思えてしまう。きっと、これが、当時のわたしの書いたものに対して「否定された」と友人が思ってしまった理由なんだろうなあ。そう思うと「書く」という行為は、どうしても誰かの逆鱗に触れてしまうことであり、どうしようもないことなんだなと思う。だから、どんなに「自分は自分と違う考えの人、違う嗜好の人を否定しているわけじゃない」と言ったとしても、書かれていることで「否定された」と相手が感じてしまったら、それはその人の読解力のせいだと非難することはできないよね。「否定された」と感じられない文章だって書く人もいるわけだから、結局は自分の文章能力の未熟さで、自分の思いが相手に伝わらなかったということなんだよ。

ああ、まさにわたしがそういう物書きとも言える。自分の言いたいこと、伝えたいことがどうしても相手に理解してもらえない。それで破綻した関係がいくつもあった過去をわたしは持っているから。本当はわたしなんてこんなふうに日記で自分の思いや考えを書くべきではないのかもしれない。書けば書くほど、わたしの思いは一人歩きをして悪い方へ向かってしまうのだから。でもまあ、今はもう誰かがわたしの書いた物で誤解をしたとしても、それを昔のようにわざわざ突きつけてくる人もいないから、好きに書いていけるというのもあるな。誰かは誤解してるかもしれないけど、それをわたしが知らない限りはその事実はわたしにとって事実ではなくなる。そう思うことで、わたしはこれからも好きに書いていける。そんなことを思ったこの場所も今年の夏で10周年。ここまで続くとは思ってなかったなあ。まあ、途中休止してた時もあったけど。それにしても「アレが落ちた日」を書いた時はまだ仕事についてなかったんだよね。でも、今の仕事についたのも2005年12月だったわけだから、今の仕事場も勤めて10年というわけだ。ほほー続いたなあ。そんなに続くとは思ってなかった、ここと同じで。(笑)

これからもこんなわたしですけど、なにとぞよろしくね。

死ぬまでに行きたい場所

2015年08月28日 10:54

たくさんありすぎるんだけど、ひとつだけしか選べないとしたら、やっぱ浄土ヶ浜かなあ。
ほんとは行ったことない場所がいいんだろうけど、たぶん、行ったことない場所は生きていたとしても死ぬまでに行くことはないだろうから、そうなると行った場所のほうが「死ぬまでに行きたい場所」になるんだろうと思う。もっとも、永遠に生きれるとなったら、行きたくても行けなかった場所すべて行くんだけどねえ。

意味なんかない

2015年05月11日 09:31

『年を取ると言うことは平凡で何の取り柄も無い自分を受け入れる作業です。』


↑の言葉は「一人前の消費者になるにはまだ早すぎる : web-g.org」に書かれていたことですけど、あーそーだよなーともうすぐ52歳になろうとしている今の自分はひしひしと思うようになった。まあ、結婚した26歳あたりからもうすでにそういう思いは持ち始めていたわけですけど。

わたしは自分で言うのもなんですけど、子供の頃は周りから高い評価を受けてたのね。美人だとか頭いいとか、とにかく将来が楽しみとか、高校の時なんか先輩から「いつか何かでっかいことするんじゃないか」とか言われたこともあったわけで。そういうことを言われ続ければ、自分もまた絶対将来は有名な人になったりするかもねーなんて思い込んだりするのはしかたないよね。でも、努力するのが大嫌いな自分が、将来成功するわけがないというのは今の自分はよくわかってるんだけど、当時の自分は努力なんてしなくても、好きなこと好きなようにやってればそれが成功につながるんだ、きっとそうだ、うん、そうに違いない、やっほー、となる。まあそれくらいお気楽でおバカな人間だったわけ。それは今でも変わらないんだけどさ。そりゃ、努力なんてしなくても、どんどん運とか何とかそういう何かで成功する人もいるだろうけれど、それはほんと一握りの人だけで、それに自分が入ってなかったら、そらー努力もしない自分が成功なんてするわきゃない。でまあ、だんだん、これは自分はごく一般のふつうーの人間らしいぞと気づいていくわけで。でまあ、今はそれなりに、そういった自分を受けて入れていくのが今の自分の幸せにつながるんだろーなーと思い始めているわけ。今のわたしはもういかに最期まで幸せに生きられるか、いかに楽に死ねるか、それだけを念頭に生きているって感じです。

いつの頃からか、生きることは何の意味のないことなんだと気づくようになった。意味を持たせることが悪いことじゃない。ただ、自分の幸せにとって、そういう何かの為に何かの意味を持たせることはイコール幸せには繋がらないなあと思うようになった。それより、漫然と生きて漫然と幸せを感じる。そんなゆるゆるな生き方だって別にいいじゃんって。それを他人にはとやかく言われたくない。でも、それでも、心の中の不安感はなくならないみたい。この間テレビでやってた、歯ぎしりする人はストレスがあるからだって。いまだに歯ぎしりがなくならないわたしは、どうしたってストレスからは解放されないんだなあと気づかされる。まったくストレスがないのもよくないとは言うけれど、そのストレスで歯ぎしりがなくならないとしたら、せめて歯ぎしりしなくなるくらいのストレス軽減を願うけれど、そのストレスはやっぱ努力の末でないと手に入らないものだと思う。もうこうなるとどうしようもないよね。

本日機嫌悪いとです

2015年04月11日 11:26

なんかさー昔から言われてることだけどさー玉姫様(注:生理のこと)の話をブログやらついったーやらなんやらで書くとなんじゃーかんじゃー言うヤツらがいるみたいだけどーそりゃ玉姫様ご来訪中にブログ書かなきゃいいんだろーけどさーそーゆーときこそバババーってなんかかんか書きたくなる場合もあったりしてさーいいじゃん書いてもーもっと不快なこと書いてるヤツもいるんだしーたかだか玉姫様の話ごときで不快になるだのなんだのってちゃんちゃらおかしくてヘソでちゃーわかすぞこらってなもんでーへっそんなことくらいで不快になるなんざーそいつの人生どんだけ狭いんだよって感じぃ?


そーです、ノイズちん、絶賛玉姫様ご来訪中なんすよ、だからこんなもん書いてるんす。


ノイズちん、51歳、今年の7月で52歳になるとですよ、それでもまだ玉姫様ご来訪されるですよ、ヘンですかね。うちの母親なんて60過ぎてもご来訪されてたみたいだし、遺伝かもしれないなー。でも、ご来訪中はほんとーに玉姫様がご乱心でー大変なんすよねーおなごの方々はおわかりになると思いますけどー。そんなわけで、ちょっと頭にきてたんで書いてみますた、玉姫様ご来訪話題にケチつけるヤツらは馬にケられて宇宙の果てまで飛んでけーってなもんで。www

自分のためだけに

2015年03月22日 08:09

『「ねぇ 少し読んでいってよ 私はブロガー」
楽しませたいんだ ただそれだけで いつだってキミの見せる笑顔の種を 僕はずっと探してる。
巡回中のmy heart 喜怒哀楽 守り続けたマイルールも一瞬で変えちゃう キミが大嫌いだ
なにげないキミのブコメで まだまだ頑張れちゃう程度に単純です
描く理想の僕と 少し違っていても キミがつけたスター 嬉しいから

特に書くこともないので最近お気に入りの曲に少しだけネット風アレンジして書いてみた。この気持ちすごく分かる。ブロガーは、好きな人の笑顔を見たいだけだったりするんですよ。』


↑はまなめっちの日記からの転載。たぶん半永久的に消えないわけじゃない、今までがそうだったから。ということで転載させてもらった。

好きな人の笑顔が見たいから、か。それはすべてのブロガーがというわけじゃない。それはきっとまなめっちもそう思ってることだろう。少なくともわたし自身は誰かの笑顔のために書いるわけじゃないから。何度も言うけど、わたしはわたしのために書いているから。それに、わたしは傷つけるために書いた過去もあったりするから、ほんとにわたしはろくでもないブロガーなんだろうな。