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生きてさえいれば

2016年08月16日 08:49

とある人の書いた記事を読んで、その「騒動」は見守ってたわけじゃないけど、似たような物語をゲクトで書いたこともあって、今見てるこの人の書いた記事(リンクはしない)を読んでたら、ああ、あの話でもあったよなあ、告白しちゃダメや相手に告白しようとしたキャラの話。まあ、わたしの書いたものは告白することはなかったけれど、結局は愛する相手のことを守るために命を落としたという話にしたわけで、ああいった愛する人を守るために命を落とすことって現実にもあるはず。

で、記事を読み進めてたら、今度は別の作品のことを思い出した。ちょうど今読み返しをしてるJETさんがアマンダ・ブラウニング原作で描いた「罠に落ちた秘書」という作品。たとえとしてはまったく重なるところはないけれど、この作品に出てくるキャラが愛していた人に冷たく拒絶されて生きていけないとなって自殺してしまうんだけど、そのせいで、自殺した男の親友が拒絶した女性に復讐をするという物語。というのは表向きのこと。真相は違っていて、これも冷たく拒絶した女性は、愛する人を守りたいがために拒絶したわけで、自殺さえしなければ、いずれは真相がわかって幸せになれるはずだったんだよね。つまり、自殺した人は心が弱すぎた。これが別の誰かであったなら、たとえば、自殺した人の親友の男であったなら、裏切られたことで絶望して自殺なんかせずに、裏切った女性に復讐するために生き続け、いずれ真相を知って和解するということもできたはず。だから、酷なことを言うと、一連の騒動で誰に非があるかとしたら、わたしは自殺した人に非があると思う。自殺したことで、自分も不幸にする上、さらに自殺した人の親族、友人も不幸にし、そして、愛していたはずの相手をも地獄に突き落とす。人は拒絶して誰かに顛末を話した相手に非があるというだろうけれど、それはあるけれど、彼だけじゃない、非があるのは。自殺してしまう人はたとえ相手が誰かに顛末を話さなかったとしても、いずれは自殺してしまったんじゃないかと思うよ。自殺しそうになった過去のある自分が言うんだから間違いない。だから、話してしまった人にも非はあるだろうけれど、自殺してしまった人のほうが一番非があると思う。

生きてさえいれば、いつか自分を受け入れてくれる誰かが現れるはず。もしかしたら現れないかもしれないけれど、生きていればそれでも可能性はゼロじゃない。だから本当は死ぬべきじゃないんだ。そうは言ってもこう言っているわたしであっても、死にたいという気持ちから逃れられない。今はまだ大丈夫だけど、一線を越えてしまう危うさはいつも抱えている。だから必死になって現実逃避としてのハーレクインのマンガがあるわけで、それらは今のわたしを確実に救ってくれてるんだよ。強くあるために。

読ませてよ

2016年08月13日 09:26

こんなわたしにも諦めずずっと関わってくれる人いるよ。過去に「みんなあなたのそばからいなくなるよ」と捨て台詞残していった人もいたけど、そして、それは確かにそう言われてもしかたないことをその人にわたしはしたから、そんな捨て台詞を言われるわたしもわたしではあったけれど、それでも誰もわたしの傍からいなくなることはなかったんだよね。一人でもちゃんとずっとわたしの傍にいてくれる人がいることは自信を持っていいと思えるようになった。それは、わたしでもそれなりに努力していると感じ取ってくれたからであり、わたしだってわたしなりに関係を持続させようとしているわけ。ただ、極端に自分を曲げて自分を変えてまでの努力はせずに、自然体に「わたし」でいることが基本で、あんまり昔と変わったというわけじゃない。なぜなら、昔のそのわたしであっても「好きだよ」と言ってくれた人がいたわけだから、それを基本にしてないと「わたし」がわたしじゃなくなる、いったいあんた誰だよっていうことになってしまうからね。要は、あの頃のわたしを好きだと言ってくれた人で、その後に嫌いになって離れた人っていうのは、最初からわたしを好きではなかったということ、好きだと思っていたのはその人の勘違いだったんだと思うよ。わたしは「好き」はずっと「好き」だし、どんなに酷いことされたとしても今でもその人のことは好きだもの。

これからもゆっくりとでいいから読ませてね。そう思ってる人は他にもきっといるはずだよ。

話すことは最大のコミュニケーション

2016年08月11日 07:59




交際している時というか、わたしも結婚当初はその考えの人で、旦那さんが自分が抱えていることをわたしに話してくれないことを不満に思っていた。まあ、わたしの場合は、旦那さんのことを思って話してほしいというより、話してくれない不安を解消したいがために話してほしいと思っていたことをわかっていたので、話してくれないことが不満で不満で、そのことで旦那さんと「ちゃんとやっていける気がしない」と思ってたこともあった。ただ、思うに、確かに誰に何を話すかはその人自身が決めるしかないのだろうけど、それが本当に最善のことかどうかはわからないわけで、だから、話せばうまくいくはずなことを話さないことで致命的な関係崩壊に繋がってしまうことってどうよって思うんだけどね。そりゃ、話してしまうことが関係崩壊となってしまう場合もあるわけだから、話すも話さないもどっちが正しいかどうかは結局はやってみなきゃわからない。そうだとしたら、話してみることが一番最善なことなんじゃないかとわたしは思うんだけど。とりあえず人にとっての最大のコミュニケーションは「話す」ってことだと思うもの。

スキ

2016年08月06日 19:25

そっかー名香智子さんが好きな漫画家さんだったのかー確かに雰囲気似てるよなあ。けど、この人は男のキャラの筋肉がすごく好みな描き方をしていて、それで好きなんだよなあ。さて、誰のことでしょー。(笑)


すんません、ほんっとくだらないことしか書いてません、わたしのブログって。ええ。ほんとに。(爆)

配慮配慮と言うけれど

2016年06月12日 08:34

シロクマさんの記事に書かれていた、末尾に書かれる「ありがとうございます」という蛇足的な言葉とは違うかもしれないけど、友人のブログで起きた諍いのことを思い出した。その友人のブログはここでリンクはしないけど、一部の人にはリンクはらない理由はわかるかと思う。(笑)

友人のブログでは書き手が書く末尾の言葉ではなく、書き込みをしてきた読者のコメントの末尾に書かれた言葉が諍いの原因となったわけだけど、それはつまり書き込みする上でのコメント者の配慮ともいうべき言葉で、はたからみれば確かに配慮としては当たり前の言葉で、それに対してブログ主が不愉快になるってことは意味がわからないと見る第三者は多いでしょうね。で、友人のブログで起きた諍いの原因となった書き込みは、そのコメントがそこに書かれることはそのブログに対してふさわしくないのではないか、もしそうならば削除してくれという内容だったんですよね。それに対して友人は、ふさわしいかふさわしくないかはこっちが決めることであり、わざわざそんな言葉は書かなくてもいい、そんなふうに思うのではあれば最初からコメントを書くな、不愉快だと言い切ったわけです。今思うと、友人のその言葉は言っていいことではないと思うんだけど、友人は思ってることをそのままズバリと言ってしまう傾向があり、そのせいで過去に何度もトラブルに遭ってるわけですね。だから、コメント書かれた人だけでなく、書き手である友人も末尾にそんな非難の言葉を書かなければ、書き込みされた人を怒らせて「もう二度と書き込みしません」とはならなかったんだろうと思う。

よかれと思って発した言葉が、相手を激昂させたことは多くの人が経験していると思う。それは、想像の範囲を超えた出来事ではあるんだろうけど、わたしのように「なんでこんなことで怒る」ということで怒ってしまうタイプの人間だから、どんな優しい配慮ある言葉であっても誰かを怒らせてしまうことはあるんだとわかっているわけ。だから、誰かがわたしの書いた物で理不尽に怒ったとしても、ま、しょうがないかと今は思えるようになってきた。お互い様だよね、って。そうでも思わなきゃ、何も書けなくなるしねえ。だからまあ、シロクマさんの書かれた当該の記事だって、誰かは、つまりは、ブログの末尾に「最後までお読みいただきありがとうございました」「気に入った方はお気に入り登録よろしくお願いします」とかいう言葉を書くブログの人を不愉快にさせることはある。でも、そういった誰かを傷つけるリスクをリスクとも思ってないのがシロクマさんなんだろうな。そうじゃなきゃそんな記事は書けないでしょ。どんなものを書いたとしてもどこかの誰かは傷つく。そんなことはわたしも何度も経験してきたし、逆にわたしも傷ついてきた。でも、傷つけても傷つけられてもわたしは書くことをやめられない。それは友人も同じだ。誰かに「もう二度とと書き込みしません」とか「もし私のブログを見つけてももう来ないで下さい」とか「私はあなたと再び言葉を交わすつもりはありません」とか、そんな非難をされて血の涙を流したとしても、それでも書くことをやめられない、なんとも業の深いことだなあと思わないではいられないですよね。

書く、ということはそれくらいの覚悟がないといけないよなあって思う。どんなに気楽に書いていたとしても、どんなに素晴らしいものを書いていたとしても、どんなに粗悪なものを言いたとしても、読んだ人がどんな人かわからない場所で書くのだもの、必ず傷つくことはある。そして自分も誰かを傷つけることもある。書き続けたいのなら、それをゆめゆめ忘れずにいなくちゃね。とはいえ、そうは言っても思わないではいられない。そりゃあ配慮は必要だと思う。けど、反面、本当なら配慮なんていらない世界であってほしいって、物書きであるわたしはそう思う。そうであってほしい。

あのアカウント

2016年05月24日 08:26

以前運営していたMIDIサイト名があのアカウント名と同じだったんだけど、あのMIDIサイトもサービス終了でサーバーが使えなくなったからなくなってしまったんだよなあ。今では18禁サイトの扉にひっそりとバナーだけがはってある。だからまあ、あのはてなIDがわたしであることがわかる人はほとんどいないだろうな。

わたしの好きは

2016年04月05日 08:43

「好き」を表明するハードルなんて、低ければ低い程いい: 不倒城

しんざきさんが言っていることと少し違うのかもしれませんが、わたしも昔から好きな作家やアーティストに対して自分の好きな気持ちをとうとうと語るほうで、どちらかというとわたしの好きはミーハーな感じなので、他のファンの人たちからはけっこう批判的な目で見られていたものでした。ガクトさんに対してもなんですけど、中島さん(栗本薫)のことで熱く熱く語っていた頃は、わたしは作者をダメにするファンというレッテルを貼られたりしてました。作者をダメにするファンって何だよと当時だけでなく今でも思ってますが、その人たちがそう思いたい気持ちも、今はわからないではないです。その人たちにとっては変化する前の作者の作品が好きであったのだから、それを変えてしまったかもしれないファンを認めたくないというのもしかたないかなあって。まあ、わたしだったら、自分の好みだった作者が変わってしまって好みじゃなくなったら、とっとと見切りつけてその作者からは離れて、新しい好みの誰かを探しますけどね。で、それを「本当の好きじゃない」と言われてしまったりするんでしょうけど、別にいいじゃない。好きに嘘も本当もないでしょって。好きは好きなんだからさ。

ただ、最近では、昔、日記でガクトさんや中島さんのことを取りあげて、どれだけ自分がその人たちの作り出す作品や世界観や考えを好きなのかを語り倒していたのですけど、今はほとんどそういうことをしていません。中島さんは亡くなってしまったし、ガクトさんに至っては、好きという気持ちはなくなってはいないけれど、昔ほどの熱狂的な思いはなくなっていると自分でも感じています。ガクトさんのことを語り倒すことが今はできない。時間的にも無理ではあるんですが、時間がなくても語りたくてしかない場合は語り倒すのがわたしであるので、やっぱりそれほどの気持ちが今はないということなんでしょう。それでも、実は語りたいとは言わないまでも、最近好きになってきた作者さんたちのことを「この人好きなんですよね。これこれこういうとこが」とちょっと語りたいという気持ちも出て来てはいるんですけど、なかなか書けない。中貫さんのことは書いてるんですけど、他にも何人かいるんですよね、作者買いをしている漫画家さん。その人たちの作品がどうして好きなのかを昔のわたしだったらしつこいくらい日記で書いたと思うんですけど、やっぱ少し「あなたは作者をダメにする」と言われたことがトラウマになってるのかもしれないなあと思ったりしてます。

まあ今は、とにかくガーディアンを完結させることを考えなくてはならないから、何かについて語るというのもそれからになりますけど。てか、これ、本家のブログで書けばよかったかな。しんざきさんの記事にほとんど関係ない内容となったから、それ外して本家に転載しとくか。(笑)

トキメキをください

2016年04月03日 10:56

今年に入ってから毎月のように病院にお世話になることがあって、最近の体調不調も何となく以前に覚えのある感じだよなあと、2002年の日記を読み返しています。あの時の不調もいろんな検査してもらっても原因がわからず、最終的に婦人科で、どうもホルモンバランスのせいだとなったんですけど、恐らく、今回のこのもやもやした不調もそれじゃないかと思っています。

やばいです。更年期障害なのかも。(笑)

これ、楽しいこと考えたり、トキメキを持つとか、そういうことでしか乗り越えられないと聞きました。まあ、あまりにひどい症状ならば婦人科で薬など処方してもらって治療をしないといけないんでしょうけど、わたしのはそれほどひどいわけじゃない。気の持ちようで少し浮上したりするわけだから、わたしの気持ちひとつで何とかなるのかなあと思っています。それもあっての日記の読み返しなんですけど。ただ、そのせいで小説の続きが書き出せてない。どうにかしないとなあ。今年中に書き上げたいのに。

で、蛇足ながら、当時、地元の新聞に掲載していただいた文章の一部を以下紹介。(笑)

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人というものは、いつか必ず死に行くものです。とはいえ、今回の義父の死はこれまでにないほどの衝撃を私に与えました。様々な事を考えさせ、そして、私と孫を一番かわいがってくれた義父であるので、とても悲しく思ったものです。
もちろん、私などよりも血の繋がった息子である夫が、そして妻である姑が一番辛い思いをしていることはわかっているのですが、私は義父に気質が似ているところがあるので、おこがましくも一番義父の気持ちを理解することができると信じています。
今はただ、年の暮れをひっそりと過ごし、義父との短い思い出を思い起こそうと思っています。そして、来年何が起こるかこれもまたわかりませんが、きっとまた夢を追い続け、何かしらの創作活動はしていくことでしょう。ただ、精一杯生きていこうと思っていることは確かです。まだ幼い息子のためにも、愛する家族のためにも。

皆さんにも明るい年が訪れますよう、心から願っております。いつも応援してくださる顔も知らない人々、私の拙い書き物を心待ちにしてくださる人々に支えられて、私はこれからも死ぬまで書きつづけていこうと思っております。本当にありがとうございました。そして、これからも何卒よろしくお願い致します。

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今回はわたしの血の繋がった父の死ですから、義父よりも悲しみは大きくなるはずだったのですけど、父の場合は長くないなという予感はずっとあったので、死んだと聞いた時も、衝撃や悲しみよりも、ああ、とうとうきたか、程度で、そんなに自身の心に打撃を受けはしなかったと思います。でも、時が過ぎるにつれ、昔のことを思い出すことが多くなってきた昨今、あの時、傍らにいた父がもうこの世のどこにもいないのだと思った時、何ともいえない気持ちになることをとめることができません。悲しいとも辛いとも言えない、いえ、言えるのかもしれないけれど、どうもこの感情がどういったものかをうまく表現できないもどかしさを感じてしまう。それは、何人かの死んでいった知り合いの人たちのことを思い出す時に感じる気持ちと同じなんですよね。

やっぱり、人の死、とくによく見知った人の死は引きずられます。引きずられたくないと思っていてもどうしても。
困ったな。
楽しいこと考えたいのに。
トキメキを感じたいのに。
昔だったら、夢にガクトさん出てきて慰めてくれたのになあ。(笑)
てか、最近でもガクトさん夢に出てきて、ほんわかいい気分になったんだけど、いかんせん、内容を思い出せなくて悔しかった。
ガクトさーん、また夢であの歌うたってくださいよー、耳元で。(笑)

もういない

2016年02月12日 10:48

昨日は病み上がり後の出勤ということで5時で帰ったわけですが、買物はして帰らないといけないんで、いつものように買物して帰ろうとしたら、ワゴンセールのDVDをちょっと眺めてから帰ろうとした。その中に「がんばれベアーズ特訓中」を見つけ、突然、「ああ、お父さんはもういないんだな」となって、涙が出そうになった。なんだろう、悲しいとも淋しいとも違う感情からくる涙。わたしを生み出してくれた一人がこの世界のどこにももういないんだという事実を思い知った瞬間。いずれ、その片方である母もいなくなる。わたしの存在の根源。それらが消失してしまう。その事実にショックを受けたというかなんというか。この感情はいったいなんだろうな。よくわからないんだけど。

小学生だったか、中学生だったか。お父さんに連れられてよく映画館に行った。「がんばれベアーズ」はそのうちのひとつ。当時はとても大好きだった友達と一緒に連れてってもらったよなあ。確か「グリズリー」も連れてってもらったような気がする。ああ、それに、いつだったかの誕生日のプレゼントに「フラッシュゴードン」のレコードも買ってもらった。映画のことを思い出すとやっぱり父のことを思いだす。それは母も。父の場合は幼い頃に、母は大人になってからよく一緒に観に行った。映画となると両親を思い出す。それくらい映画と両親は切っても切れない関係がある。

なんかほんとまじ泣けてくる。
父はもういない。
どこにもいない。

死にたいと思うわけ

2016年01月31日 08:16

「死ぬ瞬間、最も辛い病気は何か | mixiニュース」で見たのだけど、その痛みの王様である急性膵炎にわたしもなったことがあった。あれって激痛過ぎて、それを痛みと言うよりもショックと言った方がいい感覚だったよなあと、後で思い出してみると思ったものだったな。何かで内臓を殴られたような痛みというか、そんな感じ。そうか、わたしもあのままだったら死んでたんだなあって。

去年の今頃も、そして今回も、腸感冒になったわけで、去年もだったろうなあと思うんだけど、今回も「こんなにつらいのなら、いっそ死なせて」と願うほど苦しんだ。たかが腸感冒と他人は言うだろうし、自分自身だってそうは思う。自分、今までにももっとつらい症状、もっとつらい検査だってしてきたわけで、それに比べたらと他人も自分も思うんだけど、痛みとかつらさの度合いなんて人それぞれで、ハードルが低すぎる人間にとっては、どんな痛みでも耐えられないんだよね。でもまあ、症状がよくなると、死にたいと思ったことなんて忘れたようにケロッとしてるわけだけど。で、わたしもきっと、これからも死ぬまで似たような経験で、痛みやつらさのたびに「死にたい」「いますぐ死なせて」とか言いつつ、生きていくんだろうなあ。

コメントにも書かれていたように、たぶん死ぬ瞬間は痛みは感じないんだろう。けれど、それまでの痛みやつらさがどれくらい続くはわからないし、一瞬にということはほとんどないと思うから、死ぬ瞬間がどうのこうのなんて意味ないよね。ようは死ぬまでのあの痛みやつらさをどうにかしてなくしたい、それがどうにもできないのなら、もう少し短くしてほしい。それが誰にもどうにもできないとしても。そうじゃないとそうした地獄を感じる前に自らの命を絶ってしまいたい。ほんとにそう思う。それくらいあの痛み、つらさをどうしても感じたくないとわたしは思う。わたしにとってはあれは耐え難い経験。どうして神様はそんな体験をわたしにさせるんだ。そんなにわたしのことを憎んでるのかって思いたいほどに。なんてね、思うに今までのわたしの所業のせいで、こんな経験をさせられてるんだろうなあ。それくらいわたしは罪深い人間なんだろう。自業自得ってことで。



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